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前田利與

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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前田利与
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文2年10月19日1737年11月11日
死没 寛政6年8月22日1794年9月15日
改名 状之助・芸之助(幼名)、利与
別名 靱負(通称
戒名 竜徳院殿天沢良恩大居士
墓所 富山県富山市長岡の長岡御廟
官位 従四位下、淡路
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
越中富山藩
氏族 加賀前田氏
父母 父:前田利隆、母:山田氏(久衛)
養父:前田内膳前田利幸
兄弟 利幸、隆子(前田利道正室)、利嘉、幸子(藤堂高雅正室)、利教利与、芸子(前田長教室)、梶子、利興利完、栄子、紀忠利躊、尉子、利桓
正室:富貴前田利直の娘)
側室:住(山田氏)、保野(別所氏)
利謙、恒子(織田信応継室)、亀吉、峰子、利晃
養子:利久
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前田 利與(まえだ としとも)は、越中富山藩の第6代藩主[1]

生涯

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元文2年(1737年)10月19日、第4代藩主・前田利隆の四男として富山で生まれる。寛保元年(1741年)11月に前田内膳の養子となる。しかし宝暦12年(1762年)に第5代藩主で同母兄の利幸が死去し、利幸の実子である利久が幼少のため、兄の養子となって家督を継いだ。

宝暦13年(1763年)に日光東照宮修理の手伝い普請で11万両の負担を被り、安永2年(1773年)に飛騨騒動で出兵し、安永4年(1775年)にも甲斐における河川の手伝い普請、天明8年(1788年)の美濃における河川の手伝い普請などにおける負担で財政破綻寸前となり、家臣の知行借上げやリストラ、人別銭や上米の徴収、株仲間の奨励などで乗り切ろうとするが、明和9年(1772年)には打ちこわしが起こるなど、藩の建て直しには失敗した。安永2年(1773年)には藩校・広徳館を創設している[1]。明和6年(1769年)には常願寺川の佐々堤周辺に水防林を整備した[1]

安永6年(1777年)11月8日、養子の利久に家督を譲って隠居する。寛政6年(1794年)8月22日に死去した。享年58。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 常願寺川沿岸用水(p.24) 水土里ネット富山(富山県土地改良事業団体連合会)、2023年12月3日閲覧。