利用者:Kai Shotaro/sandbox
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下書き:坂の上の雲
坂の上の雲 | |
---|---|
訳題 | Cloud above the Hill |
作者 | 司馬遼太郎 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 長編小説・歴史小説 |
発表形態 | 新聞掲載 |
初出情報 | |
初出 | 『サンケイ新聞』夕刊 : 1968年(昭和43年)4月22日 - 1972年(昭和47年)8月4日 |
出版元 | 産経新聞 |
挿絵 | 下高原健二 |
刊本情報 | |
刊行 | 書誌情報参照 |
収録 | 同上 |
装幀 | 加藤製本 |
装画 | 風間完 |
総ページ数 | 2925 |
id | 書誌情報参照 |
シリーズ情報 | |
前作 | 宮本武蔵 |
次作 | 妖怪 |
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『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の長編小説。264年と続いた江戸幕府を倒幕させるに至った明治維新を遂げ、富国強兵といった軍事的な強化を為し、日清戦争と日露戦争と通して大国へと駆け上った日本を描いた歴史小説である。主人公は近代化の歩みを進める最中にある明治時代日本の伊予松山藩に生まれた3人の人物であり、大日本帝国陸軍にて騎兵を強化を行い、黒溝台会戦においての勝利を遂げた秋山好古、大日本帝国海軍の参謀としてバルチック艦隊を破った日本海海戦の立役者秋山真之、数々の名句を残し、後世までに俳人としての名を残した正岡子規らである。
あらすじ
[編集]三人の生い立ち――『春や昔』
[編集]伊予松山藩(以下、松山藩)に秋山家という家があり、その家には既に4人の子がいた。当時の松山藩は先の長州征伐により多額の賠償金を払わせられ、藩の全体が困窮していた。無論、秋山家も例外ではなかった。慶応4年3月20日(1868年4月12日)、また秋山家に子が宿ると、当主であり、学務課の役人であった平五郎久敬(以下、久敬)は先程の事情により子を堕胎させようとしたのだが、久敬の子の信三郎好古(以下、好古)がそれを良く思わず、「お豆腐ほどのお金を稼ぐ」と言い、なんとか堕胎を説得した。好古が働いた先は戒田という人の風呂屋であったが、町中で士族の息子が風呂屋になったと悪評混じりの評判となり、各所で罵られた。風呂屋で働き始めてから少し経った頃、池内という人から大阪に師範学校ができたという話を聞いた。勉学について関心があった好古はそのことを聞くと、久敬に相談した。だが、入学の規定は19歳以上であり、16歳の好古の入学は閉ざされた。しかし、諦めきれなかった好古は大阪へ向かうことを懇願すると、久敬が小学校教員の資格を取ることを提案した。すると好古もそれに同意し、大阪へ向かうこととなった。年が明け、正月となった頃、好古は大阪へ渡り、助教試験へ合格。その後に河内四十五番小学校への勤務を命ぜられると、大阪府庁にて本教員の試験も行われ、好古は助教試験に続きこれも合格し、野田小学校への転勤を命ぜられた。大阪へ渡って少し経つと、好古は師範学校へ入りたいと決意するようになった。だが、師範学校に入学できる年齢は先述したように19歳であり、好古はいまだ17歳であった。これをもってでも好古の考えは不変であり、年齢を誤魔化し、入学した。好古の成績は良いとは言えなかったものの、無事卒業し、三等訓導といった辞令を貰った。これにより、今まで月9円であった給料も、月30円へと上昇した。好古はその後愛知県立師範学校に付属小学校が建てられたため、松山藩の先輩であった和久正辰が名古屋へ誘う旨の手紙を好古を送り、その地の名古屋へ向かい、働いた。年が明け、明治10年となった頃、正辰は好古に、無料の学校があるとのことで士官学校を勧め、そこまでの経緯は正辰自身が負うとし、これに好古も承諾した。正辰は好古を東京予備教員という名目だけの教員にさせ、無事士官学校に入学させた。