利用者:Uryah/2015年9月22日
2015年9月22日
[編集]安保法案にまつわり、これに反対するデモが起きた。国会をとりまく、大きなデモだった。老若男女いたが、そのなかに若者の数も多かった。日本では、新しい人ほど/時代が下がるほど、政治がどうだとか、国がどうだとか、社会の在り方がどうだとかには無関心になっていく、ただ自分さえよければそれでいいという価値観なり思想なりが増えていく、とここ十数年来思われてきた。でも、「戦後」70年の年に、国の方向を変更する法律の登場(国会への法案提出)にあたって、若者たちは声を上げた。自分さえよければ他(人)はどうなってもいいという人がたんに目立っていただけ、ということなのかもしれない。あるいは、事実として世の主流はそうだったんだけど、これをきっかけに流れは変わる、のかもしれない。(あるいは、時間が経ってみれば、やっぱり変わらないのかもしれない)
報道では、法案に反対するデモが大きく取り上げられた。でも賛成するデモもあったと一瞬聞いたから、政治ニュースとしてではなく社会ニュースとして、つまり政治としてはどちらの立場にも加担することなく、人類学とか社会学とかどうかしたら生物学とかいった発想で、どちらの立場にどのくらいの歳の人がどのくらい声を上げたか、性別や地域も含めて、学者が分析するなり第一報(速報)ではなく調査報道として報道が報じるなりしてくれないだろうか。宣伝でも鼓舞でもプロパガンダでも支持でも不支持でもなく、加担でも足を引っ張るでもなく、事実として何が起きたか。
一点、気になることがあった。何だったかは忘れてしまったが、地上波テレビの報道で、インタビューに答えてある若者がこう答えたのを聞いた。「自分たちがデモをしているのは、半分は安保法案に反対するため。でも半分は、若者も政治に無関心ではないということを見せたかったから」。この一点は気になった(聞かなければ(そのときそのチャンネルに合わせていなければ)よかったとも思った)。もしそれが本音ならば、本音を吐露してしまった(本音を隠せなかった)ということなのならば、その人を動かした原動力は、他人の目を気にして「よく」映ろうという話だということになってしまうから。出力はどうであれ、他人がどう思うか以前に、(まずは)自分は何を思うのかが大事、だと思うから。これから長い時間をかけて、その思いはなんだったのか、ドライブした原動力はなんだったのか、個々の目に宿っていた光は何だったのか、いろいろ説が出てくるのかもしれない。
Uryah(会話) 2015年9月21日 (月) 17:55 (UTC)
2015年9月以降
[編集]個々の人間関係という場面においてではなく、政治・社会で論陣をはるという文脈において、「大人が若者の意見を聞きに来てくれなくちゃ」という意見は、あの運動の後もやっぱりあるようですね。
Uryah(会話) 2016年1月7日 (木) 19:40 (UTC)
原因は?
[編集]しがらみ?
[編集]しがらみが少ないので世の中に向かって大人より自由にものを言える、冒険ができる、というのが昔従来の「若者像」だったけど、2010年代の今は、大人よりしがらみがある、ということなんだろうか。 「しがらむ人」が以前の世代より増えて、それに縛り付けられて自由に言えない、動けない状況、ということなんだろうか?(他)人を「縛り付け(ようとす)る人」が増えた?もしそうなのだとしたら、実感には背かないけれど。実感にそぐうけれども。
「しがらむ人」。それは今の時代のキーワード?
しがらみがないのにものを言わないとなると、内向きなのか、想像力がない/を発揮しない、とか?それとも、何か他の理由?他に、流れや背景や伏線がある?
Uryah(会話) 2016年1月7日 (木) 19:40 (UTC)
いま小学生高学年から中学生は、1000通~2000通/1日ものSNSのメッセージを捌かなければならない子もいると聞いた。そりゃあ閉塞するだろう。その量は人間が自然に捌ける量ではない。これでは、まさに他人の目の網の中を泳ぐことばかりで、「自分の考え」を持つなんてとんでもない、と当人は思うんじゃないだろうか。ちゃんと本音の交換も出来ているんだろうか?意見も言えているんだろうか。どこに同調してどこに同調しないか(を日々瞬間的に決める毎日)、それが人生のメインになっちゃわないか?聞いた話が本当なら、SNSとそれを中心にした人間活動が小学生高学年から中学生の閉塞感の原因だということになる/だと思える。つまり、見聞きするインプットを元に、(自分の内側で)考えを作れて、意見を言えて、そのうえで意見を調整する「同調」をしているなら素晴らしい。でも、その膨大な量では、見て反射的に仕分けする同調しか出来ないんじゃないか?そして、反射的同調を操ることに長けることが、「人生」になってしまうのでは?
Uryah(会話) 2016年4月3日 (日) 06:26 (UTC)
西洋と日本の文化の違い(空間的な違い)?
[編集]「子どもの場合は疑問を挟む余地はありません」「子どもを守る責任があります」「やっかいなのは、十二歳から十八歳の子どもたちです。いつから『自分で決めた』といえるでしょうか」「踏み込んででも当事者を守るのはいつまでなのか」。「相手が大人ならその人のいうことを尊重しますし、子どもなら守ります」。 アンヌ・フィリップス - 「哲学がかみつく」 著 デイヴィッド・エドモンズ、ナイジェル・ウォーバートン 訳 佐光紀子 2015年12月15日第1刷 pp.100-108
Uryah(会話) 2016年3月6日 (日) 02:38 (UTC)
時代の違い(時間的な違い)?
[編集]「日本人たちは市民的成熟のための努力を止めてしまったのです」「幼児化の兆候」。p.26 「人びとが自尊感情を満たされることを過剰に求め始めた」。 p.20 「1980年代半ば、ニュー・アカデミズムの切れ味のいい批評的知性が登場してきた頃から」 p.16 内田樹 - 「呪いの時代」 2011年12月5日 第2刷
Uryah(会話) 2016年3月6日 (日) 02:38 (UTC)
「自分らしさ」という言葉が登場したのが1983年(p.14)、「人間らしさ」が死に瀕したのが1985年(pp.20,21)、「自分らしさ」が市民権を持ったのが1991年以降(pp.33,34)で、「最初は『他人に迷惑をかけなければ』と殊勝な前提を置いていたのだが、いつのまにかそれもすっ飛んでしまい、『好き勝手にやればいいのだ』『それがおれの権利だ』となった」「すべての意識が『自分』だけに集中し、『自分自身』がもっとも価値のある欲望となったのである。『自分』の時代の到来であり、すべての『モンスター』の根源である『自分というモンスター』の誕生である」(p.152)。 勢古 浩爾 - 「日本を滅ぼす『自分バカ』」 2009年4月 ということだから、自分にのみ関心があり、世の中や他人の気持ちは眼中にない「自分病(※)」の登場は1990年代半ば?
※(どうしたら)自分が得をするか、自分が損をしないか、人が自分のために何をしてくれるかが思考の「全て」で、他の要素が「ゼロ」、「自分かわいさ(大事さ)」に目が霞んで他のことが見えなくなっているまたは見なくなっている状態。(他)人相手の場面では(他)人の人格の無視、政治に関する場面ではジョン・F・ケネディ(2016年3月8日版)の演説の反対の状態になる。
(他)人の人格の無視:
- (他)人:自分以外の人、自分の属性以外の属性の人
- 属性:人種、宗教、国、性別、年齢、職業、etc
Uryah(会話) 2016年3月6日 (日) 06:01 (UTC)、2016年4月3日 (日) 01:01 (UTC)
「平等な自由、公正」が解決のヒントになる?
[編集]「平等な自由」「公正としての正義」が解決のヒントになる??
- トクヴィル・・・「各個人は自己にのみ関わる利害の最善の判断者であるが、他の諸個人と共有する利害、すなわち『社会的な利害』については相互調整に服する」「完全な平等性に立脚した自治の精神」「『平等な自由』こそ、<民主的人間>が秩序を作るにあたって、もっとも根本的な原理」(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 pp.104-105.)。
- ロールズ・・・「ジョン・ロールズが示す正義の第一原則はまさしく『平等な自由』」(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 pp.104-105.)。人々はみな「自由に対する平等な権利を持っている」「これらの自由は他の自由との衝突によってのみ制限される」。そういう原理を「平等な基本的自由の原理」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.105.)と呼ぶ。
- 「社会契約」という論・発想。 → 自分自身の属性がわからなくなるベール、「自分自身の貧富や階級、人種、健康や容姿、所属するコミュニティ等々、具体的なことがわからなくなるベール」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.68.)、「無知のベール」をすべての人がかぶった「原初状態」を想定し、「その状態で人々が合意する正義」を「『公正としての正義(justice as fairness)』と呼ぶ」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.105.)。
- 「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する(リベラリズム)。 → 自分だけ/さえよければ他はどうなってもいいという考え方の正反対。
Uryah(会話) 2016年4月3日 (日) 01:05 (UTC)
「個人主義」が解決のヒントになる?
[編集]- 対語は、全体主義・集団主義。
- 個人主義という語が、現在用いられているような、共産主義や全体主義といった主張とは両立し難い「社会的な理想」というような意味合いで用いられるようになったのは、19世紀から20世紀。
- 個人の自由を尊重する。自分自身だけで完結する事柄について、自分の自由は制限がない。ただし、他人が関係する事柄については、相手(の自由・気持ち)を無視して、自分の自由を押しつけ、押し通してはいけない。なぜなら、相手の自由も尊重されるから。 → 個人の尊厳。
Uryah(会話) 2016年5月4日 (水) 21:58 (UTC)
リベラリズムと個人主義
[編集]「他の自由との衝突によってのみ制限される」とは、たとえば「誰かに合わせて自粛しなきゃ」「皆が同じにならなきゃ(← それは、見る側面によって、集団主義か共産主義の要素)」ということではない。たとえば、「相手を無視して前進(←そんな意地悪な)してはいけない、自分の自由を強制(←そんな利己的な)してはいけない」「自分が前へ進もうとしているのと誰かが前へ進もうとしているのがぶつかってしまった。そういう場合は、相手を無視して進むのは制限される、自分の自由を強制するのはいけないことだ、調整が発生する」という意味。