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喜多村親守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜多村親守
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦5年(1755年
死没 天保5年7月12日1834年8月16日
別名 久隆、監物、源八
墓所 青森県弘前市貞昌寺
主君 津軽信明寧親信順
陸奥弘前藩
氏族 喜多村氏
父母 喜多村久敬
兄弟 親守、鉄之助
西館織部妹
久武
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喜多村 親守(きたむら ちかもり)は、江戸時代中期から後期にかけての弘前藩士。

生涯

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天明5年(1785年)に家老となると、天保5年(1834年)に没するまで50年間1200石家老職にあった。慎重緻密かつ忠誠の士として知られた。

津軽信寧の跡目争いでは寧親の相続を強硬に主張した。享和2年(1802年)には開発御用掛として、新田開発にも努めた。子高と号す俳人でもあり、寧親の相手をしていた。その句に「みのる田の末はいづこぞ眼の力」「譲り合ふ畔のこなたや初蛙」。跡は養子の久武ではなく、孫の久隆が継いだ。

系譜

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参考文献

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  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社