智聡
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智聡(ちそう[1]、生没年不詳[1])は、欽明天皇二十三年(562年)、大伴狭手彦にしたがって呉から来日した渡来人[1]。日本に初めて医学書をつたえたとされる。知聡とも[1]。650年、孝徳天皇に牛乳を献じて和薬使主(やまとのくすしのおみ)の姓を賜った善那使主の父親[2]。
人物
[編集]智聡は百済に移り住んだ南朝梁の移民で、欽明天皇の治世にさらに百済から日本に居を移した。智聡は、日本に赴く時に、「内外の典・薬書・明堂図など百六十四巻、佛像一体、伎楽調度一具」をもっていき、仏典や仏像とともにそれらを朝廷に献上した[2][1]。
横山七郎は、「按ずるに、和薬使主は呉人であるが、大伴狭手彦は、呉に使したことがないから、これは、高麗か百済かにいた呉人種が、狭手彦が高麗を伐っての帰陣に従って、わが国に帰化したものであろう」と述べている[3]。