喜多村宗則
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 万治元年(1658年) |
死没 | 天和2年6月3日(1682年7月7日) |
改名 | 北村宗則→喜多村宗則→津軽政広 |
別名 | 津軽政広、津軽監物、源八 |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽信政 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 北村氏→喜多村氏 |
父母 | 北村宗好 |
兄弟 | 滝川統伴、宗則 |
妻 | 山鹿素行三女・鶴 |
子 | 政方 |
喜多村 宗則(きたむら むねのり)は、江戸時代前期の弘前藩の家老。別名、津軽監物、津軽政広。
生涯
[編集]津軽信政に小姓として召し出され信頼篤く、延宝5年(1677年)、藩主の命により姓を「北村」から「喜多村」に改め、500石を与えられた。同年12月26日、藩主の師である山鹿素行の三女・鶴との婚姻が決まり、翌年の正月26日結婚した。
延宝6年(1678年)、300石の加増で800石となり、馬廻五番組頭となり、延宝9年(1681年)、藩主・信政より「政」の偏諱を貰い「宗則」から「政広」と改めた。同時に津軽姓も許され、津軽監物政広と名乗る。
天和2年(1682年)正月、江戸家老に任命されたが、6月に江戸にて25歳で病没した。
嫡男・政方は父の死から2か月後の8月に出生した。父が藩主の寵臣であったこともあり、減封の上で同年11月に家督相続が認められた。
妻の兄弟の政実は延宝9年(1681年)に弘前藩に1000石で仕官、津軽姓を許され津軽大学と名乗り、のち家老職。
著書
[編集]- 「戦略応変」
- 「家伝綱領要集」
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社