コンテンツにスキップ

利用者:Yumoriy/下書き4

  • 下書き4: 
    • 下書き作業用として末尾のカテゴリーなどを削除。主ページ反映時に注意。

[編集]

編集について[編集]

▼ノート:按察使 - Wikipedia https://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%8C%89%E5%AF%9F%E4%BD%BF

(引用に関する出所の明示、公正な慣行、主従関係、引用部分の明確性などの条件には満たしているものと考えています。)



引用を必要とした本文記述は次の箇所です。

観察使の権限は唐代を通じて増大し(A)、地位としては各州の都督刺史よりも上位で、権限は節度使に次ぐものとなった(B)。節度使が置かれる場合は観察使も兼職した藩鎮」項も参照せよ。
ref出典の(A)は鄭 炳俊さんの『史林』77-5掲載の論文「唐代の観察処置使について : 藩鎮体制の一考察」(1994)で、按察使に至る官職名の変遷を日本語文献で跡づけるために利用しています。これは直前の版で私が追加した文献です特別:差分/99555276。他方の(B)は、徐连达『中国官制大辞典』上海大学(2010)で、こちらは主ページ現行版の初版特別:差分/99482565が翻訳の底本としたウィキペディア中国語版[1]で用いられている中国語の典拠文献で、私は実見できていません(著者の徐连达〈徐連達〉さんは、百度百科によれば1931年生まれ、上海の復旦大学歴史系の教授、中国唐史学会および上海市歴史学会の理事、専攻は中国古代政治制度史、隋唐史とのことで[2]上海大学発行であることも考えると一定以上に信頼できる辞典と思われます。)
以後の節度使の多くは観察(処置)使を兼ねて内の民政をも掌握し、なかでも強大な中国北部の諸節度使は半独立的な勢力となる。一方、節度使が置かれず、観察(処置)使がトップであった所もあったが、その場合でも観察使が(都)防禦使や(都)団練使、あるいは経略使を兼ねて軍政を扱っていた。節度使と観察使の区別があったのは、武官文官は本来別であるという建前に由来するのか、それとも両者を分離して少しでも皇帝権力に歯向かう半独立勢力が生じる危険を防止しようとしたのか、その実態はわからない。

森安孝夫「河西帰義軍節度使の朱印とその編年」『内陸アジア言語の研究』第15巻、中央ユーラシア学研究会、2000年10月、12頁、CRID 1050581168905252096hdl:11094/20397ISSN 1341-5670 

引用の第1文「以後の節度使の多くは [...] 民政をも掌握し、なかでも強大な中国北部の諸節度使は半独立的な勢力となる」は、本文「観察使の権限は唐代を通じて増大し」の根拠で、かつ節度使の観察使兼職が軍政に加えて「民政」の掌握も意味したことを示します。第2文「一方、節度使が置かれず観察(処置)使がトップであった所もあったが、その場合でも観察使が(都)防禦使や(都)団練使、あるいは経略使を兼ねて軍政を扱っていた。」は、本文「地位としては〔観察使は〕各州の都督刺史よりも上位で、権限は節度使に次ぐ」(節度使不在の場合は観察使が民政に加えて軍権も握って地方政府のトップを務めたというのだから、その権限は節度使に次ぐと言える)および「節度使が置かれる場合は観察使も兼職するのが通例だった」

の根拠となっています。