利用者:Shinobar
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2006年2月23日からウィキペディアに執筆。マグダラのマリアなど。
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著者のページ
[編集]- 現代美術とお酒の愛好家が集まるところ Shino’s Bar
- マスターの部屋
- マグダラのマリアを訪ねて
主な執筆
[編集]- キリスト教関連
- マグダラのマリア / 罪の女 / イエスの愛しておられた弟子 / ヨハネ文書 / 聖杯 / イエスの墓 / ヴァレンティヌス / サロメ (イエスの弟子) / サラ (カリ)
- アート
- ファインアート / 絵画 / 日本画 / ゲルニカ
- 科学史ほか
- 賢者の石 / 賢者 / 騎士道物語 / ジャービル・イブン=ハイヤーン
調べ物
[編集](聖書)
(天文)
最近気になること
[編集]コロンブスの卵
[編集]- パドヴァ大学で学んだパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)は、地球の大きさを半分くらいに考えていて、西に航海すれば東に回るよりもインドに早く着けると考え、地図も添えてリスボンに手紙を送った。それが1476年ごろリスボンに居たコロンブスの手にも渡ったという。
- 地球の大きさは1周およそ4万キロ・メートルである。フランス革命直後の18世紀末に北極から赤道までの子午線(ローズ・ライン)の長さの1000万分の1を1メートルと決めたからである。19世紀に世界標準となった。
- 古代ギリシアの紀元前3世紀ごろエラトステネスは北回帰線上のシエネからアレキサンドリアまでの距離から、地球の全周を約46,250 km とした。
- 同様の方法で,9世紀アッバース朝のバグダッド天文台は2地点間の距離をさらに正確に測定することにより,地球の緯度1度の値を求めている.緯度1度が約113040m,地球の周囲を40700kmとした.829-830年にバグダッドで、832-833年にダマスクスで行われた。サナド・イブン・アリーらが関わった。
- 6世紀インドのアリヤバータ(Aryabhata)は、地球全周を 24,835 マイルとした…って、これ何kmよ? 実際の値と0.2%としか違わなかったとか。ちなみに彼は地動説も唱えている。彼の著作は8世紀にはアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されていた。
- プトレマイオス体系(2世紀の『アルマゲスト』に依っているのだろうか)で、地球の半径は100万ステディアの2・52/60…って、いくらよ? たしか4ステディアが1マイル。
- 9世紀のアル・ファルガーニ(Al-Farghani)は地球の半径を3,250ローマ・マイルとした。1ローマ・マイルは約.48km。
- 2世紀、クラウディオス・プトレマイオスの、緯度と経度が記入された世界地図には、経度180度分すなわち周の半分が載っていたという。
金星の発見
[編集]天文学史の記事に、次のような記述がある。同様の記述は金星の英語版(Venus)にもある。
- 古代においては、日没後に見える「宵の明星」と夜明け前に観察できる「明けの明星」は異なる星だと考えられていた。この2つの惑星が同じものだと発見したのは紀元前500年ごろのピュタゴラスである。ピュタゴラスは金星にアフロディーテと命名した。
そんな馬鹿なことはあるまい。[古代メソポタミアの神イシュタルは金星である。
- 「古代バビロニア王朝アミサドュカ王の時代に21年間(BC1702〜1681)の金星の出没を記録した「アミサドュカ王の金星タブレット」と呼ばれるタブレットである。これは「エヌマ・アヌ・エンリル」と呼ばれる紀元前11世紀頃にまとめられた天文占文集の63番目のタブレットにあたる。」[1]
- 「紀元前2000年頃,バビロニアでも同様に惑星を認識し,宵の明星と明けの明星は同じ金星であることが分かっていた」[2]
欧米とはどこか?
[編集]どうも日本人の言う「欧米」は、第一に米国と英国。ときにドイツを加えているらしい。 明治に開国して、欧化政策(脱亜入欧、鹿鳴館)をとったときの列強は、上記の他にフランス、とロシアがあったはず。あるいはオランダも。 最近の日本でのアンケートにフランス、イタリア、英国が「好きな国」の上位にランキングされている割には、ラテン系諸国の事情はあまり知られていないようである。
- 13日の金曜日が不吉だとされるのは、英語圏およびフランスと一部のドイツ語圏であって、イタリアで不吉な日は17日の金曜日、スペイン語圏では13日の火曜日であるが、日本ではあまり知られていない。
- 上記13日の金曜日を不吉とする地域の共通点を見ると、紀元前400年ごろのケルト人の居住範囲と関係があるかもしれない。あるいは16世紀の魔女狩りが盛んだった地域とも。魔女の集会は金曜日の深夜と想像されていた。
読書ノート
[編集]クリスマス
[編集]- クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト 『クリスマス どうやって日本に定着したか』 角川書店、1999年
- 葛野浩昭(くずのひろあき) 『サンタクロースの大旅行』 岩波新書(新赤版)591、1998年
聖徳太子
[編集]大山誠一 『聖徳太子と日本人』 風媒社 (2001) あとがきより
「聖徳太子は実在の人物ではなく、720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像であること。その目的は、大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くことであったこと。その後さらに、天平年間に、疫病流行という危機の中で、光明皇后が、行信の助言により、聖徳太子の加護を求めて、法隆寺にある様々な聖徳太子関係史料を作って聖徳太子信仰を完成させたこと。そして、鑑真や最澄が、その聖徳太子信仰を利用し、増幅させていった」