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利用者:HWTOF/武王克殷

武王克殷(ぶおうこくいん)とは、『説苑』の武王が殷の帝辛を討つ場面の冒頭の4字、及びその場面の事である[1]。本文では後者について、説苑にあるものを説明する。

牧野の戦い
殷の領土(紫)
戦争殷周革命
年月日紀元前1027年又は紀元前1046年[2](周武王11年)
場所牧野(現在の衛輝市域)
結果の決定的勝利
交戦勢力
(商)
指導者・指揮官
帝辛 姫発
姫旦
呂尚
姫奭
戦力
700,000(諸説あり) 400,000(諸説あり)
損害
不明 不明

1度目の挙兵

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姫発(後の武王)の父・姫昌は、諸侯に幾度となく放伐を薦められたが、主君である帝辛を討つのは道に反するという事で、これを退けた。

姫昌亡き後を継いだ姫発は、太公望と呼ばれた呂尚の助けも借りつつ、父同様に善政を敷き、諸侯は殷・帝辛の下を離れ、周・姫発の下に集った。そして諸侯に促され、姫発は殷・帝辛を討つ事を決意した。

姫発は徳がある事で知られていた父の位牌を掲げて挙兵した。父の位牌とともに盟津(洛陽市孟津県)まで進軍した。この時、幾つもの瑞兆が現れ、800にも及ぶ諸侯が参加した。しかしこの時、姫発は天の声を聞き時期尚早と考え、撤兵した。

2度目の挙兵

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兵を引いて2年の後、帝辛の苛政は一層激しさを増し、再び挙兵した。諸侯はこれに応じ、戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まった。牧野において、殷兵70万[注釈 1]と対峙したが、殷の奴隷兵は帝辛に反旗を翻し、姫発はこの戦いに勝利した。

一方で牧野の戦いに敗れた帝辛は、首都・朝歌(現在の殷墟)に退き、鹿台という高塔に登り、火を放って焼身自殺した。これにより、殷王朝は滅びたとされる。帝辛の死後、朝歌に入城した姫発は、帝辛の焼死体を探し出し、矢を打ち込んで、首をで落とし、殷放伐の完了を宣言した。これがBC1027[3][4]の事であったとされる。

姫昌の考えと同じく、帝辛を討たずに世を治まる事を姫発に進言していた伯夷・叔斉は、これに反発して周を去り、周の作物は食べられないと言って首陽山に籠もり、草木を食べていたがやがて餓死したとされる。司馬遷はこれについて、悪人とされた盜蹠も比較対象として、「天道是邪非邪」(善人が報われるのは本当だろうか)と述べている[5]

周の創始

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周を建てるにあたり、帝辛の叔父にあたる箕子朝鮮に封じ、帝辛の異母兄・微子啓に封じ、殷の祭祀が絶えないようにした。また、神農の子孫[注釈 2]黄帝の子孫[注釈 3]の子孫をの子孫をの子孫[注釈 4]に封じ、古代の王たちの祭祀も継承するようにした。

また、呂尚(太公望)を、弟・周公旦召公奭叔鮮叔度に封じた。

また、大伯父にあたる太伯・虞仲の曾孫である周章[注釈 5]、更にその弟・虞仲を北方のに封じた。

また、鎬京に都し、武器を捨てることで、今後は平和を保つという意思を示した。これにより、周王朝1000年の基礎が築かれた。

関連項目

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脚注

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  • 注釈
  1. ^ 17万とも。
  2. ^ 詳しくは神農氏を参照。
  3. ^ 但し、[[夏 (三代)|]]・は全て黄帝の子孫にあたる。
  4. ^ つまり夏王朝の子孫。
  5. ^ 太伯に子は無く、ここに記されるのは全て虞仲の子孫である。また、彼らは姫発の再従兄弟の子にあたる。
  • 出典
  1. ^ 『説苑・貴徳 三』武王克殷,召太公而問曰:「將奈其士眾何?」太公對曰:「臣聞愛其人者,兼屋上之烏;憎其人者,惡其餘胥;咸劉厥敵,使靡有餘,何如?」王曰:「不可。」太公出,邵公入,王曰:「為之奈何?」邵公對曰:「有罪者殺之,無罪者活之,何如?」王曰:「不可。」邵公出,周公入,王曰:「為之奈何?」周公曰:「使各居其宅,田其田,無變舊新,唯仁是親,百姓有過,在予一人!」武王曰:「廣大乎,平天下矣。凡所以貴士君子者,以其仁而有德也!」
  2. ^ 夏商周年表プロジェクトの結果から
  3. ^ 『竹書紀年・帝辛』『竹書紀年・周武王』
  4. ^ 夏商周年表プロジェクトに拠ればBC1046
  5. ^ 『史記 巻六十一 伯夷列傳 第一 5』

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