喜多村親守
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦5年(1755年) |
死没 | 天保5年7月12日(1834年8月16日) |
別名 | 久隆、監物、源八 |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽信明→寧親→信順 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 喜多村氏 |
父母 | 喜多村久敬 |
兄弟 | 親守、鉄之助 |
妻 | 西館織部妹 |
子 | 久武 |
喜多村 親守(きたむら ちかもり)は、江戸時代中期から後期にかけての弘前藩士。
生涯
[編集]天明5年(1785年)に家老となると、天保5年(1834年)に没するまで50年間1200石家老職にあった。慎重緻密かつ忠誠の士として知られた。
津軽信寧の跡目争いでは寧親の相続を強硬に主張した。享和2年(1802年)には開発御用掛として、新田開発にも努めた。子高と号す俳人でもあり、寧親の相手をしていた。その句に「みのる田の末はいづこぞ眼の力」「譲り合ふ畔のこなたや初蛙」。跡は養子の久武ではなく、孫の久隆が継いだ。
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社