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歩兵第42連隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
歩兵第42連隊
創設 1896年明治29年)12月
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
部隊編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 広島 - 山口
編成地 広島市
通称号/略称 鯉5175
最終上級単位 第5師団
最終位置 アラフラ海 アルー諸島
戦歴 北清事変 - 日露 - シベリア出兵 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第42連隊(ほへいだい42れんたい、歩兵第四十二聯隊)は、大日本帝国陸軍連隊のひとつ。日清戦争後の1896年(明治29年)に広島で編成、編成後衛戍地山口に移す。1898年(明治31年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団太平洋戦争時の通称号は「鯉5175」。

秋吉台で演習を行っていた。

沿革

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第5師団に属し、北清事変日露戦争シベリア出兵に参戦する。

1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、所属の第5師団は7月27日支那駐屯軍隷下となり華北に出動、チャハル作戦太原攻略戦に参戦し、更に華南に転じ広東攻略戦では広州の南の虎門に上陸し占領した。1940年(昭和15年)9月には北部仏印進駐、同年11月仏印ハノイに進出する。その後内地に戻り佐世保での上陸訓練の後、昭和16年(1941年)11月に海南島に集結、12月8日の太平洋戦争開戦と同時にタイ領のバタニに上陸しマレー攻略戦に参戦した。続いてシンガポール攻略戦に参戦、第5師団の中核部隊として攻略に寄与した。

攻略後はマレー半島の警備に従事、1945年(昭和20年)アルー諸島に集結中に終戦を迎える。

主な出来事

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  • 1914年(大正3年)7月15日 - 特命検閲で演習中に熱射病となる者多数。死者7人、重症者数十人[1]

歴代連隊長

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歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 水野勝毅 1896.9.25 - 12.28
2 南部辰丙 1896.12.28 - 1897.10.11 中佐
3 渡辺章 1897.10.11 - 1901.4.8
4 粟屋幹 1901.4.8 - 1902.5.13
5 本郷房太郎 1902.5.15 - 1904.9.17 中佐、1902.11.大佐
6 堀江不可止 1904.10. - 中佐
7 曽我鏡之助 1906.2.14 - 1910.5.14 中佐、大佐昇進
8 栗田直八郎 1910.5.14 - 11.30
9 三原三郎 1910.11.30 - 1915.10.4
10 鵜飼素行 1915.10.4 - 1916.11.15
11 松井兵三郎 1916.11.15 -
12 石川忠治 1918.6.1 -
13 永野為孝 1922.8.15 - 1923.8.6[2]
14 原田貞吉 1923.8.6 - 1925.5.1
15 川瀬亨一 1925.5.11 -
16 嘉村達次郎 1928.3.8 -
17 山口正凞 1930.8.1 -
18 赤松寅七 1932.4.11 -
19 国崎登 1934.3.5 -
20 天谷直次郎 1935.3.15 -
21 大場四平 1937.8.2 -
22 坂田元一 1938.7.15 -
23 安藤忠雄 1940.12.1 -
24 西原修三 1942.4.1 -
吉川章 1944.3.1 -

脚注

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  1. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、394頁。ISBN 4-309-22361-3 
  2. ^ 『官報』第3306号、大正12年8月7日。

参考文献

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  • 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
  • 原 剛『明治期国土防衛史』錦正社、2002年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 官報
  • 『山口県史 史料編 近代2』山口県、2010年。

関連項目

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