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利用者:Moro/仏教倫理

仏教徒のアショーカ王は、インド亜大陸の至る所に柱を建て、仏教の道徳的な美徳や戒律を促す詔勅を刻んだ。

仏教倫理は伝統的に、ブッダのように悟りを開いた存在、もしくは菩薩などのブッダに近い存在の視点に立った仏教徒のものの見方に基づいている。仏教で倫理や道徳を表わす用語は、サンスクリット語でśīla、パーリ語でsīla)である。仏教における戒は、八正道を3つに分けたうちの1つであり、非暴力、つまり危害を加えないことを主な動機として、調和と自制に取り組む行動規範である。これは、[1]、道徳的な規律[2]戒律など、さまざまな表現がされている。

戒とは、解脱の道への取り組みに依拠した、内的、自覚的、意図的な倫理的行動である。英語の「morality(道徳)」という言葉から連想されるもの(従順さ、義務感、外部からの制約など)とは異なり、自己や人間関係の中にある倫理的な羅針盤である。

戒は、仏教や無宗教のヴィパッサナー運動の基礎となる3つの修行(三学)、すなわち戒(sīla)、(samādhi)、(paññā)の1つであり、テーラワーダ仏教の基礎である戒(sīla)、布施(dāna)、修習(bhāvanā)のうちの1つでもある。また、六波羅蜜の2番目でもある[3]。戒には2つの側面があり、正しい「履行」(caritta)と正しい「回避」(varitta)であることが修行に不可欠である。戒の規定を守ることは、他の人への「偉大な贈り物」(mahādāna)と考えられている。なぜなら、それによって信頼や尊敬、安心の雰囲気を作り出すからである。これは、修行者が他人の生命、財産家族権利ウェルビーイングに対して脅威を与えないことを意味する[4]

道徳的な指示、規定は、仏典のなかに書かれているか、もしくは伝統のなかで伝えられている。したがって、仏教倫理の研究者の多くは、仏教倫理の性質についての主張を正当化するために、仏典の検証や、伝統的な仏教社会に見いだされる人類学的な証拠を用いている[5]

基本理念

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世界中の仏教徒の倫理観の源は、ブッダ(仏)、ダルマ(法)、サンガ(僧)の三宝である。ブッダは、解脱にもとづく知識の発見者であり、したがって最も優れた教師であると考えられている。ダルマとは、ブッダの説いた道と、教えのなかにある真理の両方を意味する。サンガとは、ダルマを実践し、ある程度の知識を身につけたことで指導を行い、教えを守ることができる“高貴な人々(ārya)”の共同体である。教えを正しく理解することは、正しい倫理的行動に不可欠である。ブッダは、正しい見解が正しい行動の必要条件であると説き、時にそれは正しい思惟ともよばれると説いた。

業と輪廻

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六道絵(生命の輪)は、業によって輪廻転生する世界を示しており、その中心には三毒である貪り()、怒り()、妄想()がある。

仏教の道徳の中心的な基盤は、輪廻の法則である。記録によれば、ブッダは、正しい見方とは次のように信じることだと述べたという。「善い行いと悪い行いの成果と成熟がある。何をするかが重要であり、それが未来に影響する。この世があり、来世がある。この世は非現実的なものではなく、人は死後、別の世界に行く」(MN 117, Mahā-cattārīsaka-sutta)。

業とは、文字通りの意味としては「行為」を意味する言葉で、原因と結果として現れる宇宙の自然法則と考えられています。仏教の考えでは、業とは、行為者に道徳的な結果をもたらすある種の道徳的な行為のことである[6]。業の核心となるのは意思であり、それゆえブッダは「僧侶たちよ、私がカルマと呼ぶのは、意思(cetanā)であり、意思をもって人は身体、言葉、心を通じて行為を行う」(AN 6.63)と述べている。したがって、たまたま人を傷つけてしまっても悪業にはならないが、人を傷つけるような考えを持つと悪業になる。仏教倫理では、これらの動機と行動のパターンは、将来の行動と状況を調整するもの――現在の行動の結果(phala)であり、そこには行為者の将来の生存環境における境遇と場所が含まれる(ただし、これらは他のランダムな要因によっても影響を受けることがある)[6]。 人の過去の行動は、人の意識を形成し、後に来世で熟す種子(bīja)を残すと言われている。仏教の修行の目的は、一般的にはこのサイクルを断ち切ることであるが、善行によってより良い境遇に生まれ変わることも可能である。

意思の根源は、行為が良くなるか悪くなるかを条件付けるものものである。3つの善の根源(三善根; 無執着=無貪、博愛=無瞋、理解=無痴)と3つの悪の根源(三不善根; 貪欲=貪、憎悪=瞋、迷妄=痴)がある。良い結果をもたらす行為は「功徳」(puñña: 実りある、縁起の良い)と呼ばれ、功徳(善業)を得ることは、在家仏教徒の修行の重要な目標となっている。初期の仏教書では、「業の実りを得るための基盤」(puñña-kiriya-vatthus)が三つあるとして、布施(dāna)、戒(sīla)、瞑想(bhāvanā)が挙げられている[7]。良い行為をしているあいだの心の状態は、行為そのものよりも重要であると見なされる。仏教のサンガは、最も功徳のある「功徳の場」と見なされる。負の行為は悪業の結果を蓄積するが、後悔して償おうとすることで、その結果を改善することができる。

四諦

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四諦は次のとおり。

  • (dukkha; 苦しみ、満足することができないこと、耐え難さ)は、転生するたびに存在する、先天的な性質である[8][9][10]
  • 苦の(samudaya; 起源、原因)とは、「渇愛、欲望、執着」である[11][12][13]
  • 苦の(nirodha; 停止、終了)は、すべての「渇愛、欲望、執着」を排除することによって達成される[14][15]
  • (magga; 道、八正道)は、この苦を終わらせる手段である [16][17][18]

四諦は、仏教の中心的な世界観の一つであり、この世の存在を根本的に不満足でストレスの多いもの(苦)と見なす。苦は渇愛から生じると考えられ、渇愛を解消することで涅槃(nirvāna)が得られるという。渇愛を解消する方法は、ブッダが説いた八正道に従うことであり、そこには正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)という倫理的要素が含まれている。四諦の観点からは、苦の解消につながる行為が倫理的であると考えられる。人生における苦の真理を理解することで、その発生要因である渇愛を分析することができ、他者への慈悲や共感を感じることができるようになる。自分を他人と比較し、黄金律(「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」)を適用することは、この苦に対する評価から導かれると言われている[19]。また、仏教的には、八正道に則って精神的な成長を促し、涅槃に導く行為も道徳的であるとされる。大乗仏教では、生きとし生けるもの(衆生)の解放が強調されており、菩薩は生きとし生けるものの解放のためにたゆまぬ努力をすると考えられている。

戒律

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禅宗の入門儀礼である受戒では、菩薩戒が授けられる。

在家仏教徒にとって仏教倫理の基本は、すべての仏教宗派に共通する五戒である。五戒は命令ではなく、自発的な誓約や指針[20]であり、人が幸せで、悩みがなく、瞑想がしやすい人生を送るためのものである。五戒は、苦を遠ざけ、貪欲(貪)、憎悪(瞋)、迷妄(痴)の影響を弱めるとされている。五戒は、ブッダが在家信者や出家僧侶の両方に与えた基本的な道徳的指示である。性行為に関する戒を破ることは、それが不適切な関係であれば、自分の修行や他人の修行に害を及ぼすことになる[21]。 ブッダの教えに「帰依する」ときには、正式に次のような五戒を受ける[22]

  1. 私は、生命を奪わないための学ぶべきルールに同意します。
  2. 私は、与えられていない物を自分の物としないための学ぶべきルールに同意します。
  3. 私は、官能的な不正行為を避けるの学ぶべきルールに同意します。
  4. 私は、偽りの言葉を使わないための学ぶべきルールに同意します。
  5. 私は、不注意のもととなる酒やワインなどの酩酊物質を断つための学ぶべきルールに同意します。[23]

仏教徒は、サンガのメンバーとともに、正式な儀式で五戒を受けることが多いが、個人的な誓いとして行うこともできる[24]。五戒のそれぞれの戒を守ることで、対応した徳が身につくと言われている[25]。たとえば、殺生を控えることは優しさと思いやりを育み[26]、盗むことを控えることは非執着を育む[27]。五戒は、倫理学における功利主義[28]や、義務論徳倫理学などと結び付けられてきた[29]。五戒はその普遍的な性質から人権と比較されており[30][31]、一部の研究者は人権の概念を補完できると主張している[32][33]

五戒の受持は不殺生(パーリ語、サンスクリット語でahiṃsa)の原則に基づいている[34]パーリ仏典では、自分と他人を比較し、それに基づいて他人を傷つけないことを推奨している[35]。 慈悲[36]因果応報[37]が五戒の基礎を形成している。

第一の戒は、人間とすべての動物の両方を殺すことを禁止することである。研究者は、この戒に関して書かれている仏典を、死刑[38]、自殺、中絶[39][40]、安楽死に対する反対・禁止として解釈している[41]。第二の戒は盗みを禁止している。第三の戒はあらゆる形態の姦淫を指し、現代の教師によって「性に対する責任」や「長期的な関与」といった言葉で定義されている。第四の戒は、悪意のある言葉、厳しい言葉、噂話だけでなく、発話や行為による誓約をともなう虚偽なども含む[42]。第五の戒は、アルコールや薬物、その他の手段による酩酊を禁じている[43][44]。初期の仏教書はほとんどの場面でアルコールを非難しており[45]、中国で作られた仏典においても同様である[43][44]。喫煙に対する仏教徒の態度は時代や地域によって異なるが、一般的には寛容である[46][47]。現代では、伝統的な仏教国において五戒を推進する復興運動が行われている[48][49]。西洋では、仏教団体において五戒が主要な役割を果たしている[50]

また、八戒と呼ばれるより厳格な戒律があり、これは特定の宗教的な日や宗教的なリトリートの際に受ける。八戒はさらなる規律を促すもので、僧侶の規範をモデルにしている。八戒では、第三の性的非行に関する戒がより厳しくなり、禁欲の戒となっている。八戒に追加された3つのルールは次の通りである[23]

  1. 「私は、不適切な時間帯に食事を控える、という学ぶべきルールに同意します。」(例えば、正午以降、翌日の夜明けまで固形食品は摂りません。)
  2. 「私は、(a)踊り、歌唱、器楽、ショーを控え、(b)宝石、化粧品、美容製品の使用を控える、という学ぶべきルールに同意します。」
  3. 「私は、高くて豪華なベッドと座席の使用を控える、という学ぶべきルールに同意します。」

見習い僧(沙弥・沙弥尼)は十戒を用いるが、正式な僧侶には具足戒(prātimokṣa; 波羅提木叉)(テーラワーダ校訂版では僧侶のための227の規則)と呼ばれる、より大きな僧侶の戒律がある。僧侶は独身であることが求められ、また、伝統的に金銭に触れてはならないとされている。僧侶や尼僧の行動規範はに記されている。律を記した律蔵(vinayapiṭaka)の正確な内容は宗派によって若干異なり、また、部派の違いや派生した部派によって律を遵守する度合いの基準が異なる。

別の一般的な道徳的ガイドラインのセットは、菩薩の誓いとまたは「十戒」です。大乗梵網経から派生した菩薩の戒律には、仏陀の教えを誹謗中傷することに対する戒律など、他のいくつかの追加を加えた五戒が含まれています。これらは、既存の出家生活の規範を超えて存在するか、信者の教訓を築きます。 [51]梵網経には、肉を食べること、武器を保管すること、利益のために教えること、大乗仏教の教えを放棄すること、大乗仏教以外の法を教えることを禁じている48のマイナーな教訓のリストも含まれています。これらの教訓は、には、平行していない上座仏教を。

大乗仏教では、菩薩の誓願や、菩薩戒もしくは十重禁戒という共通の道徳的指針が別にある。菩薩戒は、大乗仏教の『梵網経』から派生したもので、五戒に加えて、仏の教えを中傷してはならないといった戒が追加されている。また『梵網経』には、十重戒とは別に四十八軽戒があり、肉食、武器の保管、利益目的の指導、大乗の教えの放棄、大乗でない法の指導などを禁止している。これらの戒律に対応するものは、テーラワーダ仏教には存在しない。

十の善の行動(十善業道)

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初期仏典における仏教の倫理的行動のもう一つの一般的な定式化は、十善業道(Dasa Kusala Kammapatha)であり、これらは「ダルマに従った」ものとされる[52][53][54][55]。これらは、3つの身体的行為(kaya kamma; 身業)、4つの言語的行為(vaci kamma; 口業)、3つの精神的行為(mano kamma; 意業)に分けられ、これらはすべて「未熟な資質が減少し、熟練した資質が成長する」ためのものと言われている[56]。 これらの十の道は、マッジマ・ニカーヤ MN 41(Sāleyyaka Sutta; サーレッヤカ経)やMN 114(応習不応習経)などの経典で議論されている[57][58]

そこで述べられている善の身体的行為(身業)についての記述は以下の通り:

  1. 「生き物を殺すことをやめる人がいる」。その人は「棒と剣を捨て」、「細心の注意を払い、親切で、すべての生き物に対する慈悲の心を持って生きる」。
  2. 「その人は、盗みをやめる。その人は、窃盗の意図を持って、村や荒野から他人の財産や持ち物を奪わない。」
  3. 「その人は、性的な不正行為をやめる。その人は、母親、父親、母親と父親の両方、兄弟、姉妹、親戚、または氏族を保護者とする女性とは性的関係を持たない。その人は、原則として保護されている女性、夫がいる女性、違反すると法律で罰せられる女性、または婚約の証として花輪を付けられた女性とは性的関係を持たない。」

善の言語的行為(口業)については以下の通り:

  1. 「嘘をつくのをやめる人がいる。その人は評議会、議会、家族会議、ギルド、または宮廷に召喚され、証人を務めるよう求められる。「どうぞ、あなたが知っていることを言ってください」と。知らない人は「知りません」と言う。知っていれば「知っています」と言う。見ていない場合は「見ていません」と言う。見た場合は「見た」と言う。だから、自分や他人のためにわざと嘘をついたり、世俗的なつまらない理由で嘘をついたりしない。」
  2. 「その人は、対立を起こすような発言をやめる。その人は、ある場所で聞いたことを別の場所で繰り返して、人々を互いに分断するようなことはしない。人々を互いに分割するために、ある場所で聞いたことを別の場所で繰り返すことはありません。代わりに、分断している人々を和解させ、団結を支持し、調和を喜び、調和を愛し、調和を促進する言葉を話す。」
  3. 「その人は、厳しい言論をやめる。その人は、甘美で、耳に心地よく、愛らしく、心に響く、礼儀正しく、好意的で、人々に好かれるような話し方をする。」
  4. 「その人は、無意味な話をあきらめる。その言葉は、教えや修行に沿った、時宜を得た、真実の、意味のあるものである。その人は、価値があり、合理的で、簡潔で、有益なことを、適切なタイミングで言う。」

善の精神的行為(意業)については以下の通り:

  1. 「それは誰かが満足しているときである。その人は、「ああ、あの人の財産が私のものだったら!」と、他人の財産や持ち物を欲しがらない。その人は、「これらの衆生が恨みや悪意を持たず、悩まず幸せに暮らせますように!」という優しい心と愛情のこもった意思を持っている。」
  2. 「それは誰かが満足して、心が満たされている状態で生きているときである。その人は愛情深く、愛に満ちた心で生きている。その人は親切で、優しさに満ちた心で生きている。」
  3. 「それは誰かが以下のような見解を持っているときである。「与えること、犠牲を払うこと、供養することには意味がある。善業と悪業に対する果報と結果がある。来世がある。母と父への義務がある。自然発生的に生まれ変わる存在がある。そして、修行を積んだ禁欲主義者やバラモンが、その洞察力で自ら悟った死後の世界を説明している。」

十福業事

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パーリの伝統でよく見られるもう一つの倫理的項目は、十福業事(Dasa Puñña-kiriya Vatthu)である[59][60][61]Nyanatiloka Theraが指摘したように、いくつかのテキスト(『如是語経』60)ではこれらのうち3つしか言及されていないが、後のパーリの注釈書では10に拡大しており、この10の項目はテーラワーダ諸国で人気がある。『如是語経』60にはこうある。

「比丘たちよ、功徳を積むための理由はこの3つである。3つとは何か。与えることからなる功徳の根拠、徳を積むことからなる功徳の根拠、心を育てることからなる功徳の根拠、この3つである。

長く続く幸せをもたらす功徳のある行為を訓練すべきである。すなわち、寛大さ、バランスのとれた生活、愛に満ちた心の育成のことである。幸福をもたらすこれらの3つの行為を修めることで、賢明な人は至福の中、トラブルのない幸福な世界に生まれ変わる。」[62]

Nyanatilokaによれば、『ディーガ・ニカーヤ』第30経(「三十二相経」)にも、いくつかの関連する功徳行について言及するところがあるしている[61]。『ディーガ・ニカーヤ』30は、ブッダが行った様々な模範的な功徳行について言及している[63]

「……身体による善行、言葉による善行、与えたり分けたりすることによる善行、戒律を守ることによる善行、斎戒の日を守ることによる善行、母と父、修行者とブラマンに敬意を払うことによる善行、家族の中で年長者を敬うことによる善行、その他様々な熟練した行動に関わることなどによる善行。」

「真実、原則、自制心、そして抑制。与えること、害さないこと、非暴力を喜ぶこと……」

「他の人に与え、助けること、親切な言葉遣い、平等な扱い、人々を結びつけるような行動や行為……」

後世に拡張された十の項目は以下の通り[59][60][61][64]

布施(Dana)は、仏教の重要な徳目である。僧侶のコミュニティは、カルマにとって最も功徳を積むことができる対象だと考えられている。

 

参考文献

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  9. ^ Carol Anderson (2004). Robert E Buswell Jr. ed. Encyclopedia of Buddhism. MacMillan Reference, Thomson Gale. pp. 295–297. ISBN 0-02-865718-7 , Quote: "This, bhikkhus, is the noble truth that is suffering. Birth is suffering; old age is suffering; illness is suffering; death is suffering; sorrow and grief, physical and mental suffering, and disturbance are suffering. [...] In short, all life is suffering, according to the Buddha’s first sermon."
  10. ^ Damien Keown (2013). Buddhism: A Very Short Introduction. Oxford University Press. pp. 50–52. ISBN 978-0-19-966383-5. https://books.google.com/books?id=_QXX0Uq29aoC 
  11. ^ Four Noble Truths: BUDDHIST PHILOSOPHY, Encyclopaedia Britannica, Quote: "The second truth is the origin (Pali and Sanskrit: samudaya) or cause of suffering, which the Buddha associated with craving or attachment in his first sermon."
  12. ^ Carol Anderson (2004). Robert E Buswell Jr. ed. Encyclopedia of Buddhism. MacMillan Reference, Thomson Gale. pp. 295–297. ISBN 0-02-865718-7 , Quote: "The second truth is samudaya (arising or origin). To end suffering, the four noble truths tell us, one needs to know how and why suffering arises. The second noble truth explains that suffering arises because of craving, desire, and attachment."
  13. ^ Damien Keown (2013). Buddhism: A Very Short Introduction. Oxford University Press. pp. 53–55. ISBN 978-0-19-966383-5. https://books.google.com/books?id=_QXX0Uq29aoC 
  14. ^ Carol Anderson (2004). Robert E Buswell Jr. ed. Encyclopedia of Buddhism. MacMillan Reference, Thomson Gale. pp. 295–297. ISBN 0-02-865718-7 , Quote: "The third truth follows from the second: If the cause of suffering is desire and attachment to various things, then the way to end suffering is to eliminate craving, desire, and attachment. The third truth is called nirodha, which means “ending” or “cessation.” To stop suffering, one must stop desiring."
  15. ^ Damien Keown (2013). Buddhism: A Very Short Introduction. Oxford University Press. pp. 56–58. ISBN 978-0-19-966383-5. https://books.google.com/books?id=_QXX0Uq29aoC 
  16. ^ Carol Anderson (2004). Robert E Buswell Jr. ed. Encyclopedia of Buddhism. MacMillan Reference, Thomson Gale. pp. 295–297. ISBN 0-02-865718-7 , Quote: "This, bhikkhus, is the noble truth that is the way leading to the ending of suffering. This is the eightfold path of the noble ones: right view, right intention, right speech, right action, right livelihood, right effort, right mindfulness, and right concentration.[..] The Buddha taught the fourth truth, maarga (Pali, magga), the path that has eight parts, as the means to end suffering."
  17. ^ Damien Keown (2013). Buddhism: A Very Short Introduction. Oxford University Press. pp. 58–60. ISBN 978-0-19-966383-5. https://books.google.com/books?id=_QXX0Uq29aoC 
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