利用者:Keeezawa/sandbox
酔胡王(N-231) | |
製作年 | 7世紀 – 8世紀 飛鳥時代 – 奈良時代 |
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素材 | 木製もしくは乾漆製 |
所蔵 | 日本,東京国立博物館、東京都台東区上野公園 |
登録 | 国指定重要文化財 法隆寺献納宝物(N-208 – N-238) |
ウェブサイト | 東京国立博物館 - 展示・催し物 展示 法隆寺宝物館(法隆寺献納宝物) 伎楽面 作品リスト |
法隆寺献納宝物の伎楽面(ぎがくめん)は、法隆寺に伝来し現在は東京国立博物館に所蔵されている31の伎楽面である。伎楽面は東大寺および正倉院に伝来したものを中心に8世紀の作例が数多く残っているが、本品は7世紀作のものが多いことから、現存最古の伎楽面として伎楽の歴史を明かすうえで重要な遺品とされている。
伎楽面とは
[編集]伎楽面とは伎楽で用いられる面である[1]。伎楽は仮面音楽劇の一種で[2]、『聖徳太子伝暦』によれば聖徳太子の活躍した600年頃から日本でみられるようになったとされている[3]。一方で『日本書紀』には推古朝20年(612年)に百済から伎楽の歌舞が伝えられた旨の記述があり[3]、『新撰姓氏録』には欽明天皇の時代に智聡が伎楽調度一式を持って入朝した旨の記述がある[4]。このように伎楽の伝来過程については日本国内のみならず大陸にも決定的な史料は存在せず、いまだ定説をみない[5]。奈良時代の天平の頃にもっとも盛んに行われ、鎌倉時代初期までに廃れた[2]。演舞のようすを記録した唯一の史料に『教訓抄』が存在するが、同書は伎楽の伝来から数百年が経過した鎌倉時代の史料であり、その頃の伎楽のありようは伝来した頃のものとは大きく違うと考えられているため、現代では当時の姿を再現するのは困難である[2][3]。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『西大寺資財流記帳』『教訓抄』などの史料の記述から伎楽面の1セットは下記の14種23面から成っていたことがわかっている[6]。
- 伎楽面の構成
古代の伎楽面は主に正倉院、東大寺、法隆寺の3箇所に伝来しており、正倉院に171面、東大寺に30面、法隆寺に32面が伝来している[6]。法隆寺伝来の32面は東京国立博物館に31面、法隆寺に1面が所蔵されている[7]。本項では東京国立博物館が法隆寺献納宝物として所蔵している31面について詳述する。
来歴
[編集]法隆寺伎楽面は法隆寺の寺伝によると「味摩之将来伎楽面」として推古朝20年(612年)に日本に伝えられたものとされているが[4]、その来歴が明確になっているのは1985年時点では江戸時代以降である[8]。
飛鳥時代
[編集]法隆寺伎楽面は味摩之によって日本に伝わったものであるとの寺伝が法隆寺に伝わっている[9]。『日本書紀』では推古朝20年(612年)に百済人の味摩之によって伎楽舞が伝わったとされており[4]、この記述は10世紀後半の『聖徳太子伝暦』にも引き継がれ、聖徳太子の業績のひとつとして以後の太子信仰へと組み込まれていった[9]。しかしながら『日本書紀』の記述と聖徳太子および法隆寺との関連性は弱く、法隆寺伎楽面の味摩之将来との寺伝はあくまでも『聖徳太子伝歴』成立に伴うある種のこじつけであると考えられるため、法隆寺伎楽面の伝来を推定するうえでは切り離して考えられるべきであると浅井は述べている[9]。
奈良時代
[編集]奈良時代において法隆寺伎楽面の存在を推定させる史料に747年(天平19年)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』があり、「伎楽壹拾壹具」との記述から伎楽面11種、計24面が存在していたことが明らかになっている[10]。これら24面と現存する31面との対応には議論があるが[10]、未完成の2面を除くクスノキ製の面の一部がそれ対応している可能性が高いとされている[10]。ただし、クスノキ製の呉女(N-211)が資財帳には記載されていない点[10]、資財帳に記載のある獅子、師子児、治道、波羅門、酔胡従の数に対して現存数には不足がある点から、クスノキ製面が対応すると断定することはできない[11]。しかしながら保存上の問題で失伝した面がある可能性も考えられるため、上述の2点のみを根拠にクスノキ製面と資財帳記載の面との対応を否定することもまたできない[11]。資財帳には獅子および治道が2面、師子児が4面存在する旨の記述があることから、当時の法隆寺には一部を欠失した状態で伎楽面2セットが存在したと考えられている[12]。この点について木内はクスノキ製面は当時すでに使用に耐える状態ではなく、747年以降にキリ製面が製作されたのだろうと推測している[12]。毛利は現存面と資財帳の記述との関連について、現状の残存数では資財帳をもとに考察を行うことは困難であると述べている[13]。一方で資財帳に呉女が記載されていない点について、クスノキ製の呉女の顔正面中心部が大きく欠けており資財帳製作当すでに使用に耐える状態ではなかった可能性を指摘し、資財帳記載面が第二類にあたる可能性があるのではないかと推測している[14]。
資財帳に記載のない面は法隆寺資財帳の成立以降に収められた可能性が高く、法隆寺東院(739年創建)のものが後世に西院に移された可能性や、中宮寺伎楽面が移された可能性などが考えられている[11]。ただし761年(天平宝字5年)の『東院資財帳』に伎楽面の記載がない点から、東院に伎楽面が所蔵されていた可能性は低い[11]。一方で法隆寺伝来の上代の裂に「中寺師子子」の銘文があることから中宮寺で伎楽が催されていたことは明らかであり[注釈 1]、当該裂が法隆寺に移動されていることを合わせて考えると、中宮寺伎楽面も同様に法隆寺に移動された可能性は高いと浅井は推測している[16]。木内も1983年の浅井の論考[注釈 2]に触れて中宮寺面が混入している可能性を考慮する必要があると述べている[17]。
平安時代
[編集]平安時代に法隆寺で伎楽が執り行われていたことを示す史料に『東大寺要録』があり、平安時代前期861年(貞観3年)の大仏御頭供養会の時点で伎楽が法隆寺を代表する楽であったことがわかっている[10]。この記述と法隆寺伎楽面とに直接の関連はないものの、法隆寺伎楽面はいずれも使い込まれた痕跡があることから、平安時代当時に実際に伎楽に用いられていた可能性を示唆する史料である[10]。しかしながらこの大仏御頭供養会では東大寺の高麗楽と大安寺の林邑楽が舞台の左右に配され大々的に演じられた一方で法隆寺の伎楽はこの体制から外されており、雅楽の日本化が進められていく平安前期において、伎楽が次第に傍流の楽として扱われ始めている証左ではないかと浅井は推測している[10]。平安時代後期における法隆寺の伎楽に関する史料としては『法隆寺別当次第』があり、1121年(保安2年)の開眼供養に際して「件聖霊堂前調伎楽并百種供養」との記述がある[18]。ただし、仮にこの時点で伎楽が演じられていたとするならば鎌倉時代までに伎楽が失伝してしまうのは不自然だと浅井は述べている[18]。また、1069年(延久元年)の聖徳太子絵伝にあらわされた伎楽伝来図の内容が『教訓抄』の記述とほとんど一致しないことから、これは当時の舞楽一般の概念を描いたものに過ぎず、平安時代後期には法隆寺における伎楽は既に廃れていたのではないかと浅井は述べている[18]。それゆえ『法隆寺別当次第』でいう「伎楽」が文字通り伎楽を意味するものかは定かではない[18]。
鎌倉時代
[編集]鎌倉時代の『古今目録抄』には「面二唐樻 仏生会料也」の記述がある[19]。これが伎楽面であるかは定かでないが、この面は仏生会に用いられる面として言及されており、仏生会で伎楽が催されていたことは『延喜式』『東大寺要録』の記述から明らかであるため、当該面が伎楽面であった可能性は存在する[19]。ただし、法隆寺の仏生会において伎楽が催されていたとする史料が存在しない点や、この頃すでに伎楽が廃れていたことを勘案すると、この記述が伎楽面を指していたかどうかは定かではない[20]。
江戸時代
[編集]法隆寺伎楽面の伝来が明確になっているのは1985年時点では江戸時代以降である[8]。複数の出開帳で法隆寺伎楽面31面が出品されており、1800年(寛政12年)および1842年(天保13年)の出開帳でその存在が確認されている[19]。1800年の出開帳と同時期に編纂された『集古十種』に法隆寺伎楽面31面が「味摩之将来伎楽面」として掲載されていることから、この頃には既に味摩之将来の伝承のもとで31面がセットとして扱われていたことがわかっている[19]。これらの史料には法隆寺に現存する伎楽面1面について言及がない一方で1925年(大正14年)の『法隆寺大鏡』に言及があることから、この1面は残欠として31面とは区別して所蔵されており、1878年の献納から大正時代の間に「発見」されたものだと考えられている[19][21]。
近世以降
[編集]法隆寺は再建資金捻出のため1876年に皇室に宝物の献上を申し出、1878年に法隆寺伎楽面を含む複数の宝物を献上した[19]。献上を申し出た願書である『古器物献備御願』(1876年11月)には「伎楽面 三十壱」との記述がある[17]。伎楽面を含むこれらの宝物は法隆寺献納宝物と呼ばれ、第二次世界大戦後の皇室財産の整理に伴って1947年に国有化され、東京国立博物館の所蔵となった[19][17]。
1979年にはX線撮影、蛍光X線分析、赤外線撮影、顔料・漆等の実体顕微鏡写真の撮影が行われ、その研究成果は『法隆寺献納宝物特別調査概報I 伎楽面』(東京国立博物館、1980年刊)および『法隆寺献納宝物 伎楽面』(便利堂、1984年刊)に収録されている[22]。2023年にはX線断層撮影が行われ、その研究成果はPDFファイルとして公式ホームページにて公開されている[23]。
伎楽面は保存状態が危険なものもあるため、法隆寺宝物館の展示スペースには人感センサー照明が導入されており、公開日も2024年現在では金曜日と土曜日のみに限られているほか職員でも触ることは稀である[22]。
分類
[編集]法隆寺伎楽面はいくつかの種類に分けることができる。材質では3種類に分類され、クスノキ製、キリ製、乾漆製に大別される[9]。飛鳥時代から奈良時代にかけての仏像と材質および作風を比較すると、クスノキ製がもっとも古いものであると考えられている[9]。
また、製作技法および作風によって大まかに下記の5種類に分類することができる[24]。
第一類
[編集]第一類には崑崙(N-214)が分類される[24]。第一類は後頭部まで含めて一材から彫り出されており、後述する第二類の大部分は本体と後頭部を別材から彫り出している点が異なる[25]。
本面の制作年代推定については古くは野間清六が材質および彫刻技法の面からもっとも古い面だと推定しがているが、1984年の『伎楽面 : 法隆寺献納宝物』ではこれについて賛否両論が挙げられており意見の一致をみていない[26]。浅井はこの点について、材質が第二類と同一である点、施されている漆木屎はN-227と同様である点、造形表現もN-209と類似している点などを挙げて、N-214も第二類に含めてよいのではないかと述べている[27]。また、身体表現の誇張の大きさや全幅・重量の重さが他面よりも突出している点についても、崑崙という役どころの特徴ゆえであろうと述べている[27]。
第二類
[編集]第二類には師子児(N-208)、治道(N-209)、呉公(N-210)、呉女(N-211)、金剛(N-212)、迦楼羅(N-215)、太孤父(N-216)、太孤児(N-217)、太孤児(N-218)、酔胡王(N-219)、酔胡従(N-220)、酔胡従(N-221)、酔胡従(N-222)、酔胡従(N-223)、力士(N-227)、波羅門(N-230)、の計16面が分類される[28]。各所の技法的特徴を勘案すると、飛鳥時代末期から白鳳時代にかけての製作だと考えられている[25]。
これらはいずれも飛鳥時代の彫刻に特徴的なクスノキを用いており、彩色の下地もN-209を除いてすべて白土地で(N-209は不明)、N-219とN-223を除いてすべて後頭部が別材から彫り出されている(N-219は冠を被るため最初から後頭部を欠いており、N-223は後頭部も含めて一材から掘り出されている)[25]。彫りの特徴としてはいずれも比較的簡潔かつのびやかで、顔の皺はいずれも浅い線上に刻まれている[25]。眼は飛鳥仏像のように杏仁形のものがみられ(N-208、N-210、N-216、N-230)、鼻は一部を除いて高く整った鷲鼻である[25]。口は一部を除いて仰月形であり、飛鳥仏像の特徴だと捉えることも可能である[25]。耳たぶは長く平たく垂れたものが多く、皺の表現は浅め、正倉院伎楽面および東大寺伎楽面のような貫通孔は一切みられない[25]。また、身体表現とは別でN-210、N-227には金銅透かし彫りの宝冠が、N-212には東京藝術大学所蔵の宝冠と同類の宝冠がそれぞれ付属していた[25]。宝冠の裁文技法は正倉院伎楽面のものに比べて大まかで素朴であり、製作年代は大幅に下るものだと考えられる[25]。
第二類の16面はもともと1セットであった可能性があり[25]、仮に1セットであるとした場合、師子と崑崙の2種、師子児2面のうち1面、酔胡従のうちいくつかが欠失している[29][注釈 3]。
第三類
[編集]第三類には酔胡従(未完成)(N-237)、酔胡従(未完成)(N-238)の計2面が分類される[29]。いずれも酔胡従であり、クスノキ製で未完成のまま素地が露出している[29]。第一類および第二類とは材質は同じであるが技法・様式はさほど古様ではなく、第二類のような後頭部のみ別材から彫り出すようなことは行われていない[29]。浅井も未完成面2面は他のクスノキ製面と作風が異なる点を指摘し、第二類と分けて取り扱うべきであると述べている[9]。N-238は肉取りの張りなど一部に第二類と共通する表現が見られる一方、N-237は第二類とは異なり「神経質ともいえる傾向がある」ため、これら2面を同類とできるかには議論がある[30]。
第四類
[編集]第四類には金剛(N-213)、師子児(N-224)、呉女(N-225)、迦楼羅(N-226)、力士(N-228)、金剛(N-229)、酔胡王(N-231)、酔胡従(N-232)、酔胡従(N-233)の9面と、法隆寺所蔵面(太孤父)の1面を合わせて計10面である[30]。作成年代は天平時代と考えられている[30]。
第一類から第三類までの面と異なり材質はすべてキリ製である[30]。キリ製の伎楽面は東大寺に無数の作例が残っており、それらの多くは752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼会に際して作られたものである[30]。第四類面の作風も同様におおらかで写実的な天平時代のものであるため、同時代の作だと考えられている[30]。一方で耳たぶの造形は第二類のものに近く、貫通孔もN-231以外には存在しないため、天平期の作であるとしても正倉院および東大寺面よりも早い時代に作られた可能性が高い[30]。彩色の下地は白土地と緑青地に分けられ、白土地はN-213、N-231、法隆寺所蔵面の3面、緑青地はN-224、N-225、N-226、N-228、N-229、N-232、N-2337面である[30]。彩色下地に緑青を用いる面は正倉院および東大寺所蔵面にはほとんど見られず、第四類は伎楽面の中でも大変特徴的な面である[30][注釈 4]。
第四類が伎楽面1セットを構成するものだと仮定すると、1面であるはずの金剛が2面存在する点が異質である[14]。金剛いずれか1面が他のセットから紛れ込んだか、もしくは白土地と緑青地の2種があるため2セットが混ざっている可能性もある[14]。
第五類
[編集]第五類には力士(N-234)、酔胡従(N-235)、波羅門(N-236)の計3面が分類される[14]。制作年代は天平時代だと考えられている[14]。
材質はすべて乾漆製で、彩色下地はすべて白土地である[14]。3面いずれも技法、作風が共通しており、特に耳皺の形が稜角を立てたY字形である点が類似しているため同類だと考えられている[14]。これら3面は天平時代の作だと考えられているが、正倉院所蔵の乾漆面は漆地彩色と漆木屎地彩色であるため、法隆寺乾漆面はそれらより前の作だと考えられている[14]。
製法
[編集]製作時期
[編集]乾漆伎楽面は麻布2枚重ねで表面の盛り上げも薄くつくられている[23]。一方で東大寺伎楽面 酔胡従(C-1818)は麻布3枚重ねで表面の盛り上げも厚い[23]。浅見はこれらのことから、法隆寺伎楽面に乾漆面が少ないのは強度が弱く破損したためであり、東大寺伎楽面はこれらの反省を踏まえて製作されたのだろうと推測しており、それゆえ法隆寺伎楽面が東大寺伎楽面より時代が先行する8世紀前半までにつくられたとする通説を追認している[23]
議論
[編集]評価
[編集]浅井は法隆寺伎楽面を伎楽伝来初期の姿を現在まで伝える貴重な品であると評しており[31]、東京国立博物館は正倉院および東大寺伝来の伎楽面と比較して「造形的にみてもより古様である上、その半数近くが上代彫刻に多くみられる樟材を用いていることを考えても、現存最古の面であり、その価値はきわめて高い」と述べている[32]。
法隆寺献納宝物の伎楽面の一覧
[編集]師子児(N-208)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.8cm、最大幅19.1cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
治道(N-209)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.5cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
呉公(N-210)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.9cm、最大幅25.6cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
呉女(N-211)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長37.7cm、最大幅32.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
2023年に行われたX線断層撮影によって、髻(稚児輪)の左側が一材でできていることが判明した[34]。浅見は「このような形のものを一材から作るのは手間がかかり材料にも無駄が出るので後補とはいいきれないだろう」と述べ、右側との形状の違いから両者の製作年代が異なる可能性を指摘している[23]。
金剛(N-212)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅22.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
金剛(N-213)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長37.7cm、最大幅21.7cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代である[33]。
崑崙(N-214)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅26.7cm。重さは1510g。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33][24]。彩色は白土地彩色とみられている[24]。裏面には墨書が残されており、「左方」と「除□」、ほか解読困難なものがある[24]。
法隆寺伎楽面のうち全長、重量ともに最大であり、大きさは二番目の酔胡従(未完成)(N-237)の30.7cmより3cmほど大きく、重さは二番目の力士(N-227)の1030gより500gほど重い[24]。
製作年代は明らかでないものの、削りに独特な粘り気と重厚さがあり、その古様さから法隆寺伎楽面最古の作との見方がある[24]。
2023年に行われたX線断層撮影によって虫喰孔の被害が大きいことが明らかにされており[22]、浅見は「取り扱いに慎重を期す必要がある」と述べている[23][注釈 5]
迦楼羅(N-215)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長28.6cm、最大幅22.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
太孤父(N-216)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.8cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
面裏に「鵤寺孤子父」[注釈 6]の墨書が施されており、同様の墨書がこれよりも新しい年代(第四類)に作られたと思われる法隆寺所蔵の太孤父にも施されているが、これは後世に同時に書かれたと見られている[29]。
太孤児(N-217)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.7cm、最大幅19.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
太孤児(N-218)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.0cm、最大幅18.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡王(N-219)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長32.6cm、最大幅19.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡従(N-220)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長31.5cm、最大幅21.7cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡従(N-221)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.6cm、最大幅22.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡従(N-222)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長28.4cm、最大幅22.1cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡従(N-223)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.0cm、最大幅23.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
師子児(N-224)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長22.5cm、最大幅17.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
呉女(N-225)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅20.5cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
迦楼羅(N-226)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長32.0cm、最大幅18.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
力士(N-227)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長36.7cm、最大幅24.5cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
力士(N-228)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.6cm、最大幅22.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
金剛(N-229)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.9cm、最大幅21.4cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
波羅門(N-230)
[編集]国指定重要文化財。大きさは現存長27.7cm、最大幅22.6cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡王(N-231)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長42.5cm、最大幅24.5cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
酔胡従(N-232)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.6cm、最大幅22.8cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
酔胡従(N-233)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長27.7cm、現存最大幅20.2cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
力士(N-234)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.0cm、最大幅26.5cm。乾漆造、製作年は8世紀・奈良時代である[33]。
酔胡従(N-235)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.8cm、最大幅20.0cm。乾漆造、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[33]。
波羅門(N-236)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.9cm、最大幅18.4cm。乾漆造、製作年は8世紀・奈良時代である[33]。
酔胡従(未完成)(N-237)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.7cm、最大幅21.2cm。クスノキ製、製作年は7 – 8世紀・飛鳥時代である[33]。
酔胡従(未完成)(N-238)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.2cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7 – 8世紀・飛鳥時代である[33]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 田辺 1984, p. 29.
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 東京国立博物館 2024, p. 181.
- ^ 浅見 2024, pp. 169–170.
参考文献
[編集]- 東京国立博物館『伎楽面 (法隆寺献納宝物特別調査概報 ; 43)』東京国立博物館、2024年 。
- 浅見龍介 著「作品解説 伎楽面」、奈良国立博物館、東京国立博物館、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション 編『聖徳太子と法隆寺 : 聖徳太子1400年遠忌記念特別展』読売新聞社、2021年、296-297頁。全国書誌番号:23587567。
- 成瀬正和「作品解説 伎楽面」『日本美術全集』第3巻、小学館、2013年、254-255頁、ISBN 978-4-09-601103-4。
- 今岡謙太郎『日本古典芸能史』武蔵野美術大学出版局、2008年。ISBN 978-4-901631-81-5。
- 田辺三郎助「伎楽面」『国史大辞典 第4巻(き – く)』吉川弘文館、1989年、29-30頁。ISBN 4-642-00504-8。
- 岸辺成雄「伎楽」『国史大辞典 第4巻(き – く)』吉川弘文館、1989年、28頁。ISBN 4-642-00504-8。
- 浅井和春「法隆寺伎楽面小考」『佛敎藝術』第161巻、毎日新聞出版、1985年、23-44頁、全国書誌番号:00020957。
- 東京国立博物館 編『伎楽面 : 法隆寺献納宝物』東京国立博物館、1984年。全国書誌番号:85011195 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 伎楽面 - e國寶
- 木造伎楽面 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 乾漆伎楽面 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 木造伎楽面 - 文化遺産オンライン
- 乾漆伎楽面 - 文化遺産オンライン
- 『法隆寺献納宝物特別調査概報 43 伎楽面X 線断層(CT)調査報告』関連動画 - YouTubeプレイリスト
Category:法隆寺献納宝物]]
Category:東京都区部の重要文化財]]
Category:東京国立博物館の収蔵品]]
Museum206 乾漆伎楽面の製造方法
トーハクで確認 伎楽面 便利堂1984 法隆寺献納宝物特別調査概報1 1980