土屋正備
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦8年(1758年) |
死没 | 文政10年11月26日(1828年1月12日) |
別名 | 馬之丞、長三郎(通称) |
官位 | 従五位下・伊予守、筑後守 |
幕府 | 江戸幕府中奥番、使番、目付、佐渡奉行、禁裏付、日光奉行、鑓奉行 |
主君 | 徳川家斉 |
氏族 | 土屋氏 |
父母 | 父:土屋正延、母:不明 |
兄弟 | 正備、細田時豊、、小田切直年妻、向井政和 |
妻 |
先妻:菅沼定庸娘 後妻:建部広般娘 |
子 | 土屋正典 |
土屋 正備(つちや まさよし)は、江戸時代中期の旗本。土屋家の第8代当主。
生涯
[編集]天明5年(1785年)10月6日、父正延の死後、28歳で伊予守を継ぎ、天明8年12月24日(1789年)に中奥番士となる。寛政3年(1791年)9月19日、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の武術台覧において騎射を勤め、放鷹で鳥を射って時服三領を賑う。 寛政11年(1799年)1月11日に使番となり、12月18日に布衣の着用を許される。享和元年(1801年)11月28日に目付、文化3年(1806年)3月4日に佐渡奉行となる。文化6年(1809年)8月12日に禁裏付となり、この間に従五位下・筑後守に叙される。文政元年(1818年)4月24日に日光奉行、文政7年(1824年)8月28日に鑓奉行に就任。文政10年(1827年)11月26日、70歳にて没する。武術家肌の人物であった。
知行所
[編集]- 相模国愛甲郡猿ヶ島村200石(現神奈川県厚木市)
- 下総国葛飾郡栗ヶ沢村104石(現千葉県松戸市)
- 下総国葛飾郡大谷口村236石(現千葉県松戸市)
- 下総国千葉郡中野村86石(現千葉県千葉市)
- 武蔵国横見郡地頭方村107石(現静岡県牧之原市)
- 常陸国鹿島郡武井村200石(現茨城県結城市)
- 武蔵国横見郡山野下村123石(現埼玉県比企郡吉見町)
年表
[編集]- 1758年 - 誕生
- 1785年 - 家督を相続し伊予守を継ぐ
- 1789年 - 中奥番士
- 1791年 - 江戸幕府11代将軍・徳川家斉より時服三領を賑う。
- 1799年 - 使番となる。布衣の着用を許される。
- 1809年 - 禁裏付となり、従五位下筑後守に叙される。
- 1818年 - 日光奉行
- 1824年 - 鑓奉行に就任
- 1827年 - 死去
参考文献
[編集]- 『徳川幕府全代官人名辞典』(東京堂出版、2015年)p.315
- 奈良本辰也『日本の歴史17 町人の実力』中央公論社〈中公文庫〉、1974年6月。ISBN 4-12-200111-0。新版2005年12月
- 松戸市史 史料編(一)〔大熊家文書〕
- 『寛政重修諸家譜』巻第五百五十一
- 松戸の江戸時代を知る②城跡の村の江戸時代-大谷口村大熊家文書から読み解く-
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