和泉市蔵
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和泉 市蔵 | |
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生誕 |
1885年6月13日 日本 香川県 |
死没 | 1968年6月11日(82歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1937年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 大日本赤誠会速見郡支部長 |
和泉 市蔵(いずみ いちぞう、1885年(明治18年)6月13日[1] - 1968年(昭和43年)6月11日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]香川県出身[1]。陸軍士官学校第18期卒業[1]。1923年(大正12年)3月、陸軍歩兵少佐に進級し[2]、同年9月時点で歩兵第18旅団副官(第16師団[3][4])の任にあった[2]。1925年(大正14年)12月に歩兵第19連隊大隊長に就任し[5]、1927年(昭和2年)7月、陸軍歩兵中佐進級と同時に歩兵第37連隊附となり[6]、大阪外国語学校兼第五臨時教員養成所服務に転じた[6]。
1931年(昭和6年)3月、歩兵第21連隊附に移り[7]、1933年(昭和8年)8月、 陸軍歩兵大佐進級と同時に近衛師団司令部附となり[8]、日本大学に配属された[8]。1935年(昭和10年)12月に大分連隊区司令官に就任したが[1]、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍少将進級と同時に待命[1][8]、8月22日に予備役に編入された[1]。
予備役編入後は大日本赤誠会速見郡支部長に就任し、積極的な活動を展開した[9]。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に大分県第2区から赤誠会所属で出馬したが、翼賛政治体制協議会の非推薦候補(いわゆる「自由候補」)のため、警察から圧迫を加えられたこともあり次点で落選した[10][11]。
戦後は公職追放を経て[12][注 1]、後に傷痍軍人会、恩給連盟などの活動に携わり、1968年(昭和43年)6月11日に急性肝炎で死去[13]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[14]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 追放事由は「赤誠会支部長」。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 福川 2001, 73頁.
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正12年9月1日調213頁
- ^ 外山・森松 1987, 310頁.
- ^ 外山・森松 1987, 311頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調169頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調163頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和6年9月1日調98頁
- ^ a b c 外山 1981, 237頁.
- ^ 社会問題資料研究会 1975, 64頁.
- ^ 『東亜国政』五月号、東亜国政社、1942年5月、98頁。
- ^ 野依 1953, 193頁.
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、196頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『偕行』第206号、陸修偕行社、1968年8月、22頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 社会問題資料研究会 編『思想実務家会同議事録 控訴院管内思想検察会同議事録(長崎)』東洋文化社、1975年 。
- 野依秀市 著『勝敗』実業之世界社、1953年 。