コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

王塚古墳 (神戸市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田王塚古墳から転送)
王塚古墳

墳丘全景(左に前方部、右奥に後円部)
別名 吉田王塚古墳/玉津王塚古墳
所在地 兵庫県神戸市西区王塚台3丁目
(王塚公園内)
位置 北緯34度40分20.52秒 東経134度58分19.68秒 / 北緯34.6723667度 東経134.9721333度 / 34.6723667; 134.9721333座標: 北緯34度40分20.52秒 東経134度58分19.68秒 / 北緯34.6723667度 東経134.9721333度 / 34.6723667; 134.9721333
形状 前方後円墳
規模 墳丘長69m(推定復原74m)
埋葬施設 不明
出土品 円筒埴輪形象埴輪
陪塚 (伝)3基
(宮内庁治定)2基
築造時期 5世紀初頭
被葬者宮内庁推定)舎人姫王
陵墓 宮内庁治定「玉津陵墓参考地」
地図
王塚古墳の位置(兵庫県内)
王塚古墳
王塚古墳
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

王塚古墳(おうつかこふん、吉田王塚古墳/玉津王塚古墳)は、兵庫県神戸市西区王塚台にある古墳。形状は前方後円墳

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「玉津陵墓参考地」(被葬候補者:第31代用明天皇皇子当麻皇子妃舎人姫王)として陵墓参考地に治定されている。

概要

[編集]
明石地域の有力首長墓
古墳名 形状 規模 築造時期
白水瓢塚古墳 前方後円墳 墳丘長56m 4c初頭
五色塚古墳 前方後円墳 墳丘長194m 4c後半
王塚古墳 前方後円墳 墳丘長74m 5c初頭

兵庫県南部、明石川右岸の印南野台地の東縁部に築造された古墳である。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあり、2000年度(平成12年度)には宮内庁書陵部により墳丘裾部で発掘調査が実施されている[1]

墳形は前方後円形で、前方部を南方向に向ける。墳丘の段築は現在では認められないが、元は3段築成と推定される[1][2]。推定墳丘長は約74メートルを測り、明石地域では五色塚古墳(神戸市垂水区)に次ぐ規模になる[2]。墳丘外表では、葺石(主に明石川から採石)や円筒埴輪形象埴輪(家形・盾形・蓋形・壺形埴輪)が検出されている[1][2]。墳丘周囲には墳丘と相似形の周濠が巡らされているが、元来の濠の形状は詳らかでない[1]。埋葬施設は明らかでない[3]。また、周辺には陪塚として3基が存在したと伝えられ、うち2基が現存し王塚古墳同様に宮内庁の管理下にある[4]

この王塚古墳は、古墳時代中期の5世紀初頭[5](または5世紀前半[2])頃の築造と推定される。明石川流域では白水瓢塚古墳(神戸市西区伊川谷町潤和)に続く首長墓に位置づけられ[6][3]、旧明石郡域で見ると五色塚古墳に続く首長墓に位置づけられる[7][8]。五色塚古墳に続く古墳でありながら、明石海峡から離れるとともに規模を縮小する点[7]、および五色塚古墳の大規模な埴輪生産体制が継承されていない点[8]が注意される。なお王塚古墳の周辺では古墳時代前期-中期の集落遺跡の吉田南遺跡があり、王塚古墳の被葬者の居館の存在可能性が指摘される[7]

墳丘

[編集]
王塚古墳の航空写真(1985年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

墳丘の規模は次の通り。値は宮内庁の測量図に基づく[4](括弧内は推定復原値[1][2])。

  • 墳丘長:69メートル(推定74メートル)
  • 後円部 - 3段築成か。
    • 直径:38メートル(推定44メートル)
  • 前方部 - 3段築成か。
    • 幅:34メートル(推定42メートル)

2000年度(平成12年度)の調査において墳丘裾部の全周が削り取られていることが判明しており、括弧内はそれを加味し復原した場合の値になる[1]

被葬者

[編集]

本古墳の被葬者は明らかでない。宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地に治定しているが、被葬候補者として用明天皇(第31代)皇子の当麻皇子の妃の舎人姫王(とねりのひめおおきみ、舎人皇女<とねりのひめみこ>)が想定されている[9]。この舎人姫王は飛鳥時代の皇族で、『日本書紀推古天皇紀によれば、推古天皇11年(603年)に夫の当麻皇子が征新羅将軍として出征する際に付き従ったが、同年7月にその途上の播磨の赤石(= 明石)で薨じ、赤石の「檜笠岡の上」に葬られたという[10][11]。本古墳が宮内庁により陵墓参考地に治定されたのは、その墓に擬されたことによる。ただし、前述のように本古墳が実際には舎人姫王のはるか以前(5世紀初頭)の築造になることは明らかで、舎人姫王は本古墳の被葬者として不適当であり、また正確な「檜笠岡の上」の所在も未だ詳らかでない[10][11]

陪塚

[編集]

王塚古墳の周囲では陪塚(陪冢)3基の築造が伝えられ、うち次の2基が現存する。

周辺

[編集]
  • 吉田郷土館 - 周辺の遺跡の資料を展示。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 書陵部紀要 第53号 2002, pp. 20–50.
  2. ^ a b c d e 史跡説明板。
  3. ^ a b c d 吉田王塚古墳(兵庫県史) 1992.
  4. ^ a b 王塚古墳(平凡社) 1999.
  5. ^ 明石の古墳 2011.
  6. ^ 新修神戸市史 歴史編1 1989, p. 612.
  7. ^ a b c 春成秀爾 2011.
  8. ^ a b 廣瀬覚 2011.
  9. ^ 外池昇 『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』 吉川弘文館、2005年、pp. 49-52。
  10. ^ a b 舎人皇女(古代氏族) 2010.
  11. ^ a b 『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 540-541。

参考文献

[編集]
  • 史跡説明板(神戸市教育委員会、2012年2月設置)
  • 地方自治体発行
    • 「吉田王塚古墳」『兵庫県史 考古資料編』兵庫県、1992年。 
    • 『新修神戸市史 歴史編1 自然・考古』神戸市、1989年。 
    • 『明石の古墳(発掘された明石の歴史展)』発掘された明石の歴史展実行委員会、2011年。 
      • 春成秀爾「白水瓢塚古墳の女性」廣瀬覚「白水瓢塚古墳と五色塚古墳の埴輪」
  • 事典類
    • 「王塚古墳」『日本歴史地名大系 29-2 兵庫県の地名 2』平凡社、1999年。ISBN 4582490611 
    • 「舎人皇女」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 
  • その他
    • 書陵部紀要 第53号 (PDF)宮内庁書陵部、2002年。  - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
      • 「玉津陵墓参考地墳丘裾・外堤内法裾護岸工事区域の調査」、奥田尚 「玉津陵墓参考地の葺石の石材」。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]