博恭王妃経子
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博恭王妃 経子 | |
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伏見宮妃 | |
1906年頃 | |
続柄 | 徳川慶喜第9女子 |
全名 | 経子(つねこ) |
身位 | 王妃 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1882年9月23日 静岡県 |
死去 |
1939年8月18日(56歳没) 日本・東京府東京市 |
埋葬 |
1939年8月25日 豊島岡墓地 |
配偶者 | 伏見宮博恭王 |
子女 |
博義王 浅野恭子(恭子女王) 華頂宮博忠王 華頂博信(博信王) 清棲敦子(敦子女王) 知子女王 伏見博英(博英王) |
父親 | 徳川慶喜 |
母親 | 新村信 |
役職 |
陸海軍将校夫人会総裁 財団法人福田会総裁 |
博恭王妃 経子(ひろやすおうひ つねこ、1882年〈明治15年〉9月23日 - 1939年〈昭和14年〉8月18日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王の妃。旧名は、徳川 経子(とくがわ つねこ)。身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。徳川幕府15代将軍・徳川慶喜の9女。母は、側室の新村信。高松宮妃喜久子の伯母にあたる。徳川慶喜の母・吉子女王を通じて、霊元天皇の5世孫でもある。
経歴
[編集]生後まもなく山田友次郎に預けられる。1885年(明治18年)10月、徳川邸に戻る。1889年(明治22年)7月、姉・筆子、妹・糸子ら姉妹6人で静岡から東京に移る。同年9月、華族女学校に入学[1]。1891年(明治24年)4月、明治天皇の第6皇女子・常宮昌子内親王、第7皇女子・周宮房子内親王の遊び相手として、姉・国子、妹・糸子とともに赤坂離宮に招かれる。1897年(明治30年)1月9日、華頂宮博恭王と結婚。1904年(明治37年)1月15日、華頂宮から伏見宮に復籍。
1939年(昭和14年)7月下旬、左胸肋膜炎になり、体調が悪化。同年8月18日に薨去。
栄典
[編集]- 1898年(明治31年)5月28日 - 勲二等宝冠章[2]
- 1906年(明治39年)11月3日 - 勲一等宝冠章(宝冠大綬章)[3]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[4]
血縁
[編集]- 父:徳川慶喜
- 母:新村信
- 夫:伏見宮博恭王
- 子:
- 第1王子:博義王(1897年 - 1938年) - 海軍大佐。一条実輝公爵の娘朝子と結婚する。
- 第1王女:恭子女王(1898年 - 1919年) - 1918年、侯爵浅野長武に降嫁。
- 第2王子:博忠王(1902年 - 1924年) - 博恭王の後を継ぎ華頂宮を継承。海軍中尉。その死によって華頂宮は断絶。
- 第3王子:博信王(1905年 - 1970年) - 1926年、華頂姓を賜り臣籍降下(侯爵)。華頂宮の祭祀を継承する。海軍大佐。
- 第2王女:敦子女王(1907年 - 1936年) - 伯爵清棲幸保(伏見宮邦家親王第15王子清棲家教の養子、真田幸民伯爵三男)に降嫁。
- 第3王女:知子女王(1907年 - 1947年) - 久邇宮朝融王妃。
- 第4王子:博英王(1912年 - 1943年) - 伏見姓を賜り臣籍降下(伯爵)。海軍少佐。戦死。
※敦子女王と知子女王は双生児である。
脚注
[編集]- ^ “華族女学校年報. 第1-5”. 2020年1月28日閲覧。
- ^ 『官報』第4472号、「叙任及辞令」1898年05月30日。
- ^ 『官報』号外、「叙任」1906年11月03日。
- ^ 『官報』第7578号・付録、「辞令」1908年09月28日。