土岐元頼
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 明応5年6月20日(1496年7月30日)) |
改名 | 基頼[1]→元頼 |
別名 | 長山四郎(通称) |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐成頼 |
兄弟 |
土岐政房(頼継)、大畑定頼、 佐良木尚頼[1]、元頼、萱津頼房、某(六角高頼の猶子) |
子 | 頼連 |
土岐 元頼(とき もとより、生年不詳 - 明応5年6月20日(1496年7月30日))は、戦国時代の武将。美濃守護土岐成頼の四男。母は側室。通称は四郎。美濃長山城主。
生涯
[編集]宮本家古寺縁起には、明応(1492年 - 1501年)の頃、土岐美濃守政房の弟長山四郎は芥見村権現山の城主にして、大洞願成寺を修復せりとある[2]。
父の成頼は、庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤、小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)[3]。
明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むなく自刃して果てた。
小里氏の祖である土岐頼連は元頼の子とされる[4]。また、明智光秀は元頼と武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘との子であり、大永6年(1526年)8月15日に生まれたという伝承が、山県郡美山の白山神社に伝わっている[5]。