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加納治雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加納 治雄(かのう はるお、1888年明治21年)12月10日[1][2] - 1937年昭和12年)10月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。

経歴

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東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身[1][3][4]。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる[1][4]。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業[1][2][5]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる[1][5]

1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任[1]。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる[1]。1927年(昭和2年)7月、岡崎師範学校配属(配属将校)となり、歩兵第3連隊大隊長を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に昇進し歩兵第3連隊付となる[1]第1師団副官を経て、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に進み第1師団司令部付となる[1][3]

1936年11月、歩兵第1連隊留守隊長に就任し、1937年(昭和12年)9月、歩兵第101連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同年10月、第二次上海事変で戦死し陸軍少将に進んだ[1][2][3]

栄典

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勲章

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、44頁。
  2. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』223頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』270頁。
  4. ^ a b 『遺徳顕彰故人年鑑 第1輯 昭和14年』(大日本頌徳会編纂部、1939年)p.41
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、270頁。
  6. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  7. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  8. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  9. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  10. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  11. ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」1923年7月26日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。