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伏見朝子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伏見 朝子
(博義王妃 朝子)
伏見宮家
続柄 一条実輝第3女子

全名 伏見 朝子(ふしみ ときこ)
身位 王妃 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1902年6月20日
日本の旗 日本東京府東京市赤坂区
(現:東京都港区赤坂)一条公爵邸
死去 (1971-04-03) 1971年4月3日(68歳没)
日本の旗 日本東京都
埋葬 日本の旗 日本・東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 博義王
子女 尾崎光子(光子女王)
伏見博明(博明王)
令子女王
草苅章子(章子女王)
父親 一条実輝後陽成天皇男系8世孫)
母親 一条悦子
栄典 勲一等宝冠章
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伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年明治35年〉6月20日 - 1971年昭和46年〉4月3日)は、日本の旧皇族。元華族博義王一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。旧名は、一条 朝子(いちじょう ときこ)。皇籍離脱前の身位王妃で、皇室典範における敬称殿下皇族時代の名は、博義王妃 朝子(ひろよしおうひ ときこ)であった。

生涯

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香淳皇后とは女子学習院の同級生で[1]梨本宮家の方子女王と並んで昭和天皇のお妃候補の一人であったとされる。後に学習院の同窓会組織「常磐会」の会長も務める。1919年大正8年)12月23日に、博義王と結婚[2][3][4]、翌年北海道を訪れている[5]。1男[6]3女[7][8][9]をもうける。関東大震災時は皇族による被災者の慰問活動として、1923年(大正12年)9月23日新宿区(当時の淀橋町)の被災児童避難所を慰問・視察した[10]1931年(昭和6年)には鶴岡八幡宮へ参拝[11]、また、戦時中は日本赤十字社における奉仕活動に加わる[12]1938年(昭和13年)に夫の博義王と死別[13][14][15]第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)10月14日皇室典範第11条1項により、皇籍離脱[16][17]。皇籍離脱は、「伏見 朝子(ふしみ ときこ)」と名乗る。1971年(昭和46年)4月3日、68歳で逝去。

栄典

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血縁

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脚注

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  1. ^ 芳賀登『日本女性人名事典』日本図書センター、1993年、893, 1182頁。 
  2. ^ 子爵波多野敬直「告示 / 宮内省 / 第52号 / 博義王殿下御結婚」『官報』、大蔵省印刷局、1919年12月24日、690頁、2018年6月3日閲覧 

    博義王殿下 本日宮中顧問官 海軍大佐正二位勲二等功五級公爵一条實輝三女朝子ト結婚セラル / 大正八年十二月二十三日 / 宮内大臣 子爵波多野敬直

  3. ^ 芳賀登『日本人物情報大系』 7巻、皓星社、1999年、381頁。 
  4. ^ 英語青年社「内報 帝國議會-伏見宮博義王御婚儀- 皇后の思召-豫算内示-米國大使と英語會」『英語青年 = The rising generation』第42巻8 (567)、研究社、1920年1月、226頁。 
  5. ^ 「小樽市史」第3巻、小樽市、1981年。 
  6. ^ 一木喜徳郎「告示 / 宮内省 / 第2号 / 博義王妃朝子殿下御分娩王御誕生」『官報』、大蔵省印刷局、1932年1月27日、579頁、2018年6月3日閲覧 
  7. ^ 一木喜徳郎「告示 / 宮内省 / 第27号 / 博義王妃殿下御分娩女王御誕生」『官報』、大蔵省印刷局、1929年7月30日、785頁、2018年6月3日閲覧 
  8. ^ 一木喜徳郎「告示 / 宮内省 / 第5号 / 博義王妃朝子殿下御分娩女王御誕生」『官報』、大蔵省印刷局、1933年2月15日、785頁、2018年6月3日閲覧 
  9. ^ 湯浅倉平「告示 / 宮内省 / 第1号 / 博義王妃朝子殿下御分娩女王御誕生」『官報』、大蔵省印刷局、1934年2月13日、349頁、2018年6月3日閲覧 
  10. ^ 『東京震災録』東京市、1927年、13頁。 
  11. ^ 鶴岡八幡宮 [編]『鶴岡八幡宮年表』八木書店、1996年、535頁。ISBN 9784797115062 
  12. ^ 津金澤聰廣『写真でよむ昭和モダンの風景: 1935年–1940年』柏書房、2006年、19頁。 
  13. ^ 宮内省「告示 博義王殿下薨去 / 宮廷録事 皇族御服喪」『官報号外』第27号、大蔵省印刷局、1938年10月19日、2018年6月3日閲覧 

    海軍大佐大勲位博義王殿下本日午前二時東京府東京市麹町区紀尾井町四番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル / 昭和十三年十月十九日 / 宮内大臣 松平恒雄

  14. ^ 帝國議會 / 貴族院 / - / 議員薨去及弔辭博義王殿下」『官報』、大蔵省印刷局、1938年10月22日、833頁。 

    貴族院議員博義王殿下本月十九日薨去ニ付昨二十一日左ノ弔辞を奉呈セリ / 貴族院ハ議員海軍大学校教官海軍大佐大勲位博義王殿下ノ薨去ヲ追悼シ奉リ恭シク弔辞ヲ奉呈ス

  15. ^ 博義王殿下の薨去を悼み奉る」『海之世界』第32巻第11号、日本海員掖済会、東京、1938年11月、3頁。 
  16. ^ 『時事年鑑』時事新報社、1948年、18, 125頁。 
  17. ^ 村上重良『皇室辞典』東京堂出版、1980年、xcvi頁。 
  18. ^ 『官報』第935号、「叙任及辞令」1930年02月13日。
  19. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  20. ^ 私の顔・元宮さま / 李正子 ; 広橋規子 ; 島津朝子 ; 二條恭仁子 ; 龍田正子 ; 大給湛子 ; 尾崎光子 ; 榎本修」『家庭よみうり』第337号、読売新聞社出版局、1953年3月、14-15頁。 
  21. ^ 大蔵省印刷局 [編]「◎宮内省告示第三十二號」『官報』、 国立国会図書館、1937年10月26日、720 (コマ3)、2018年6月2日閲覧 

    令子女王殿下本日午前二時十五分東京府東京市麹町區紀尾井町四番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル 昭和十二年十月二十五日 宮内大臣松平恒雄

  22. ^ 大蔵省印刷局 [編]「宮廷錄事 ◎御斂葬濟」『官報』1937年11月1日、12(コマ7右)。 

    故令子女王御斂葬去月二十九日午後二時三十一分滞リナク済マセラレタリ

  23. ^ 特集 平凡な結婚で女の幸せを摑んだ 元皇族・華族令嬢たち / 木下英子 ; 辰馬米子 ; 草刈章子 ; 肥原松子」『婦人倶楽部』第45巻第3号、講談社、1964年3月、174-180頁。 

外部リンク

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