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利用者:Tm3594/sandbox

勝観音[1]
勝観音堂
所在地 福島県喜多方市関柴町三津井字堂ノ前[2]
位置 北緯37度38分53.661秒 東経139度53分48.751秒 / 北緯37.64823917度 東経139.89687528度 / 37.64823917; 139.89687528 (勝観音堂)座標: 北緯37度38分53.661秒 東経139度53分48.751秒 / 北緯37.64823917度 東経139.89687528度 / 37.64823917; 139.89687528 (勝観音堂)
山号 松島山(しょうとうざん)
宗派 真言宗
寺格 末寺
本尊 十一面観世音像
創建年 不明 ※再建永禄元年(1558年
開基 不明 ※中将政保建立とあり[3]
正式名 松島山 勝福寺
札所等 日本遺産
会津三十三観音札所6番
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勝観音(すぐれかんのん)は、会津三十三観音第六番札所の一つである。本尊は十一面観音[1]福島県喜多方市関柴町にある松島山勝福寺(しょうとうさんしょうふくじ)境内の観音堂に安置されている。新編会津風土記には「會津三十三観音順禮の一なり」という記述は無く、近世以降に札所として認められたと推測される[4]

歴史[3][5]

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天分年間(1532~1554)中、中将政保の娘、勝の前という女性が京都から松島へ行く途中この地で病により亡くなった。後に中将がその足跡を尋ねてこの地を訪れ、死を聞いて悲しみ多くの堂社と観音堂を建立した。勝の前が所持していた観音の小像を新たに作った像の眉間に嵌め、観音堂に三体の像を安置する。享禄二(1529)年に火災に遭い、永禄元(1558)年に領主芦名盛興が再建を開始し、二十数年を費やして元禄元(1558)年に完成したのが現観音堂となる。その後再び頽廃し、寛文五(1665)年に再興した。山号は松島山、寺号を別当勝福寺といい、真言宗、会津若松市内の彌勒寺の末寺となる。かつてこの寺に属する堂社は多かったが尽く頽破し、新編会津風土記編纂時期、享和三(1803)年から文化六(1809)年には観音堂と仁王門、宗像神社しか残っていなかった。

  • 勝の前の逸話にちなみ、地名を勝村と改め、その後下勝村に対して上の字を加え上勝村となった。

歴代住職[4][3]

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  • 開基 不明
    • 新編会津風土記には某中将の建立とあり。勝の前の父とあるが、姓名を伝えなかったと記述がある。喜多方市教育委員会の案内看板によれば中将政保という名が見られる。

文化財[4][1][6]

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  • 本尊
    • 十一面観音菩薩像 像高216.6cm
  • 脇侍
    • 木造不動明王立像 像高146cm 寄木造りの彩色された立像である。体内には「右奉造立不動明王並毘沙門天王、形像造立采絵用途二十貫也、弘安二(1279)年己卯四月一日、右造立勧進僧隆尊並檀那比丘尼 教阿弥陀仏僧永慶」の墨書銘がある。昭和28(1953)年10月1日に県の重要文化財に指定。
    • 木造毘沙門天立像 像高155cm 寄木造りの立像である。体内には「右奉造立不動並毘沙門天王、木造采絵用途二十貫也、弘安二(1279)年己卯三月二十九日、右造立勧進僧隆尊並檀那明尊、教阿弥陀仏仏師永慶長寂長信の墨書銘がある。昭和30(1955)年12月27日に県の重要文化財に指定。
  • その他
    • 銅鐘[7][8]
      • 勝福寺観音堂の東側に建っている鐘楼にかけられている鐘は、高さ118cm、口径65cmの小型の鐘で、葦名盛興とその父盛氏の寄進である。銘の切り手は、会津の刀工として名高い古川兼定である。新編会津風土記によれば銘に「奉鋳鐘一口、奥州会津耶麻郡勝村、勝福寺別当満勝院、本願観行坊慶算当寺、大旦那平盛興並隠居盛氏、鋳師大工早山主殿助並小工太郎左衛門、銘帳切手兼定、諸行無常、是生滅法、生滅々己、寂滅為楽、並諸旦那等現世安穏後生、善所無疑者也、永禄七(1564)年甲子季夏日」とある。現在は解読不能。昭和30(1955)年12月27日に県の重要文化財に指定。
松島山勝福寺 鐘楼

建造物

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松島山勝福寺 仁王門
  • 眷属仏堂
    • 観音堂 勝福寺観音堂、屋根萱葺[9]。昭和五十七(1983)年に国重要文化財に指定された。室町後期永禄元(1558)の建造物。奥行の深い三間堂で比較的規模が大きく、木割が太い。会津地方には禅宗様の手法を混じえた中世の三間堂が多く残されているが、この堂は和様の要素が多い上に、内陣を縦長の二間にするなど、独特の平面をもっており、中世末のこの地方の建築界の多様性を示す遺構として価値がある[10]。観音堂の歴史年表は次の通り。
      • 享禄二(1529)年 - 火災に遭う。
      • 永禄元(1558)年 - 現観音堂完成。
      • 永禄以降(1558年~) - 来迎壁を取り払い背後に張り出して仏壇を設け、東側に出入り口を新たに設ける等の改修が行われる。
      • 寛文五(1665)年 - 側廻りの板壁が失われて吹放しの状態となっていたところを修復し、正面を扉構え、両脇間連子窓とするなど、大規模な修理が行われる。
      • 享保五年から八年(1720~1723) - 小屋組全て解体し、化粧隅木を三本取り替えて組み直す。
      • 享保十二(1727)年 - 厨子を新造する。
      • 元文元(1736)年 - 屋根葺替修理が行われる。
      • 寛保二(1742)年~延亨三(1746)年 - 向拝を造る。
      • 明和五(1768)年 - 屋根葺替修理が行われる。
      • 昭和三(1928)年 - 屋根葺替修理が行われる。
      • 昭和四十三(1968)年 - 屋根葺替修理が行われる。
      • 昭和四十四(1969)年 - 正面浅唐戸と背面・側面戸口の板戸が新調された。
      • 昭和五十七(1983)年 - 国の重要指定文化財に指定される。
      • 昭和五十九(1984)年~昭和六十一(1986)年 - 解体修理が行われ、それに伴う調査によって再建当初の姿とその後の変遷が概ね明らかとなったので、仏壇を現状のままとするほかは、当初の姿に復旧整備された。
  • 仁王門
    • 五間に二間、左右に金剛力士像がある。共に八尺、制作年は不明だが古いものと思われる。

その他

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松島山勝福寺管理 宗像神社
  • 神社
    • 宗像神社
      • 村の西一町にあって、創建年は定かではない。勝の前を尋ね来た中将政保の勧請といわれている。鳥居有り。勝福寺により管理されている。

祭礼

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  • 七月十七日[5]

札所

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御詠歌

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  • 陽照るとも 山の氷は よもとけじ 里に時雨の あらんかぎりは(ひてるとも やまのこおりは よもとけじ さとにしぐれの あらんかぎりは)[5]
    • 御詠歌の時雨(しぐれ)は、会津弁で「スグレ」という。

御朱印

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  • 松島山勝福寺[5]

アクセス

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公共交通機関

喜多方駅または会津若松駅を基点とした会津バスを利用すると良い[1]

車での参拝

勝福寺仁王門西側に2~3台の車が停車可能な駐車場有り[12]。喜多方駅方面から県道337号線を熊倉方面に向かって進む。喜多方市立関柴小学校を目標にし、途中左手に勝福寺が見える。

周辺

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付近の会津三十三観音札所

観光スポット

  • 喜多方市 - 国内では蔵と歴史とラーメンの街として有名。
  • 雄国沼 - 福島県北塩原村(裏磐梯)にあるカルデラ湖。ニッコウキスゲの大群落で有名。雄国沼湿原植物群落として国の天然記念物に指定されている。
  • 雄国岳

参考文献

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  • 『新編会津風土記』雄山閣、1975年。 
  • 『第五回会津寺院風土記(塩川編)』会津史談会、1987年。 
  • 小島一男編 編『会津三十三観音御詠歌』歴史春秋社、1978年。 
  • 宮崎十三八著 編『会津の観音巡礼』恒文社、1996年7月30日。ISBN 4-7704-0881-1 

脚注

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外部リンク

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