コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Quark Logo/sandbox小堀正次

 
小堀正次
小堀正次像(模写)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文9年(1540年
死没 慶長9年2月29日1604年4月29日
改名 秀言→正次
別名 政次、秀言[1]通称:新助(新介)
戒名 長照院殿信誉道喜大居士
墓所 大本山光明寺神奈川県鎌倉市材木座)
幕府 江戸幕府
主君 浅井長政豊臣秀長秀吉秀頼)→徳川家康
備中松山藩
氏族 小堀氏(藤原姓)
父母 父:小堀勘解由左衛門[2]
母:浅井新兵衛[3]
兄弟 三右衛門[4]正次
正室:磯野員昌、側室:橫濱氏ほか
池田七左衛門、女(伊東掃部室)、政一正行、女(田中治兵衛[5]室)、正長正春宗榮
テンプレートを表示

小堀 正次(こぼり まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代武将江戸時代前期の大名備中松山藩初代藩主。近江小室藩主家の祖。別名に秀言(ひでのぶ)。茶人として名高い小堀遠州(政一)の父。

略歴

[編集]
小堀新介屋敷跡[6]

天文9年(1540年)、小堀勘解由左衛門(正房)[2]の長男として近江国坂田郡小堀村[8]に生まれた。母は浅井氏の一族で、正室もその家臣・磯野員昌の娘。

初め戦国大名浅井長政に属したが、元亀年間(1570年〜1573年)の間に羽柴長秀(秀長)に仕えることになった[9]

天正12年(1584年)付けの9月と12月の『清水寺文書』に小堀新介秀言と署名した発給文書がある[10]

天正13年(1585年)、秀長が大和入国すると大和国葛上郡宇知郡の2郡で3,000石を知行し、大和・和泉紀伊の3カ国の郡代を務めた[9][11]。同年閏8月9日、秀長は正次に紀伊国内を検地を命じた[12]

天正17年(1589年)3月27日、豊臣秀次の湯治費用のための銀子を高野山の寺に課した発給文書に、新介正次と署名している[13]。秀長の配下では、寺社や検地に関する発給文書によく正次の名がでていくる。

天正19年(1591年)に秀長が没すると、秀吉の直臣として仕えることになり、大和葛下郡で1,000石、和泉国日根郡で1,000石の加増を受け、都合知行5,000石[9][11]。留守居番、勘定頭、政所を務めた。

慶長4年(1599年)、内府・徳川家康が伏見城に入ると、伏見の町奉行を務めた[9][14]


再び出家するが、またもや還俗して

最初は1,000石の知行だったが、長秀の元で政治手腕を買われて重用され、主に紀伊国大和国検地代官を務めた。紀伊や大和は寺社勢力が多く、検地が容易でなかった事からも、その手腕を買われていた事がわかる。長秀の居城であった姫路城で奉行として活躍。

その才は秀吉にも愛され、秀の字を偏諱されて秀言と改名するが、

に長秀が秀長と改名したことから、主人に憚って、正次の名に戻した。


さらに大和国葛上郡・葛下郡・宇智郡、和泉国日根郡の4郡内で5,000石が加増され、都合8,000石を領した[15]

天正19年(1591年)に秀長が没し、文禄4年(1595年)に秀保した後は、秀吉の直臣として仕えて、大和・和泉・紀伊の郡代に任じられた。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津征伐に従軍。

戦後、近江国で1万2,400石に加増された[1]が、備中松山に転封となり、備中で1万石を与えられ、併せて1万4,460石[3]を知行して、備中における天領の管理も任された。

また、備中や近江における幕府の検地などにおいても、大いに功績を挙げ、慶長6年(1601年)には伏見城の作事奉行も務めている。

慶長9年(1604年)、江戸へ参勤に向かう途上、藤沢で急死した。享年65[1](異説に63 [7])。跡は長男の政一が継いだ。


系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p. 101
  2. ^ a b 諱は正房[3]または正治[7]
  3. ^ a b c d 堀田 1923
  4. ^ a b 小堀正快 1874, p. 5.
  5. ^ a b 浅野長晟の家臣。
  6. ^ 滋賀県長浜市小堀町にある。
  7. ^ a b 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 1053.
  8. ^ 現在の滋賀県長浜市小堀町。
  9. ^ a b c d 小堀正快 1874, p. 14(7).
  10. ^ 『兵庫県史』史料編中世第13巻, p.327
  11. ^ a b 堀田 1923, p. 319.
  12. ^ 大日本史料11編19冊148頁。
  13. ^ 『高野続宝』(東京大学史料編纂所)
  14. ^ 伏見奉行とは異なる。
  15. ^ 『寛政重修諸家譜』では、2,000石の加増で、併せ5,000石とする。

参考文献

[編集]