国司伍七
国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5月26日[1][2]) - 1939年(昭和14年)10月25日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・松岡。
経歴
[編集]山口県出身[1][2][3]。松岡百合松の五男として生れ、国司順正陸軍少将の養子となる[1]。山口高等中学校中退、成城学校を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業[1][2][3](歩兵科首席[4])。同年9月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる[1][3]。日清戦争に1895年(明治28年)4月から11月まで出征[1]。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を優等[5]で卒業[1][2][3]。
1902年(明治35年)11月、参謀本部出仕となり、参謀本部員を経て、1903年(明治36年)4月から翌年4月までドイツに駐在[1]。1904年(明治37年)6月、満州軍参謀(兵站)に発令され日露戦争に出征した[1][2]。1905年(明治38年)4月、歩兵少佐に昇進し第10師団参謀に就任[1]。
1906年(明治39年)2月から1908年(明治41年)12月までドイツに駐在[1]。帰国後、近衛歩兵第3連隊付となり、1909年(明治42年)11月、歩兵中佐に進級し歩兵第42連隊付となる[1]。1912年(明治45年)2月、陸軍戸山学校教官に就任し、陸軍歩兵学校教育部長を経て、1913年(大正2年)8月、歩兵大佐に進級[1][3]。
1915年(大正4年)8月、歩兵第23連隊長に就任し、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級し参謀本部第4部長に着任[1][2][3]。1922年(大正11年)8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官となった[1][2][3]。1923年(大正12年)8月、第7師団長に親補され、1926年(大正15年)3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 吉橋徳三郎 - 国司と論争の末に自殺した陸軍少将