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吉田猪佐喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 猪佐喜
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県
生年月日 1915年7月24日
没年月日 (1982-04-10) 1982年4月10日(66歳没)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1939年
初出場 1939年
最終出場 1952年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 1982年4月10日)は、熊本県出身[1]プロ野球選手。ポジションは外野手1950年から1952年までの登録名は吉田 和生(よしだ かずお)。

来歴・人物

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熊本工業から門司鉄道管理局[1]を経て、1939年名古屋軍へ入団。1938年の綿製品禁止令以降、野球用具の粗悪化が進む中で名古屋軍の中軸を打ち、1940年に3本塁打55打点を記録。以降も名古屋軍の中心打者として活躍するが1944年に召集。

終戦後は5年に渡るシベリア抑留[1]を経て1950年松竹ロビンスへ入団し、6年ぶりのプロ野球復帰となった。その入団した年は木村勉との併用ながら、主に6番打者として当時最強の名をほしいままにしていた水爆打線の一角を担い、91試合出場ながらも[2]4試合連続本塁打を記録する[1]等の活躍を魅せ、自身初の二桁本塁打(13本塁打)を記録。チームをセ・リーグ初のリーグ優勝に導き、以降も松竹の中軸を時折担う等をして活躍。1952年引退。引退後はロビンス交通に勤務した。

1982年4月10日に逝去。享年68。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1939 名古屋
産業
3 7 6 0 1 0 0 0 1 1 0 -- 0 0 1 -- 0 3 -- .167 .286 .167 .452
1940 103 425 378 35 81 12 5 3 112 55 13 -- 0 3 43 -- 1 55 -- .214 .296 .296 .593
1941 82 343 300 32 58 11 4 3 86 35 7 -- 2 -- 40 -- 1 24 -- .193 .290 .287 .577
1942 103 420 382 29 74 12 5 1 99 26 20 6 0 -- 38 -- 0 28 -- .194 .267 .259 .526
1943 83 349 303 25 77 12 2 2 99 30 11 8 5 -- 40 -- 1 16 -- .254 .343 .327 .670
1944 4 16 14 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 -- 2 -- 0 0 -- .071 .188 .071 .259
1950 松竹 91 304 272 36 71 9 2 13 123 49 2 2 0 -- 31 -- 1 47 8 .261 .339 .452 .791
1951 101 428 394 47 91 17 3 5 129 55 9 2 1 -- 31 -- 2 25 12 .231 .290 .327 .618
1952 17 72 68 9 19 6 0 3 34 10 1 0 0 -- 4 -- 0 3 0 .279 .319 .500 .819
通算:9年 587 2364 2117 213 473 79 21 30 684 261 63 18 8 3 230 -- 6 201 20 .223 .301 .323 .624
  • 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業に球団名を変更

背番号

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  • 15 (1939年 - 1943年)
  • 9 (1950年 - 1951年)
  • 5 (1952年)

登録名

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  • 吉田 猪佐喜 (よしだ いさき、1939年 - 1943年)
  • 吉田 和生 (よしだ かずお、1950年 - 1952年)

脚注

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  1. ^ a b c d 森岡浩 『プロ野球人名事典2003』 日外アソシエーツ、2003年、620頁。
  2. ^ 所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編(週刊野球太郎)”. goo ニュース (2018年5月31日). 2020年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月21日閲覧。

関連項目

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