コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

和佐範遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
和佐大八郎から転送)
 
和佐 範遠
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文3年(1663年
死没 正徳3年3月24日1713年4月18日
別名 大八良、大八郎、大八
戒名 到蓮院安誉休心居士
墓所 和歌山県田辺市 浄恩寺
和佐家累代墓所(和歌山市禰宜)
幕府 江戸幕府
主君 徳川光貞綱教頼職吉宗
紀伊国紀州藩射手役、頭役並
氏族 大伴姓[1]和佐氏
父母 父:和佐実延
兄弟 範遠
貞恒
テンプレートを表示

和佐 範遠(わさ のりとお)は、江戸時代前期の紀州藩士。紀州竹林派弓術家であり、通し矢の天下一。

生涯

[編集]

出生

[編集]

寛文3年(1663年)、和佐森右衛門実延の子として、紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山県和歌山市和佐)に生まれた。父実延は、紀州竹林派佐武源大夫吉全弓術の弟子だった。範遠も紀州竹林派吉見台右衛門経武(法名:順正)[2]に師事し弓術を学んだが、技量が優れていたので藩より稽古料を給された。

貞享2年(1685年)11月、父は借金で問題を起こし禄を召し上げられたが、範遠は許された。

天下一

[編集]

貞享3年(1686年)4月27日、京都三十三間堂大矢数を試み、総矢数13,053本の内、通し矢8,133本を記録し、それまでの記録である尾張藩星野勘左衛門の通し矢8,000本を射越し(記録更新し)、天下一となった[3]。以後この記録は以後破られることはなかった[3]。だが、フェア・プレイの精神に欠けるところあり、射る度に少しずつ前へ進んだという[4]

範遠は記録達成の功績により知行300石に加増された。その後貞享5年(1688年)には綱教附の射手役となり200石を加増された。

元禄8年(1695年)には頭役並となった。この間、元禄2年(1689年)3月には師の吉見順正から印可を得た。

失脚

[編集]

宝永6年(1709年)3月13日、安藤陳武に預けられ田辺城に幽閉された。 正徳3年(1713年)3月24日、失意のうちに、病に罹り田辺城内の長ヶ蔵で死去。享年51。遺跡は長男貞恒が継いだ。和佐家は以降も代々藩の弓術師範役となり存続した。

範遠の愛用したが、浄恩寺に2つ保管されている。一つは享保3年(1718年)に範遠の子が納めたもので、もう一つは範遠の250回忌を記念して子孫が納めたもので三十三間堂の通し矢に使用されたと伝わっている。

逸話

[編集]

貞享3年(1686年)4月27日の京都三十三間堂での大矢数の際、前日暮れ六つ(午後6時)から開始したが、翌朝ごろ調子が悪くなり通し矢が少なくなった。そこに当時の天下一の記録保持者星野勘左衛門茂則が現れ、範遠の左手を小刀で切ってうっ血を治したところ調子を取り戻したという[5]

脚注

[編集]
  1. ^ 丹波霧の里>和歌山雑賀崎・番所の鼻/秋葉山公園/熊野古道・中筋家~高積山~城ヶ峰(和佐山城) - 和佐大八郎の墓所。俗名和佐大八良大伴範遠とある。
  2. ^ 現代の弓道で重要視される『射法訓』の作者。実延も後に師事している。
  3. ^ a b 和佐大八郎」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E4%BD%90%E5%A4%A7%E5%85%AB%E9%83%8Eコトバンクより2023年3月19日閲覧 
  4. ^ 日本史人物総覧 190頁
  5. ^ 岡井満 著、宇野要三郎 編『現代弓道講座』 第3巻射法編(下)、雄山閣(原著1994年11月)、154頁頁。 

参考文献

[編集]
  • 家臣人名事典編纂委員会(編集) 『三百藩家臣人名事典』 新人物往来社、1989。
  • 今村嘉雄・小笠原清信・岸野雄三(編) 『弓術・馬術』(日本武道全集第3巻)、人物往来社、1966。
  • 宇野要三郎(監修) 『現代弓道講座』第1巻(総論編)、雄山閣出版、1970。

関連項目

[編集]
映画
漫画
  • 弓道士魂』(平田弘史 1969年 - 1970年
    • 『弓道士魂―京都三十三間堂通し矢物語』(レジェンドコミックシリーズ―平田弘史作品 (7) マガジン・ファイブ 2006年)などに収録。