北村宗好
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永6年(1629年) |
死没 | 元禄5年(1692年) |
改名 | 藤九郎、滝川主水 |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽信義→信政 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 北村氏 |
父母 | 北村宗容 |
妻 | 前田名次右衛門娘 |
子 | 滝川統伴、喜多村宗則 |
北村 宗好(きたむら むねよし)は、江戸時代前期の弘前藩士。同藩家老職。瀧川主水。
生涯
[編集]正保元年(1644年)2月、父の北村宗容が500石加増の上で弘前藩家老職となり、宗好も証人役となった。慶安元年(1648年)1月17日、正保の騒動の遺恨により、父の宗容が城内で村山七左衞門(村山滋朝)に殺害されたため、3月7日に18歳で家督1千石を継ぎ、家老となった。
承応元年(1652年)3月4日、年寄役に就任した。藩政において岩木川改修工事や延宝4年(1676年)6月15日に下新田開発を建白するなどの手腕を振った。後に家老に昇進し、弘前藩三家老「仏の弥右衛門(北村宗好)、鬼の庄兵衛(進藤正次)、どっちつかずの治大夫(渡辺政敏)」と呼ばれた。延宝6年(1678年)1月26日、藩主に寵愛され、前年に500石を与えられ「喜多村」と改姓するよう命じられていた次男の喜多村源八(宗則。のち藩主の信政から一字を拝領し監物政広)が、藩主の師である山鹿素行の三女鶴と江戸にて婚姻した。5月10日には江戸表にて府下乗物御免を許された。
延宝8年(1680年)10月6日、宗好ら三家老が老齢のため家老を退き、(名誉職として)表書院番に就いた。元禄5年(1692年)10月5日、病没。
長男の瀧川統伴が後を継いだ。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社