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木村勉 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 勉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県粉河町(現・紀の川市
生年月日 (1921-01-12) 1921年1月12日
没年月日 生死不明
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手捕手投手
プロ入り 1939年
初出場 1939年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明)は、和歌山県[1]出身のプロ野球選手外野手)。

来歴・人物

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粉河中学ではエースを務め、1学年下の伊勢川真澄とバッテリーを組んでいた。

1939年南海軍に投手として入団する[1]が、この年は僅か3試合の出場に留まる。なお、この年は鶴岡一人岡村俊昭といった、後にコーチや監督として南海黄金期を支える人物も入団している。2年目から外野手に転向すると出場が増加し始め、3年目の1941年には捕手に転向[1]。そこでレギュラーとなるが、その年末に応召。

戦後の1946年に南海改め近畿グレートリングに復帰するも、1年で解雇。翌1947年国民リーグ唐崎クラウンに数少ないプロ野球経験者として入団[1]。そこで活躍するも他の3チームと比べると如何せん「野球経験者の少なさ」が影響し、チームは夏季・秋季リーグ共に最下位で終わる。更に国民リーグ自体も解散すると翌1948年太陽ロビンスに入団してプロに復帰[1]。チームが「松竹」と改名した1950年には、この年に再入団した戦前の強打者である吉田和生と併用ながら主に6番打者として打率.292、3本塁打37打点を記録してチームをセ・リーグの初代王者に導く活躍を見せた。

その後、1952年大洋、翌年には広島と1年ずつ籍を置いた後、1954年近鉄パールスに移籍[1]。木村自身長打力はなかったものの、近鉄では当時「ピストル打線」と呼ばれた打線の中軸を小玉明利武智修日下隆等と共に任される事があった。1956年9月2日対東映戦では東映のエース・米川泰夫から日本プロ野球史上初となる初回先頭打者ランニングホームランを記録(これが木村の現役生活最後の本塁打でもある)。1958年に引退[1]。その後は粉河町役場に勤めた。

選手としての特徴

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  • 戦後は主に外野手のリードオフマンとして活躍。また、俊足で1954年には38盗塁を記録している。また三振も少なく、1954年(464打数)に記録した29個が最高。通算4000打数以上で通算202三振は現時点で歴代最小三振数である。
  • 一方で前述の通り長打力はなく、通算本塁打数9本は打数4000以上の選手の中では2009年赤星憲広(3本)に更新されるまで51年間歴代最少数だった。
  • また、プロ入り初本塁打を記録するのに掛かった1422打席(1950年4月16日国鉄戦)も、村松有人に1556打席(1987年4月12日の近鉄戦)に更新されるまで48年間NPB最遅記録であった[1]

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1939 南海
グレートリング
3 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1940 69 237 215 13 46 3 7 0 63 19 5 -- 7 1 13 -- 1 8 -- .214 .262 .293 .555
1941 75 296 263 23 54 8 0 0 62 20 6 -- 4 -- 29 -- 0 11 -- .205 .284 .236 .520
1946 51 187 170 25 45 6 3 0 57 24 11 7 1 -- 16 -- 0 9 -- .265 .328 .335 .663
1948 大陽
松竹
56 148 140 5 38 7 2 0 49 16 4 6 2 -- 6 -- 0 8 -- .271 .301 .350 .651
1949 117 516 484 60 132 12 5 0 154 33 11 8 6 -- 26 -- 0 20 -- .273 .310 .318 .628
1950 102 392 360 63 105 6 3 3 126 37 14 6 2 -- 29 -- 1 10 10 .292 .346 .350 .696
1951 73 275 243 42 72 7 2 0 83 23 9 4 10 -- 22 -- 0 10 7 .296 .355 .342 .696
1952 大洋 100 444 397 43 98 7 1 3 116 31 14 5 2 -- 45 -- 0 19 9 .247 .324 .292 .616
1953 広島 70 250 233 25 48 7 1 0 57 17 8 1 7 -- 8 -- 2 11 11 .206 .239 .245 .483
1954 近鉄 126 524 464 57 132 20 3 2 164 39 38 11 14 1 43 -- 2 29 7 .284 .348 .353 .701
1955 121 480 430 50 117 16 2 0 137 23 17 19 17 2 31 2 0 17 10 .272 .321 .319 .640
1956 135 527 470 64 135 14 9 1 170 22 22 16 12 1 42 0 2 26 3 .287 .348 .362 .710
1957 98 353 320 39 92 9 1 0 103 27 12 10 3 2 27 0 1 19 6 .288 .345 .322 .667
1958 23 48 42 2 4 0 0 0 4 1 0 0 1 0 5 0 0 5 1 .095 .191 .095 .287
通算:15年 1219 4679 4233 511 1118 122 39 9 1345 332 171 93 88 7 342 2 9 202 64 .264 .320 .318 .638
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに球団名を変更
  • 大陽(大陽ロビンス)は、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

年度別投手成績

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W
H
I
P
1939 南海 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 44 8.0 7 0 11 -- 1 6 1 0 5 4 4.50 2.25
1940 2 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 20 3.0 5 0 7 -- 0 1 0 0 5 4 12.00 4.00
通算:2年 5 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 64 11.0 12 0 18 -- 1 7 1 0 10 8 6.55 2.73

記録

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節目の記録
  • 1000試合出場:1956年5月9日 ※史上36人目
その他の記録
  • 初回先頭打者ランニング本塁打:1956年9月2日、対東映フライヤーズ戦 ※史上初[2]
  • 通算三振数202:NPB通算最小記録

背番号

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  • 24 (1939年 - 1941年)
  • 6 (1946年、1952年)
  • 12 (1947年)
  • 7 (1948年 - 1951年)
  • 5 (1953年)
  • 27 (1954年 - 1958年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、191ページ
  2. ^ 週刊ベースボール2014年5月26日号97ページ

関連項目

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外部リンク

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