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卑弥弓呼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
卑彌弓呼から転送)
卑弥弓呼
狗奴国王

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卑弥弓呼卑彌弓呼(ひみここ〔ひみくこ〕生没年不詳)は、『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王、3世紀倭国(現在の日本)の人物である。内藤湖南は、卑弥弓呼素(ひめこそ)であるという説を唱えた(#諸説[1]

人物

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狗奴国の北に位置する邪馬台国の女王卑弥呼とは不仲であり、247年の暦法によると正始8年)、戦争を起こしたと記録されている。

諸説あるが、熊襲[1](あるいは蝦夷の長[2])であるとされるが、詳細は不明である。

原文

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  • 其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
  • 其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。

諸説

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  • 邪馬台国畿内説を唱える内藤湖南は、原文中の「卑弥弓呼素」を「卑弥弓呼 素より」ではなく「卑弥弓呼素」という名であるとし、名のうちの「呼素」は「襲國の酋長など」を指すと推測している[1]。「襲國」とは熊襲の域(九州南部)の意であり、内藤のほか、新井白石白鳥庫吉津田左右吉井上光貞喜田貞吉らも、狗奴国熊襲のクニであるとし、したがって同人物を熊襲の人物であるとみている。内藤のほか、新井、山田は邪馬台国畿内説、本居、白鳥、津田、井上、喜田、吉田は邪馬台国九州説である。同人物についての記録は、『魏志倭人伝』における2か所での言及(#原文)に留まっており、それぞれ言語学歴史学等のアプローチによって推定されている。
  • 山田孝雄は、狗奴国を毛野国(現在の栃木県群馬県一帯)であるとし、したがって同人物を毛人、つまり蝦夷の人物であるとしている[2]
  • ほかには本居宣長吉田東伍らに、狗奴国を伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県松山市北条)とする説がある。
  • コロンビア大学日本文化研究所設立者の角田柳作は、1951年(昭和26年)、『魏志倭人伝』を英語に翻訳する際に Himikuku (ひみくく)あるいは Pimikuku (ぴみくく)と表記した[3]。後者の表記は、日本語の唇音退化説に則ったものである(は行#音韻史ハ行転呼の項を参照)。「卑弥弓呼」の読みには、ほかにも「ひみきゅうこ」[4]「ひみくこ」[5]とする説があり、「ひこみこ(彦御子、男王)」の誤りとする説もある[6][7]
  • 市井の研究者である佐藤裕一が紹介する「彦御子」説は、「卑弥弓呼」を「卑弓弥呼」の誤りであるとするもので[6]、「彦御子」、つまりは皇子と同義の「天皇の息子」を指す一般名詞であり[8]、「卑弥呼」も「姫御子」、皇女と同義の「天皇の娘」を指す一般名詞であり[9]、「卑弓弥呼」は「卑弥呼」と対をなすものとなる[6]。さらに、佐藤の採用する説では、天皇の子女という意味を超えて、「彦御子」は「男王」、「姫御子」は「女王」を指すとしている[6][7]
  • 卑彌弓呼を建日別熊襲)「隼人」の王であると考え、火照命(日本書紀では火須勢理命火闌降命火酢芹命)とする説もある[10]火照命のホデリは「火が明るく燃え盛る」の意である。石原洋三郎によれば、卑彌弓呼は「ヒミコ(卑弥呼)」のような性質があり、「男子」であるため、さらに「弓」が付いたのであろうとしている。「弓」が得意であったのか、或いは「弓」のように速さや急襲を得意とする王であったと考えている。

脚注

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  1. ^ a b c 内藤、1929年(#外部リンク)。
  2. ^ a b 山田、1910年(#参考文献)。
  3. ^ Tsunoda, p.15.
  4. ^ 根崎、p.101.
  5. ^ 直井、p.110-113.
  6. ^ a b c d 佐藤、p.141.
  7. ^ a b 古事記』では孝霊天皇以後「この天皇の御子等あわせて八柱。男王(ひこみこ)五、女王(ひめみこ)三」のように記した例が多く見られる。
  8. ^ デジタル大辞泉『彦御子』 - コトバンク, 2011年11月13日閲覧。
  9. ^ デジタル大辞泉『姫御子』 - コトバンク, 2011年11月13日閲覧。
  10. ^ 『邪馬台国』 石原洋三郎 令和元年10月 第一印刷 P57-P62 石原は、台与豊玉姫命山幸彦の妻)、難升米ニニギノミコトとしている。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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