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利用者:Mzaki/リンネ

カール・リンネの肖像
カール・リンネの肖像

カール・フォン・リンネCarl von Linnéまたはラテン語Carolus Linnaeus1707年5月23日 - 1778年1月10日)は、スウェーデン医師植物学者博物学者分類学の統一的な方法論の基礎を築いた功績により「分類学の父」と称される。

名前

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カール・リンネのサイン

当時スウェーデンの庶民は(現在のアイスランド人のように)姓を持たず、名と父称とで呼ばれていた。しかしリンネの父Nils Ingemarssonはルンド大学入学の折りに牧師に相応しいラテン語の姓が必要になり、家のそばにあった大きなシナノキ(Linnagård、linden tree)にちなんでLinnaeusを採用したのである。したがってリンネの名は最初はCarl Linnaeusであったが、学者としてはラテン語化したCarolus Linnaeusを名乗っている。1761年の叙爵に際して貴族としての姓von Linnéを得て以後は、Carl von Linnéと名乗るようになった。

生涯

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1735-1740

命名法

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アリストテレス式

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「属」と「種」は、アリストテレスの論理学に端を発する語である。ある特定の事物を類似により集めたものを「種」(species)としたとき、それをさらに一般化したものを「類」(genus)という。例えば「動物は生物の一である」と言ったとき、動物が「種」、生物が「類」である。

リンネの時代までに生物を「類」と「種」とで認識する習慣が定着しており、ジョン・レイは『植物誌』(1686年)で、「同じ種子から繁殖し永続的に繰り返すものを種とする」という現在の生物学的種に通じる定義を行っている。一方、「類」についてはツルヌフォール(w:Joseph Pitton de Tournefort)が『基礎植物学』(1694年)において羅列したものが基礎となっている。この、生物の「種」をあつめた最初の「類」を、日本語では「属」と訳している。

当時は、生物はラテン語で、アリストテレス論理学の慣行にしたがい「類」+「種差」の形式で命名されていた。種差とは類の中でその種だけを特徴づける性質のことである。そのため類に含まれる種が増えると、区別するための特徴も多岐にわたって長くなっていくし、すでに知られていた種の種差を書き換える必要も出てくる。この方法の最大の問題点は長く煩雑で扱いにくいことである。

二名法

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リンネは生物を、「属」の名と、「種」を示す形容語(種小名)との、2つの単語で命名する二名法を確立・普及した。例えば、それまでリンネ自身がPhysalis annua ramosissima, ramis angulosis glabris, foliis dentato-serratisと呼んだヒロハフウリンホオズキは簡潔にPhysalis angulataと呼ばれるようになった。2単語による命名はリンネ以前にも見られ、特に200年ほどさかのぼったボーアン兄弟は、多くの植物を2単語で命名していることから二名法の開発者とされることもある。例えばブドウ Vitis vinifera L.はギャスパル・ボーアンが用いた名をリンネがそのまま受け継いでいる。しかしリンネが『自然の体系』で一貫して二名法を採用したことではじめて普及し、学名としての位置が確立されたのである。現在の生物の学名は、リンネの考え方に従う形で、国際的な命名規約に基づいて決定されている。

リンネは最初は通し番号で問題を解決しようとしていた。『スウェーデン植物誌』(1745年)では1から1140までの通し番号をつけ、議論の際にはその番号を使っていた。番号だけではどんな種なのか全く想像がつかないため、後には属ごとに番号をつけて属と番号で種を示す方法も使っている。その上で、番号だけでなく1語の形容詞を決めて用いることで、二名法にたどり着いた。なおリンネは二名法をあくまで便宜的な呼称ととらえ、従来のアリストテレス式の名を「種正名」と呼んで正規の名称としていた。

二名法は簡潔であるだけでなく、むしろ呼称と記述の分離を実現したことがより本質的な功績であると考えられる。分類学者によって分類の観点が異なると、アリストテレス式の種差の記述も変わってしまうことになるが、種小名は単なる呼称に過ぎないので同じ名で呼び続けることができる。

分類学

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生物を階層的に分類する手法自体は古くからあったが、リンネは『自然の体系』によって生物全般についての階層分類を整理・体系化した点に功績がある。ただしその体系そのものは進化論登場以前のものであり、今日の知見からするとおかしな所が多数あり、現在では省みられることも少ない。また結果論ではあるが、同時代にすでに知られていたより現代的な分類体系を拒否したりもしている。

今日使われている分類階級のうち、リンネが用いていたのは界・綱・目・属・種・変種であるが、これらは全てリンネ以前の博物学者によって用いられていた語である。ツルヌフォールは属の概念を確立したが、同時によく似た属の集合として綱を使っている。目は同様にリビヌス(w:Augustus Quirinus Rivinus)が使っていた語だが、リンネは綱の下にあまりにも多くの属があると不便だという理由で綱の下に目を導入している。

生物の学名を記すときに属名、種小名に続いて命名者と刊行年を記すことが推奨されており、その際に命名者を略して記す場合がある。リンネを示す略記はL.である。学名のすぐ後にL.とあれば、リンネが命名して以来変更されていないということになる。なお命名者の略記は現在の国際動物命名規約では推奨されていない。

植物の分類

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1731年のときすでに植物の分類体系「性の体系」を完成させる。これは主におしべに着目して24綱、さらにめしべなどにより目に分け、属・種と続くもので、『自然の体系』など生涯ほぼ一貫して採用している。リンネ自身、この体系が人為分類であることは承知していたが、生殖器官に着目することによって自然分類に近づけると考えていたようだ。リンネは占星術の記号であった♂(火星)を雄の、♀(金星)を雌の記号として用いた最初の人であるが、これは植物の性を記述するための創案であった。

リンネは植物の分類は生殖器官である雄しべ・雌しべによってされるべきだと考えていた。現在一般に広く用いられる体系(新エングラー体系)で行われている双子葉・単子葉の区別はイギリスのジョン・レイの体系(1703年)ですでに見られている。また合弁花・離弁花の区別はフランスのツルヌフォールの『基礎植物学』(1694年)で見られる。しかしこれらの視点を受け入れなかった。この「性の体系」はフランス以外のヨーロッパ各国では1810年ころまで広く用いられていたが、次第に支持を失った。

現代的な分類体系はリンネと同時期のフランスの植物学者ベルナール・ド・ジュシュー(1699年~1777年)にまで遡れる。彼の体系はヴェルサイユ宮殿のトリアノン植物園に分類花壇の形で存在していたが、1775年マリー・アントワネットによって造り替えられてしまった。ベルナールの考えに沿って、ミシェル・アンダーソンは一部の形質に着目した体系は自然分類ではありえないと説き、リンネを強く批判した。『植物の科』(1763年)では65の形質を比較して58の「科」をまとめるなど功績も大きいが、リンネの命名法をも拒否したため1960年代にいたるまでほとんど忘れ去られていた。ベルナールの甥、アントワーヌ・ロラン・ド・ジュシューがこれらをまとめ、リンネの命名法に沿って『植物の属』(1789年)を著した。この後、裸子植物と被子植物の区別が理解されるようになり、アイヒラー(1883年)やエングラー(1892年)の体系が広く普及することになる。

動物の分類

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彼は動物鉱物に分野を拡げて分類を研究し続けた。鉱物については何か変であると我々は感じるが、しかし 進化論が発表されるのは遥か先の話しである。ルター派のリンネが進化論をきいたならぞっとしたであろう。リンネは自然界の要素を分類する便利な方法を試みていただけだった。

リンネは個人的に常識的と感じた方法で分類群を命名した;例えば、人間はHomo sapiensヒト属を見よ)だが、彼はまた2番目の人類、Homo troglodytes(現在、Pan troglodytesとして分類されているチンパンジー)を設定した。

哺乳動物の定義の1つが子に乳を与えることから、乳腺(mammary gland)に因み哺乳類(mammalia)と名づけられた。 他の動物と哺乳動物を区別するすべての特徴から、リンネが生まれながらの母性の重要性に関する個人的な意見としてこれを選んだかもしれない。 高貴な女性でも自らの子への授乳を誇りに思うべきであると宣言して、彼は乳母の習慣へ反対運動をした。

代表的な著作

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リンネの著作は非常に多いので、ここでは科学史上特に重要な意味を持つものに限る。

  • 1730年Praeludia Sponsaliorum Plantarum『植物の婚礼序説』(セバスチャン・ヴァイアン『花の構造』の影響を受けてまとめた小論文)
  • 1735年Systema naturae『自然の体系』(概略のみ)
  • 1737年Flora Laponica『ラップランド植物誌』
  • 1738年Classes plantarum『植物の綱』(現在の「科」に相当する「目」をまとめたもの)
  • 1751年Philosophia botanica『植物哲学』(植物分類学の方法論・二名法について記述)
  • 1753年Species plantarum『植物の種』(全般的に二名法を採用した最初・植物学命名規約の基点)
  • 1758年Systema naturae『自然の体系』10版(動物学命名規約の基点)
  • 1766-68年、Systema naturae『自然の体系』12版(自身による最終版)
  • 1774年Systema vegitabilium『植物の体系』

参考文献

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  • 松永俊男『博物学の欲望』(ISBN 4-06-149110-5)講談社現代新書、1992年。

関連項目

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オリジナル

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カール・フォン・リンネ