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九八式鉄道牽引車(きゅうはちしきてつどうけんいんしゃ)は大日本日本陸軍鉄道連隊が使用したガソリンエンジン搭載の軌道・道路両用の六輪起動自動車(軌陸車)である。

概要

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装甲車両の九一式牽引車と同様に車輪を付け替えることで鉄道線路上を走行可能な車両で、軍用トラックの九四式六輪自動貨車をベースに開発された。鉄道車両として走行する際は日本・台湾などの1,067mm狭軌、中国大陸や朝鮮半島で主流の1,435mm標準軌、ソ連領内の広軌1,524mm(5フィート軌間)に対応した[1]

開発の背景

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鉄道連隊はその創設以来、軍用蒸気機関車を使用した軌間600mmの軍用軽便鉄道の敷設と運転を主とし、普通鉄道の補修、改築、破壊を従として運用を行っていた。しかし、シベリア出兵で鉄道を利用した進軍を経験し、満洲事変の侵攻作戦でも既存の鉄道が活用されたことで方針を改めることになる。陸軍は将来のソビエト連邦との戦争を見据えていたこともあり、満洲事変で使用した装甲軌道車装甲列車の戦訓を生かして1936年(昭和11年)、その方針を普通鉄道の応急修理と応急運転を主とするよう転換した[2][注釈 1]

これにより、各種の移動式作業機械が制式化され、その一つとして装甲を持たない鉄道牽引車や軽貨車、鉄道工作車などが開発された[3]

製造

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いすゞ自動車の前身、東京自動車工業において型式ZK10型として製造された[4]。なお、『戦史叢書陸軍軍需動員 <2>実施編 』に収録された「軍需動員実施ニ伴フ主要兵器実績一覧表(自第一月 至第四十二月)」によると、1937年(昭和12年)10月から昭和16年3月までに411台の調達が指示され、受領数は累計336台。昭和16年3月以降の台数は不詳である。 [注釈 2][注釈 3]

機構

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ベースとなった九四式六輪自動貨車(甲)よりも強力な80馬力のGA20型ガソリンエンジンが搭載された。ボアストロークは100mm×125mm、排気量5,890cc。九四式六輪のGA41型ガソリンエンジンはボアストロークは90mm×115mm、排気量4,390ccの72馬力であった。

本車のエンジンを空冷ディーゼルに改め、運転台を密閉式とした車両が一〇〇式鉄道牽引車である[5][6]。エンジン以外の運用や機構については同車の解説を参照されたい。

川崎BMW式水冷V型12気筒発動機一覧
名称出力(HP)製作期間台数備考
川崎BMW6型450HP発動機4501927-1933950陸軍に転換
川崎BMW6型500HP1型発動機5001932-1933500
川崎BMW6型500HP2型発動機5001932-1933500
川崎BMW9型700HP2型発動機5001932-1933350
「ハ-9」2型甲発動機8001935-1938600
「ハ-9」2型乙発動機9001937-1940860
「ハ-9」2型丙発動機8001938-2試作

概要

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敗戦により燃料事情が極度に悪化した1949年(昭和24年)、京都大学の地質研究者を中心にした大阪府地下資源調査委員会が天然ガスの資源調査として大阪府内各所でボーリングを行った[7]。この調査はまず千里丘陵から始まり、丘陵を構成する砂礫や粘土の地層群が大阪層群と命名された[8]。続いて行われた調査で共通した地層が広い範囲に分布していることが判明した。肝心の天然ガスは寝屋川市内や堺筋でわずかに出たのみで、ガス調査は2~3年で終った。ところが学術上は大きな発見があったため、その後も大阪市立大学や京都大学の研究者が中心になって地質調査が続けられた。大阪層群の調査結果は、後に大阪市内の地盤沈下対策にも役立ち、工業用水として地下水を組み上げる際にアズキ火山灰層(後述)が基準となった[7]

大阪層群が露頭となった東山洪積世植物遺体包含層

大阪層群の構成

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大阪層群は砂礫層と粘土層が何層も重なった形で構成され、中・上部は10層の海成粘土層、下部は湖成粘土層から成っている。また、第三海成粘土層中にピンク色の火山灰から成る「アズキ火山灰層」を含んでいる。1949年のボーリング調査は千里丘陵に続いて大阪周辺の丘陵地や平野部でも行われ、アズキ火山灰層の存在から、これが同一時間(同一層準)を示す鍵層として活用された。大阪港東大阪市八戸ノ里ではアズキ火山灰層は地下400メートルの深さにあり、大阪層群は地下約700メートルまで存在する[8]

カネキ 関東大震災を契機に輸入車販売を手掛けており、1927年にゼネラルモータースが大阪の日本ゼネラル・モータース自動車組み立てを始めたのを契機にシボレーのディーラーとなった。

瀧川勝二はゼネラルモータース販売店協会の会長であったが、慰留工作を振り切ってトヨタに参加した。当時トヨタ車の販売を率いた神谷正太郎は日本GMからトヨタ自動車に移っている。[9]

当時(昭和40年)の兵庫トヨタは「滝川学校」と呼ばれるほど人材域性に熱心で、ディーラー経営者を多く輩出した[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ これにより軽便鉄道の建設・運転能力は幹部のみに付与するよう改められた
  2. ^ 昭和12.10以前に受領した台数も含む。
  3. ^ 『いすゞ自動車史』では製造年が「昭和15-」となっているが、98式が示すように昭和13年には制式化が行われている

出典

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  1. ^ 敷波 2000, p. 12.
  2. ^ 吉原 1958, p. 228.
  3. ^ 吉原 1958, p. 228,384.
  4. ^ いすゞ自動車史 1957, p. 193-194.
  5. ^ 久園 1979, p. 57.
  6. ^ 高橋 2000, p. 365.
  7. ^ a b 国境物語 1975, pp. 235–236.
  8. ^ a b 市原 1975, p. 26.
  9. ^ 織田 1975, p. 69.
  10. ^ 山本 1986, p. 7.

参考文献

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  • いすゞ自動車株式会社いすゞ自動車史編纂委員会 編『いすゞ自動車史』いすゞ自動車株式会社、1957年。NDLJP:2483158 
  • 高橋昇「一〇〇式鉄道牽引車」『軍用自動車入門:軍隊の車輌徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2000年、364-366頁。ISBN 4-7698-2267-7 
  • 久園太郎「随想 千場陸軍兵器支廠」『荷役と機械』第26巻第2号、荷役研究所、1979年2月、54-58頁、NDLJP:2379525/49 
  • 敷浪迪『日本軍機甲部隊の編成・装備(1)改訂版』ガリレオ出版、2000年。NDLJP:12171947/178 
  • 吉原矩「第四章 鉄道隊の戦時用法と編成装備」『日本陸軍工兵史』九段社、1958年、228-234頁。NDLJP:9581595/123 
  • Rice, M. A.; Willetts, B. B.; McEwan, I. K. (1995). "An experimental study of multiple grain-size ejecta produced by collisions of saltating grains with a flat bed". Bibcode:1995Sedim..42..695R. doi:10.1111/j.1365-3091.1995.tb00401.x {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  • Kok, Jasper; Parteli, Eric; Michaels, Timothy I; Karam, Diana Bou (2012). "The physics of wind-blown sand and dust". Reports on Progress in Physics. 75 (10): 106901. arXiv:1201.4353. Bibcode:2012RPPh...75j6901K. doi:10.1088/0034-4885/75/10/106901. PMID 22982806

関連項目

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関連項目

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外部リンク

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