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利用者:HWTOF/中国の経済史

翻訳元: zh:中国经济史 2020年8月3日01:03

中国の経済史では、中国経済の1100年にわたる変化と、中国経済の世界における地位について述べる。上古時代の農業経済から数えると、中国の経済規模は2000年にわたり世界でも大きいものであった[1]。古代の経済の盛衰は王朝の盛衰と対応しており、経済の中心については政治・戦乱・人口の遷移・農業・商工業・交通の発展と深く関わっていた。歴史学者らは中国の経済重心が北から南に遷ったことについて、まず古代から西晋まで、次に東晋から北宋、最後に南宋からアヘン戦争までの大きく3期に分けている。華南経済が完全に黄河中流域(華中)の経済を超えたとされるのはこのⅢ期にあたるとされる[2]

11〜13世紀の宋元時代において、農商工業の発展はめざましいもので、仁宗の治世以降には交子会子などの紙幣は四川で地域的に発行・流通していたが、元代には紙幣の流通は中国全土に及んだ。これは交鈔(鈔)と呼ばれるもので、有効期限付きではあったが高額決済が円滑に行われるようになり、その結果として中国の市場は長期的発展を遂げたが、同時に世界最初の破壊的な金融危機を引き起こした。宋元時代は対外貿易が頻繁に行われ、金銀が大量に中国に流入した。

明朝・清朝の経済において、中国の経済政策は保守的なものに転換し、政府は長期に渡って重農抑商政策を採った。海禁政策を行ったため、商工業の発展は限定的なものとなった。18世紀を越えると、西欧ではアメリカ大陸より大量の小麦などが流入したため、農業を放棄し、いち早く農業経済から農商工業経済に遷ることができた(産業革命)。また、アヘン戦争以来の中国の小作人制度は西洋世界による影響を大きく受けて再構築されたものであった。

清末民初において、工業化都市化は現代化の重要な過程であった。この時期、現在も工業が盛んな東部沿海地区の発展が大きく、南北の経済格差は縮退したが、東西の経済格差が拡大したとされる[3]。東部沿海地区は現在も中国経済の中心地であり、清朝政府や国民政府は西方の工業発展に努めていたが、内外には妨げる要因も多かった。1927年に国民政府が南京に都を定めてから1937年に抗日戦争が激化するまでの、比較的平和だった時期を「黄金の十年(南京十年)」という。しかしその後戦乱の末、第2次国共内戦中華人民共和国建国に至り、政局が穏やかになって後、経済は再び発展し始めた。

中国大陸の経済は中華人民共和国建国初期には芳しくなく、共産主義に基づく計画経済を実施したが、工業体制の発展はソ連の援助に依存したものであった。更にその後の大躍進政策文化大革命は鉄屑の山と数千万の餓死者、西蔵・ラサにおける人権問題に関するアメリカによる経済制裁を生み出し、その影響により、数十年にわたって貧しい状態であった。

1978年に鄧小平が提唱した改革開放では、中国経済を計画経済から市場経済へと移行する方針を打ち出し、外国資本の誘致と漸次的な対外解放を行った。社会主義市場経済と呼ばれるこの経済体制を採用した結果、2019年のGDPは100兆人民元(14兆米ドル)を超え[4]、EU、アメリカに並ぶ世界三大経済体の1つとなり、GDPにおいてはアメリカに次ぐ第2位の大国となった。人口は約14億、1人当たりGDPは10276米ドルを超え、上・中所得国の所得水準となっている。東部に限っていえば1人当たり2万米ドルを超えている。但し経済発展は、資源、環境汚染や貧富の差の拡大、不動産バブルや地域発展の不均衡、産業の高度化などの影響を大きく受けている。近年のグローバリゼーションにおいては、米中貿易摩擦や中国大陸への日韓や香港・台湾・東南アジアとの貿易が盛んになっている。現在の中国経済は世界経済の影響を深く受けており、世界最多の中産階級を有し、アメリカに次ぐ世界第2の市場となっている。

先秦時代[編集]

中国の歴史のルーツである黄河流域に栄えたの時期、中国に農業主体の経済が流入した。春秋戦国時代諸子百家の1つ、法家は、農業を本業、商工業を末業と位置付け、その関係性について「重本抑末」を説いた。この重農抑商政策は近代まで変わらず、中国の経済主体は農業であった。

殷商からに至るまで、経済・政治の中心はともに華北の関中にあった[5]前漢中期には江南一帯は未開発地帯で[6]、当時の長江流域の経済規模は華北と比べて程遠いものであった[7]

様々な貨幣[編集]

殷代などに用いられた貝貨。
春秋末期の貝貨。これは銅包金貝。
刀銭。で用いられた。
湖北省孝感の野猪湖で出土した湖北省博物館所蔵の蟻鼻銭で用いられた。

春秋戦国時代において、西周時代に用いられた貝貨に代わり、鋳銭が用いられるようになった。東側地域では主に刀銭が用いられたが、南方の楚では蟻鼻銭、秦では円銭(半両銭の原型)が用いられた。秦の統一戦争完了までは、このように国によって貨幣や価値基準が異なった。

秦漢時代[編集]

漢代の半両銭、年代不詳。

秦朝は統一政策として、刀銭などを廃止し、半両銭に統一した。半両銭の丸板に穴が空いた形は以降の王朝においても引き継がれた。この形状は現在の日本国5円硬貨並びに50円硬貨にも見受けることができる。他にも車軌の統一、文字の統一などを行い、以降の中国王朝の繁栄の基礎を作り上げた。

前漢時代に始まった経済政策には武帝による塩鉄専売制が代表として挙げられる。これは匈奴討伐などの費用を増税により賄うもので、この専売制については武帝の死後、議論を呼び、この議事録が『塩鉄論』としてまとめられている。他にも増収と価格安定のため、均輸法などを創始した。更に武帝は半両銭を廃して五銖銭とした。五銖銭は唐代に廃止されるまでの長きにわたり、形を変えつつ用いられた。また、この時代に経済は大きく発展したため、富豪が広大な土地を所有し、自ら堀や塀を建造してそれらを守り、場合によっては傭兵を雇うこともあった。

後漢時代は帝権が弱まり、荘園制が勃興しつつあったため、郷挙里選を悪用して官僚となる豪族の台頭を許してしまった。郷挙里選は任子制による高級官僚の世襲を防ぐために前漢時代に創始されたものだったが、この導入は却って荘園制の強化に繋がり、結果として高級官僚を世襲する家柄を楚漢戦争の元勲後裔から地方豪族へと変えただけとなった。またこれらは唐代に絶頂を極めた貴族のルーツとなった。

三国時代[編集]

後漢末には戦乱と災害により耕地は荒れ、三国時代の開始とともに農業生産の中心は江南に移りつつあったとされる[8]。これは華北の人口が減少、代わって華南の人口が増加し、それと同時に農業技術も南遷したからである。これにより収穫量が大きく増加したとされる。これについては三国志でも取り上げられている[9][10]

五銖銭、年代不明。

魏晋南北朝時代は社会が大きく混乱し、金属貨幣の流通範囲も減少、また形や価値も多様化し、重さも変わっていった。前漢の武帝までは半両銭、それ以降は五銖銭が用いられていたが、曹魏では曹魏五銖、蜀漢では直百五銖、孫呉では大泉五百・大泉当千・大泉二千を発行した。これらは五銖銭を基準として利ざやを得ようとして改鋳されたものだが、一時しのぎにしかならなかった。また、私鋳銭にも五銖銭を基準として100枚相当の太平百銭が発行された[注釈 1]

西晋時代[編集]

西晋では、荘園を基盤とする経済が大いに栄えた。天下統一後、帝室・官僚が経済に関わるようになり、商業のさらなる発展を求めてその拡大を促進した。その結果、司馬嬰の部下に市場の仕入れについての記入を担当する者が居たとされるほどの規模となった。しかしこの頃既に経済の中心は中原域から長江中下流域に遷っており、最も栄えていたのが建康で、次が江陵であったとされる。戦乱により鋳銭が不足し、貨幣の価値は混乱した。それに対し貿易は発展し、南北の互市と海外貿易は中央政府が掌握していた。それに呼応して私営商業も発達し、交易により食糧、布類、塩などが生活用品や奢侈品として運ばれた。広州では海上貿易が発達し、ヒスイやサイ、象牙や香料や絹が取引された[11]

南北朝時代[編集]

南朝[編集]

東晋時代は、西晋が八王の乱永嘉の乱で滅び、華北を失ったため、大勢の漢人が亡命してきた(衣冠南渡)。一方で当時、華北にあたる淮河北部にも大市が百余りあったと伝えられる。しかしこれ以降、華南が発展し始め、経済・政治・文化の中心が形成され、南に遷り始めた[12]

北朝[編集]

南北朝時代、北朝の北魏五胡十六国時代からの戦乱により荒地が多く、これを解決し、農業生産高を向上させるため、均田制を創始した。これは西魏東魏北周北斉、隋唐時代もこれを引き継いだ。

隋唐時代[編集]

隋による統一政策[編集]

隋朝時代は魏晋南北朝に比べ商業が発達し、その規模は広大なものであった。特に商業が盛んだったのは長安洛陽の2都で、世界的大都市でもあった。長安には東西の市があり、東市は都会として、西市は富裕な外人の居住地として、大いに栄えた[13]。洛陽には東の豊都、南の大同、北の通遠の3市があった。通遠には文帝煬帝が築いた大運河[注釈 2]が隣接しており、華北と江南を結ぶ物流で賑わった。商人は雲のように多く、船は万を超える数であった、とされる。江都は江南の貨物の集積地であり、これも運河による物流で栄えた。江南には宣城毗陵(江蘇省常州)、呉郡(江蘇省蘇州)、会稽(浙江省紹興)、余杭(浙江省杭州)、東陽(浙江省金華)などの商業都市が栄えた。他にも成都は巴蜀地区の商業的中心地で、広州は海外貿易の中心であった。当時の隋の貿易政策は西域廻廊と海上貿易にあった。西域廻廊はササン朝ペルシャ、東ローマ帝国に繋がったとされる。海上貿易では東南アジア諸国や日本と繋がった。特に日本との関係は密接なものとなった。

南北朝時代は貨幣の不一致が起こっていた。南朝梁南朝陳では五銖銭を用いていたが、嶺南の奥地では米布塩などの物々交換が依然として行われ、北斉では常平五銖、北周では永通万国・五行大布・五銖銭の3種、他にも河西の諸郡では西域の金銀貨を用いていた。隋初期において、各地では各々の貨幣を用いていたが、581年に文帝は新たな五銖銭を定め、1000銭を4斤、2両と等しいとした。また古い貨幣や私鋳銭の流通を禁止した。江都(揚州)では五爐、江夏(武漢)では十爐,成都では五爐というように、五銖銭の鋳造にも規程を加えた。しかし煬帝の頃に政治が荒れ、私鋳銭が跋扈し、1000銭は1斤相当となってしまった。この頃には鉄片や皮革、糊紙が銅銭に混ぜて用いられていた。それにより遂には貨幣の価値は軽んじられ、物々交換が優勢となった。その後隋は滅び、唐が建った。魏晋南北朝時代は米穀絹衣の物々交換経済に貨幣が導入されつつあった時代であった。

唐の経済政策[編集]

619年に隋が滅び、その後100年間比較的穏やかな発展が続き、玄宗の治世においては既に隋文帝期の経済水準を回復させていた。しかし安史の乱により状況は一変した。7年2ヶ月に及ぶ戦乱は黄河下流域に大損害をもたらした。それに対し江南などが受けた被害は軽微なものであり、南方経済が相対的に発展した。その結果、中国の古代経済の中心は完全に南に遷り始めた[2]。一方でそれと同時に、江南8道と四川において、華北の大規模な戦乱とその他の影響により、農業や手工業の生産が発展を遂げた[14]。江南での農業に関しては、『四時纂要』のような農業書が出現し、肥料の導入、農具・品種・農薬の改良と進歩が起こった[15]

唐代の都市の商品経済は黎明期にあった。長安(雍州、京兆府)、洛陽(洛州、河南府)、魏州清河郡済州古城睢陽(商州)、楚州蘇州涿郡揚州(江都、広陵城)、成都(益州、成都府)、広州晋陽(并州、太原府)などが地域商業の中心となっていった。唐の国内交通路は世界的にも十分発達したもので、陸路は長安を中心として全国に繋がり、水路は洛陽を中心として大運河を通して繋がっていた。唐に駅站は1463箇所あったとされ、内訳は陸駅が1297、水駅が166だったという。商人らは堰坊に商品を保管し、そこに利益も蓄えた。交通も充実していたため、唐中期になると官僚一族や職人は南遷し、長江流域の商業都市の発展は更に加速した。国家財政は江南に依るようになり、「揚一益二[注釈 3]と言われていたが、江南最大の都市である江南東道の蘇州の繁栄は揚州や洛陽を超え、長安に次ぐものであり、また華南で唯一の最高等の州とされた雄州には天下一と言われる郡があり、「当今国用、多出江南。江南諸州、蘇最为大。」[注釈 4]とも呼ばれた。その他にも、杭州や湖州などが大きく発展した。蘇州や揚州などの商業都市では坊市制が崩壊し、夜市が出現し始めた[注釈 5][16][17]

唐は世界で初めて手形を用いた国家とされる[注釈 6]飛銭は唐代に確立された手形システムであり、会子交子交鈔などのルーツとなった。これは藩鎮が管轄外への銅銭流出を防ぐ禁銭政策を採ったことにより、飛銭を用いて長安や洛陽にある銅銭の手形を交換することが盛んになった。こうして唐の大都市の中には堰坊と飛銭が出現した。堰坊は寄付により成り立っていたが、唐末期の黄巣の乱と藩鎮の抗争により、その数は減少し、開元期の繁栄を取り戻すことはなかった[16]:113

唐代には、海外貿易が栄えた。8世紀後半には広州からマラッカ海峡を通ってインド洋に出て、セイロン島ペルシャ湾アデン湾紅海への航路が開けた。また新羅・日本との航路も活発となり、唐の海上交通の範囲は新大陸発見前の世界の殆どを占めていた。ユダヤ人ペルシャ人アラブ人といった中東の商人ら[注釈 7]は中国を訪れ、沿岸部の交州・広州・泉州・明州(寧波)・揚州などの港は船が頻繁に通るようになり、外国貿易の重要な拠点となった。更に外国貿易が盛んになると、唐は市舶司と呼ばれる特別な官庁を設け、そこで徴税した。外国貿易の数は更に増し、成長し続けた[16][17]。また、中唐頃になると華南の経済的地位が向上したとされている[注釈 8]

唐末から北宋にかけて、荘園は栄えていたが、大半は地主の自営農場であり、荘園の経営方式は統一されたものではなかった。使役するのも、奴隷や労働者、小作人(佃戸)など様々であった。宋代に至ると、奴隷を用いる農場は少なくなり、小作人(佃戸)を用いる農場が漸増した。北宋末期には雇用制の大農場も減少し、佃戸制が一般化した[18]

唐の後期には、官僚地主は土地を次々と没収し、均田制は崩壊した。そのため都市部に代わって地方の田や住宅などが拡充した。嶺南の節度使・韋宙の「江陸別業」では、7000の穀物の山が出来たと記されている[19]。またこの頃は、宋之問の蘭田山荘、王維の辋口庄などが有名な大荘園となっており、江南軍使の蘇建雄は、昆陵にあった別荘には使用人の李誠が何度も往復したとある[20]。また高宗の時代には、王方翼が僻地の田を数十頃(数百ha)開拓し、屋を作って竹や木を植えたとある[21]玄宗の詔には、「王公百官及富豪之家比置庄田,恣行吞并」とある[22]安史の乱後、均田制は完全に崩れ、荘園経済は更に発達した。陸贅は「今制度弛素,疆理隳坏,恣人相吞,無復畔限,富者兼地数万亩,貧者無容足之居[注釈 9]。」と述べた[23]

唐代には僧侶も大土地を所有しており、宜春郡の斉覚寺の僧は荘田に常駐し、その蓄えは非常に多かったとされる。[24]また少林寺も柏谷荘を持ち、その大きさは40頃(200ha以上)以上に及んだとされる[25][26]。また吐蕃が滅んだ後、その地の宗派は領土を分割し、政教合一によりより多くの荘園を生んだともされる。

開元通宝

また貨幣については従来の五銖銭開元通宝の発行(621年)とともに廃止した。開元通宝は半両銭・五銖銭同様、円形の穴開きの形状(円形方孔)で、1枚の質量は1両(大両)の110(約3.73g)であり、ここから質量の単位である「銭」が生まれたとされる。また唐代以降、五代十国時代宋代にも用いられた。

宋代[編集]

均田制が武周の末頃から瓦解し始め、中唐以降の王朝は均田制に代わる新しい田制を必要としていた。当時の北宋では五代十国時代からの各国の経済や文化の進歩・発展とそれによる新しい様々な商工業種が外国貿易をより盛んにし、泉州や明州、広州などの通商が栄えた。これらの都市は宋の南遷以後、より貿易が盛んになった。しかしが許可なき貿易を取り締まるようになり、その後海禁が行われるようになると、対外貿易は萎縮し、明代には完全に停止した[注釈 10]

遠洋貿易[編集]

宋史·列伝第九十六』には、「国家根本,仰給東南[注釈 11]。」とあるように、中国の経済の中心は北宋中期から南に遷りつつあり、靖康の変により南宋が臨安に都して政治の中心も南遷し、大勢の亡命者が南へ逃れた。南宋政府は政権の安定に努め、生産力回復と農業生産増加に尽力した、華南の労働力を最大限に生かすため、小商工業者なども暮らせるようにした[2]。対外貿易では、南宋側にあった泉州・広州・明州が対外貿易の拠点となった。南宋も市舶司の最高収入は北宋時代の4倍以上、南宋政府の収入の5%にも相当したという。この時期の特徴は南方経済が発展し続け、政治・経済の中心がともに南遷したことである[27]

紙幣の出現[編集]

額面77000銭の交子

交子の起源は堰坊での預かり手形で、手形が現物同様に交換されていたことに端を発する。交子会子関子などの手形が発行され、発行主体は交子鋪と呼ばれた。 更に、四川地方では銅産出量が少なく、銅銭不足を補うものとして鉄銭が用いられたが、鉄銭は10分の1ほどの価値しか無いため、北宋時代に成都の16の交子鋪が鉄銭とその兌換券(この時点では預かり証書)を発行した。しかし、不渡りを起こして崩壊した。北宋政府はこの発行を引き継ぎ、本銭(兌換準備金)を36万貫、発行限度額を125万余貫として、紙幣として運用した。これが紙幣の創始である。しかしその後、神宗が発行限度額を倍に増やして以降は際限なく発行するようになり、徽宗の治世には発行額が2600万貫となった。兌換は既に停止され、額面1貫が銭十数文程度としか扱われなくなった。その後は銭引を発行したが、南宋時代にはこれも信用失墜により会子に変わった。

元代[編集]

代の経済は農業を主としたもので、生産技術、作付面積、生産量などは更に増加した。またこの時代、貯水池の建設や綿花栽培の開始などの大発展を遂げた。モンゴル人が草原に居た時期は牧畜による単一経済で、国際的な取引の依頼も比較的多く、重農抑商思想に染まっていなかったため、元はあまり商業を抑制せず、商品経済が繁栄を極めた。これによる効果もあって、元は世界一裕福な国家の1つとなった[注釈 12]。元の首都は大都(現・北京市)で、元は当時の世界の商業の中心地であった。商品の交換に便利だったため、大元政府は世界初の完全な兌換紙幣流通制度を作った。中国史上初めての紙幣の時代は、欧州よりも400年以上前[注釈 13]のことであった。また陸路や河川・海上交通が大きく改善された(例: 京杭大運河)。

至元通行寳鈔とその原版。上段左の欄にパスパ文字で「至元寳鈔(jˇi ’ŭen baw č‘aw)」と書かれている。

匠戸制の実行[編集]

匠戸制(しょうこせい)は元代の手工業制度の一種である。匠籍制とも。明代では元代の匠戸制を受け継いだ。元代匠戸制では、手工業者を匠籍に編入し、工部がそれを管轄、官営の工場にて労役を強いた。明代匠戸制でも根本は変わらず、匠戸を設けて職人を工部に隷属させた[28]

これにより、戸籍は軍籍、民籍、匠籍の3種に分かれた。匠籍では手工業者を管轄したが、軍籍に属し各都の司衛所管轄の軍器局に服役する者は、軍匠を称した。法律上の地位は特殊な戸籍である軍籍や匠籍は一般の地位より低く、世襲されるものであった。またこの維持を容易にするため、分戸は認められず、軍籍・匠籍を脱することは極めて困難で、皇帝による特別な許可を要した。また匠籍・軍籍の者は試験において文官となることもできず、輪班匠として無償で輪番制の労働を強いられた。しかし手工官による管理は弱まり、工匠は怠けたり、逃亡したりという手段を使い制度に反抗し、明政府は商品経済発展に適応した銀による賃金支払いを始めた。1562(嘉靖41)年、輪班匠は一律に政府により銀で雇われるようになった。このように輪班匠は名実ともに消滅し、匠籍にある者が自由に商工業に従事できるようなり、人身を束縛する要因は弱まった。明中期には匠役改革により、民間手工業の発展が促進された。清代になり、450年にわたって続いた匠戸制は正式に終了した。

明代[編集]

大明通行宝鈔。世界史上最大の紙幣。

明朝建国後には強い海禁政策が実施された。そのため、外国貿易では闇の私貿易が始まった。また洪武年間の宝鈔提挙司発行の大明通行宝鈔が紙幣として失敗して以降、貨幣体系は銀本位制に向かったため、当時の世界の銀需要の3割は中国にあった。1567年、明政府は海禁を廃止し、対外貿易がまた活発になり、明滅亡時には大量の銀が対外貿易を通して中国に流入するようになった。朱元璋は洪武年間に民力休養政策と荒れ地への開墾移民政策を実行し、派遣した国子監の下、水路の建設をさせ、並びに耕作奨励のための減税を行い、屯田政策を実行させた。屯田の面積は明全土の作付面積の10%となり、政府は塩引という塩の専売証を売り、商人を塩とともに食糧を内陸部に運送するよう促すことで、国内の食糧需要を満たした。一部の士大夫は専売証の売買により味をしめ、「亦商亦儒」「棄儒就商」[注釈 14]というような現象が発生し始めた。手工業の面においては明代は依然として元代の匠籍制(匠戸制)を継続し、江南地区の代表的な手工業は高度に発展し、松江潞安府は全盛期には1.3万張の織機を有し、南京一帯には多くの陶磁廠が年間100万の磁器を生産し、生産方式は吹釉法刷釉法に取って代わり、均一な光沢のある釉薬を施せるようになった。

城鎮経済の活躍[編集]

明代経済の特徴の1つは城鎮経済の繁栄である。運河沿線の商船の往来は絶えず、周辺の済寧淮安揚州のような都市がとても発達した。東南地区からの商品により経済は繁栄し、全国の物品の集積地となった。嘉靖・万暦年間には各地の絹糸・酒肉・野菜・果物・煙草・農作物・磁器など数えきれないほどの産品の輸出港となり、同時に大量の外貨収入や欧州産の鐘、アメリカ大陸の煙草などの輸入製品が手に入った。

清代[編集]

明清時代,中国には十大商団(zh:十大商帮)が形成されつつあった。その中も晋商、徽商は中国の金融業を、閩商、潮商は外国貿易を掌握した[29][30]。清朝は海禁政策を実施し、台湾を直截統治した後、沿海貿易が活発となり、貨幣については銀銅両本位制を採用した。康熙年間末には民乱を防止するため、禁鉱政策を行ったため、商工業の発展にある程度の支障をきたした[31]

近代の中国経済の発展の特徴は全地球規模の資本主義経済の体系に漸次的に参入したことにある。清代中葉には対外貿易活動が盛んになり、最初は広州一市のみの貿易だったが、アヘン戦争以後に沿岸各都市に広がった。上海、天津、寧波のような都市などが代表的な例である。清末には新興工業が盛んになったが、それらが沿海部に集中し、今日の生産規模ほどの開発が行われ、世界にその商品が展開されるようになった。そのため「世界の工場」と呼ばれるようになった。同時に、1850〜1860年代にかけての第1次・第2次アヘン戦争、太平天国の乱の影響は中国の伝統的な小農経済を少しずつ解体し、沿岸部から通商が行われるようになり、大量の自由な労働力が生まれ、この労働力を基盤に中国資本主義の発展が支えられた。

民国時代[編集]

中華民国建国初期、金融市場や貨幣流通はかなり混乱した。全国各地で貨幣が私鋳され、鷹洋、站人、本洋などの外国の銀本位ドルや、広東、湖北、江南、安徽などで鋳造された吉林貨、東三省貨、奉天貨、更には民国造幣局貨、平壌貨、清朝銀貨など、流通する貨幣は数十種あり、この多様さが経済交流と経済発展の障害となった。1912・13年に、中華民国財政部会両次設立幣制委員会はこの幣制上の問題について論議したが、結果無く散会となった。1914年2月17日、国幣条例が公布され、中国が銀本位制を採用したことが規定され、銀元を国貨とするよう定めた[32]。1914年12月と1915年2月、天津造幣局と江南造幣局は統一貨幣を鋳造するようになり、民国銀円が成立した[33]。1935年から国民政府は新しい不兌換の法定貨幣を発行し、中国で500年にわたって続いた銀本位制を解消した。しかし大量に発行したことにより悪性インフレーションを招いた。1948年8月からは金円券が発行され始めたが、1949年7月に流通が停止した。10ヶ月程度の流通であったが、インフレーションのために2万倍以上の通貨切り下げを行い、大陸民の経済損失はとても大きいものであったたね、中国国民党は支持を失った。1949年7月、中華民国政府は金円券を廃して銀円券を発行した。しかし銀円券の発行と同時に、中国大陸の政局は段々と変わり、銀円券も民国とともに勢力を弱め、価値は大幅に下落した。そして最後は、中国共産党の発行する人民元に取って変わられた。

中華人民共和国時代[編集]

1949年の中華人民共和国成立後、中国大陸ではソ連レーニン時代の新経済政策に似た政策が実行され、移行期間の貨幣制とされた。1956年に社会主義への改造が完了した後、ソ連式の高度集中の計画経済体制が実行され、この体制により経済発展が進むにつれ、国民生活は悪化の一途を辿り、大躍進政策・文化大革命により、経済発展とともに国民の生活水準が上がったため、生活苦に陥る人も多く現れた。

1978年、鄧小平は中国大陸で改革開放政策を実行した。それまでのソ連式経済体制は経済発展に対応できず、依然として政府が経済を支配する、日韓に似た経済体制を採用した。その改革の下、第二次土地改革が実施され、生産責任制が農業合作社制に取って変わり、国有企業にも大きな自治権を与え、郷鎮企業が生まれた[34]。また私人が服飾などの軽工業企業を私有することが許可され、同時に国内に大量の外資を誘致した。この経済体制は1992年以降中国政府により、「中国の特殊な社会主義市場経済体制」と呼ばれている。

改革開放から40年近く発展し、その間中国大陸の経済は急速に拡大した。GDPは年平均10%成長し、世界でもトップレベルの経済成長を誇った。遂に2010年には日本を抜き、世界第2位に躍り出た。1人あたりGDPは1979年の275米ドルから2019年には10276米ドルに成長し、対外貿易の規模は世界一となった。また220種の製品について生産量世界一、世界経済の成長に対する貢献度世界一となり、2019年には外貨準備高は3兆米ドル前後となった。また2014年の国内GDPは世界に2つしかない「10兆ドル国家」となり、2019年には14兆米ドルを超えた[4]。しかし急速な経済発展は不均衡を生み出し、環境汚染問題などが深刻なものとなった。IMF世界銀行は中華人民共和国が2025年〜2030年の間にアメリカを超え、世界一の経済大国になると予想している(国の国内総生産順リスト)。

参考文献[編集]

  • 『中国古代経済簡史』复旦大学・上海財経大学 合編上海人民出版社
  • 『西漢至北宋中国経済文化之向南発展』楊遠,1991 台北商務印書館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  • 注釈
  1. ^ 発行主体は不明だが、流通していた四川においては太平百銭とともに私鋳銭も併用されたと思われている。
  2. ^ 隋代に作られたのは、
    天津・黄河間の永済渠
    黄河・淮水間の通済渠
    淮水・長江間の邗溝(山陽瀆)、
    長江・杭州間の江南河で、610年完成。総延長2500km超。
  3. ^ 長安を除き揚州が第一で、益州(=成都)が第二という意。
  4. ^ 今では江南が経済の中心であり、江南の諸州でも蘇州が最も大きい、という意。
  5. ^ 唐代長安では東市か西市での昼間での営業のみ認められていたが、法規制が戦乱により崩壊した後からは、宋代になっても夜市が開かれた。
  6. ^ 紙幣については、北宋の交子を世界初とする。また、それ以前にも手形システムは存在したが、本格運用が始まったのは唐代である。
  7. ^ 胡人(ソグド人)が特に優勢であり、後世の北京周辺に本拠を置いた。これについては安碌山などが最たる例である。
  8. ^ 韓愈『十九送陸歙州詩序』には、「当今賦出於天下,江南居十九。」
    新唐書・巻一百七十八』には德舆の建言として「江、淮田一善熟,則旁資数道,故天下大计,仰于東南。……」これに対して憲宗は「軍国費用,取資江淮。」とある。
  9. ^ 現在、制度は少しずつ緩み、その緩みは見境なくなりつつあり、富豪は数万畝を兼併する一方で、貧民は生きるのにも必死。という意。
  10. ^ 但し、密貿易を加味すると停止していない。
  11. ^ 国家の最重要部は東南部にある、という意。
  12. ^ 単に人口だけで考えれば、殷の殷墟(5〜12万)、周代鎬京(5〜12万)、漢代長安(40万)、唐代長安とバグダッドが100万都市で同率、宋代開封(44〜100万)も世界一であった。また、元代は一貫して大都(40万)よりも杭州(43万〜80、150万)の人口が多かった。詳しくは歴史上の推定都市人口を参照。
    また、モンゴル帝国は征服戦争により旧大陸世界を欧州・東南アジア・日本を残し制覇しており、帝国が同君連合と化して以後も、その内部での交易に限っても莫大な利益を生んだ。
  13. ^ これは紙幣乱発による最初のインフレーションが元末に起きたことからカウントした数値。
  14. ^ 人倫と商業を同様に扱う、人倫を放棄し商業に走る、という意。
  • 出典
  1. ^ アンガス・マディソンの『世界経済成長史』によると、1820年時点、人口では中国とインドで世界の5割、GDPでは4割を占めていたとされる。
  2. ^ a b c 張家駒,《両宋経済重心的南移》,湖北人民出版社,1957年
  3. ^ 近代中国工业布局的演变(2019年05月14日閲覧) 中国社会科学网,来源:光明日报
  4. ^ a b IMFによる算出
  5. ^ 史記貨殖列伝』「故关中之地,於天下三分之一,而人众不过什三;然量其富,什居其六。」
  6. ^ 史記·貨殖列傳』「楚越之地,地廣人稀,飯稻羹魚,或火耕而水耨,果贏蛤,不待賈而是,地熱饒食,無饑饉之患,故呰窳偷生,無穩聚而多貧,是故江淮以南,無凍餓之人,亦無千金之家。」
  7. ^ 高敏主,『魏晋南北朝経済学部史』下,上海人民出版社,1996年,P919
  8. ^ 『中国古代経済簡史』 復旦大学上海財経学院 上海人民出版社 P119
  9. ^ 三国志呉書·賀全呂周鍾離伝』「鐘離牧……字子干,会稽山陰人,漢魯相意七世孫也。少爰居永興,躬自墾田,種稻二十餘畝。……得六十斛米」,平均每畝收穫三石。「江南就近利用其資源的礦冶業、煮鹽業、制瓷業、麻織業等也有相當高的發展水平,造船業更為發達。」
  10. ^ 『魏晋南北朝経済史・下』上海人民出版社高敏主 P920 1996年。
  11. ^ 『中国古代経済簡史』复旦大学・上海財経大学 合編
  12. ^ 張家駒 (1957). 『両宋経済重心的南移』. 湖北人民出版社. pp. P156 
  13. ^ 『隋書・地理志』「俗具五方,人物混淆,華戎雜錯。去農従商,争朝夕之利;遊手為事,競錐刀之末。」
  14. ^ 鄭学檬『中国古代経済重心南移和唐宋江南経済研究』,長沙市岳麓書社,1996年,P139)
  15. ^ 李伯重『唐代江南農業的発展』
  16. ^ a b c 『中国古代経済簡史』复旦大学・上海財経大学 合編上海人民出版社
  17. ^ a b 『西漢至北宋中国経済文化之向南発展』楊遠,1991 台北商務印書館
  18. ^ 趙岡,陳鍾毅『中国土地制度史』台北聯經出版事業公司,1982
  19. ^ 《北梦琐言·卷三》:唐相国韦公宙善治生,江陵府东有别业,良田美产,最号膏腴,而积稻如坻,皆为滞穗。咸通初,除广州节度使。懿宗以番禺珠翠之地,垂贪泉之戒。京兆从容奏对曰:“江陵庄积谷尚有七千堆,固无所贪。”懿皇曰:“此可谓之足谷翁也。”
  20. ^ 《新唐書・食貨志》
  21. ^ 『旧唐書・王方翼伝』
  22. ^ 《册府元龟・田制》
  23. ^ 《陆宣公集》卷二二,《均节赋税恤百姓》第六
  24. ^ 『太平広記・上谷』“其寺常住庄田,孳畜甚多”
  25. ^ 王昶『金石萃编』巻七十七
  26. ^ 『少林寺碑』
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  29. ^ 楊涌泉. 《中国十大商帮探秘》. 企業管理出版社 
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  31. ^ 康熙皇帝,孟昭信 著 
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  34. ^ 國谷知史・奥田進一・長友昭編集『確認中国法用語250WORDS』(2011年)成文堂(「郷鎮企業」の項、執筆担当;射手矢好雄)P24


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