土屋宗遠
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 大治3年(1128年)? |
死没 | 建保6年8月5日(1218年8月27日)? |
別名 | 三郎 |
墓所 | 神奈川県平塚市土屋 大乗院南 |
官位 | 左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝、頼家、実朝 |
氏族 | 桓武平氏良文流、中村氏、土屋氏 |
父母 | 父:中村宗平 |
兄弟 | 中村重平、土肥実平、宗遠、二宮友平、岡崎義実室、伊東祐親室 |
子 | 宗光 |
土屋 宗遠(つちや むねとお)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の相模国土屋の武将。中村宗平の三男。土肥実平の弟。桓武平氏系土屋氏の創祖。
生涯
[編集]平氏の流れを汲む中村氏の一族で、相模国大住郡土屋(現在の神奈川県平塚市土屋)を拠点とした。兄・実平とともに治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人であるとも言われている。石橋山の戦いの後頼朝の使者として甲斐源氏のもとに赴いた。以後、有力御家人の一人として活躍した。承元3年(1209年)5月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江の辺で殺害し、侍所別当の和田義盛のもとに出頭して身柄を預けられた。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍・源実朝は故頼朝の月忌にもあたっていたため、特に彼を赦免している。