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土佐光元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土佐 光元(とさ みつもと、享禄3年(1530年) - 永禄12年(1569年))は、室町時代後期から戦国時代にかけて活動した土佐派絵師官位従五位下左近衛将監

略歴

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土佐光茂の長男として生まれる。天文10年(1541年従五位下左近衛将監に叙任される。永禄3年11月11日1560年12月8日九条稙通が叔父・三条西公条による源氏物語講釈聴講終了を記念し、光元に「紫式部石山詣図」(宮内庁書陵部蔵)を描かせる[1]。他にも、宮中に向けて扇面画なども手掛けた[2]。永禄12年(1569年)8月木下藤吉郎但馬攻めに加わったものの、その陣中で死去した[3]。享年40。光茂は、弟子の玄二(土佐光吉)に土佐家の所領や粉本を譲り3人の遺児の養育を依頼するが、この遺児のその後は不明で土佐家直系は絶えた。

光元筆の伝承を持つ作品は幾つかあるが、確実な真筆は前述の「紫式部石山詣図」のみである。作品の少なさは光元が早世したことと、途中から武将として活動したため絵画制作から離れたことが想定される。その画風は、父・光茂の画風の影響が強い。本作は後に「紫式部観月図」などと称される一連作品の最古の作例で、その規範になったと考えられる。それ以外の伝承作品はどれも画風が異なっており、次代の土佐光吉より古様な絵に光元の伝承をつけたのだと考えられる。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
紫式部石山詣図 紙本著色 1幅 85.4x48.2 宮内庁書陵部 三条西公条賛。九条家伝来。上述。
源氏物語画帖 京都国立博物館 伝土佐光元
源氏物語画帖 紙本著色 12図 23.0x20.1(各) 根津美術館 室町末期から桃山時代 伝土佐光元。第9図以下は紙焼けが激しく、元は屏風に貼られていたか。光吉以前と以降の源氏絵が混ざったやや古様な作風[4]
酒飯論絵巻 静嘉堂文庫美術館 伝土佐光元
一の谷合戦図屏風 伝土佐光元
束帯天神図 絹本著色 1幅 94.7x39.8 生身天満宮[5] 室町時代 伝土佐光元。伝後陽成天皇[6]|
源氏物語図屏風 紙本金地著色 六曲一双 166.0x364.0(各) 金刀比羅宮 伝土佐光元。桃山風の樹木表現と土佐派の人物描写から光元筆の伝承がついたようだが、画面上方に「須磨」「明石」「澪尽」といった京から遠方の場面を配しそれぞれを海景でつなぐ画面構成が狩野探幽筆「源氏物語図屏風」(三の丸尚蔵館蔵)に近く、岩左派からの影響も認められることから17世紀狩野派中心に諸派を学んだ町絵師の作か[7][8]

官歴

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地下家伝』による。

脚注

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  1. ^ 『源氏物語竟宴記』(続群書類従完成会校『群書類従』第十七、群書類従刊行会、1993年、所収)。
  2. ^ 御湯殿上日記』永禄六年(1563年)六月一日条。
  3. ^ 『本朝画人伝補遺』
  4. ^ 野口剛 「土佐派源氏絵の一様相 伝土佐光元筆源氏物語画帖」『聚美』VOL.10 2014年冬号、聚美社、pp.62-67。ISBN 978-4-88546-272-6
  5. ^ 宝物の品々 合格祈願の神社 日本最古の生身天満宮
  6. ^ 園部文化博物館編集・発行 『平成14年度秋季特別展 『生身天満宮宝物展』展示図録』 2002年10月26日、第33図。
  7. ^ 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年、第15図。なおこちらではサイズを「149.8x349.6cm(各)」と表記している。
  8. ^ 第9話 伝土佐光元筆 源氏物語図屏風 _ 金刀比羅宮 美の世界 _ 四国新聞社

参考文献

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  • 片桐弥生 「紫式部石山詣図」(宮内庁書陵部蔵)と『源氏物語竟宴記』」静岡文化芸術大学研究推進委員会編集 『静岡文化芸術大学研究紀要 二〇一三』第14巻、静岡文化芸術大学、2014年3月31日、PP.176-168
  • メリッサ・マコーミック 井戸美里訳 「「紫式部石山詣図」における諸問題 ―和と漢の境にある紫式部像―」『国華』第1434号、2015年4月20日、pp.5-21。ISBN 978-4-02-291434-7
  • 正宗敦夫編『地下家伝』日本古典全集刊行会、1938年