利用者:Gesteinbrunnen/下書き1
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下書き
日本の漆器では、日本国内の漆器の歴史と主要な生産地を記述する。漆は合成樹脂が溢れる現在に至るまで、唯一の塗料として、また、成型用資材、接着剤として全盛を保った理由は、単にこれに代わる物が無かっただけでなく、役に立ったからに他ならない[1]。日本、中国、朝鮮半島、タイなど、漆を産出できる東アジア特有の工芸である漆器[2]特に日本では
尚、漆液と木の混同を避けるため以下はウルシをウルシノキと呼ぶ。
歴史
[編集]縄文時代
[編集]日本において人と漆の関わりは縄文時代まで遡ることができる。1980年代以降から続く遺跡の発掘調査によって、圧倒的な数のクリと共に縄文時代の人々がウルシノキ等の自然資源を利用した形跡が明らかになっている。福井県の鳥浜貝塚からはウルシノキの自然木が出土し,調査の結果、それが縄文時代草創期、約12,600年前の遺物とわかった。北海道南茅部町の垣ノ島B遺跡からは早期前葉、約9000年前の漆製品が出土、また、東京都東村山市の下宅部遺跡と青森県青森市の岩渡小谷遺跡での発掘調査によりウルシノキが縄文時代早期末には日本列島に生育し,前期以降には北海道南部から関東・北陸地方の地域で集落の周辺に植栽され,漆液を採取して漆器を作っていたことが明らかになった。このように草創期と早期にも日本列島にウルシノキが存在していた痕跡が得られているが,どれも部分的遺品であり更なる解明が待たれる。植物学的に、ウルシノキは日本には自生せず大陸からもたらされたもので、縄文時代早期以前に木とその漆液の利用方法が伝わったと考えられる。漆の当時の採取方法は不明ではあるが、幹をほぼ一周する固まった漆液が付いた傷跡のあるウルシノキの杭が約40本確認されている[3][4]。この下宅部遺跡の杭の傷跡から想定できることは、これら再利用されたウルシノキの杭よりもっと太い幹から、断続的に採取していたということである[5]。
約1000mlの漆が蓄えられたと推測される深鉢形土器など、保管・調整加工・塗布・補修の用途別の容器も発見されている。これらの容器類からは多数のウルシノキを管理していたとことになる。同様の例として、北海道の忍路土場遺跡と新潟県、野地遺跡から容器の外面および口唇部に葉が付いた土器が出土し、これは保管用に蓋をしたと考えれる[6]。また、補修材として漆を使った形跡があり、同じ下宅部遺跡から割れた土器の断面に塗布して接着した跡であったり、植物繊維や土などと混ぜた漆を可塑剤として、土器に補修した跡が見つかっている[7]。 富山県の桜町遺跡では把手付きのコップ型木器がが発見され、それには外側の縁と底に弁柄漆が塗られている。片口型容器や高杯も漆が塗られた状態で他の木器と出土しているが、木器を保護する目的で漆が塗られていることには注目される。いずれも縄文時代中期から後期のものとされる[8]。縄文時代晩期以前のものでは他に、埼玉県の寿能遺跡の漆塗りの椀などもある。弥生時代以降の木器は特徴として轆轤挽きが多くなってくることが挙げられるが、土器や須恵器が日常で使用され、出土品を見る限りでは、漆や他の塗料を塗ることの一般化?が考えられ、漆塗の木器が日常に使用されるのは時代がさらに経過してからである[9]。
飛鳥から奈良時代
[編集]飛鳥時代、中国大陸(当時唐朝)からの文化物の伝来は日本の漆工芸が飛躍した時代である。法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)がその時期にあたる[10]。
奈良時代では中国大陸の文化と仏教が漆の技法と共に渡って来た。製作に用いる漆とその採取元のウルシノキを国が植えさせており、大宝律令の田令の条にウルシノキの栽培を奨励した記載がある[11]。 正倉院宝物や東京国立博物館に納められている漆器には𡑮(そく 土偏に塞)[注釈 1]や漆皮(しっぴ)[注釈 2]などの技法が見てとれる。平文や螺鈿、金銀絵などの表現方法も現れている。正倉院には漆が施された宝物が何点も存在する。後年、研出蒔絵と同じであることが確認される技法、末金鏤(まっきんる)が施された「金銀鈿荘唐大刀」(きんぎんでんそうからたち)が8世紀頃の作品とされ最古の蒔絵漆器とされる[12]。「漆葛胡禄」(うるしかずらのころく 矢入れ)は藤葛で編まれた本体に黒漆が塗られている。本品は恵美押勝の乱の際に孝謙上皇の勢力が携帯した矢入れである。また、同様の経緯を持つ、「梓弓」(あずさゆみ)も宝庫に納められている。こちらは弓の上下端に黒漆が塗られている。仏具として使用された「銀鉢」も黒漆が表面に塗布されているが、こちらは鎚起[注釈 3]で成型された銀面に漆工が施されており、延喜の製作とされる[13]。
延喜式の大膳上にある宴会の規定による、使用される食器は、天皇・中宮は銀器、三位以上の官人には朱漆器、五位以上は黒漆器か緑釉陶器が並べられたと記されている。 古代の漆器には環状のつまみの付いた蓋があること、唐より持ち得た唐三採技術と須恵器の技術が見られること、轆轤引きの合子があることが特徴である[14]。 天平宝字の作成と思われる法華寺金堂の文書「造金堂所解」には、漆に関係する物資の計上があり、柱一本につき8升7合の漆が使われていることが解る。鎖や釘の塗装にも漆が使用されている。興福寺西金堂の「造仏所作物帳」には高座、屋根、柱、床などに塗る漆が計上され、409貫550文と記されている。宮廷においては、神亀5年(728年)に設置された内工寮に漆を扱う工人がいたと考えらる。しかし、奈良時代を通してこういった手工業の地位は次第に低下し弘仁2年(811年)には廃止された[15]。
一方、地方の文献にも調度品に関する漆の記述が見られる。天平6年(734年)の「尾張国正税帳」に中央に献上する容器に漆が入れられ届けられた。この容器は国が負担をした。同じく、天平10年(738年)の「筑後国正税帳」には貢納品の生産者に対する食料の支給の記述がある。また、平城京より出土した木簡より、丹後国や美作国で漆が塗られた櫃が献上されたことがわかる。の櫃に関する「延喜式」の規定では、伊勢、尾張、参河、遠江、近江、美濃、越後、越中、丹波、但馬、播磨等から送られていた。漆自体は購入し、その製品を庸として、あるいは銀貨で報酬を与えて国が調達していたことが判明している。武器に関する記述としては、天平勝宝8年(756年)6月21日の「国家珍宝帳」に宮廷用の漆塗りの武器が示されている。「養老令」田令十六桑漆条には、地位に応じてウルシノキを植えるよう定められており、仏寺や宮殿の造営の振興に伴い、漆の需要が拡大したため租税として徴収する必要があったからと考えられる。また国だけでなく貴族や国司も漆を扱って居たことが解っている。租税としての中男作物か交易雑物として取り立て、内編の技術者によって漆器を生産していた。臨時での需要や大規模な需要に対しては、一般から購入していたことがわかっている[16]。
平安時代
[編集]平安時代初期にはその技法は和風な表現に変化し、加飾技法では蒔絵が発展している。「花蝶蒔絵挾軾」(かちょうまきえきょうしょく 藤田美術館蔵)がそれにあたる。後期になると「三十帖冊子箱」と「宝相華蒔絵宝珠箱」(ほうそうげまきえほうじゅばこ 仁和寺蔵)、「海賦蒔絵袈裟箱」(かいぶまきえけさばこ、教王護国寺蔵)が、後期の11世紀以降になると「流水蒔絵筝」(りゅうすいまきえそう 春日神社蔵)、「沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃」(さわちどりらでんまきえこからびつ 金剛峰寺蔵)[注釈 4]などに優美な、特に蒔絵に純和風な表現がされている。螺鈿と蒔絵の装飾がされた国立博物館の「片輪車螺鈿蒔絵手箱」(かたわぐるまらでんまきえてばこ)、「金地螺鈿毛抜形太刀」(きんじらでんけぬきがたたち、春日神社蔵)、法具類であれば大長寿院の灯台などがある[10]。他に現存する建築の、天治元年(1124年)に建立した中尊寺金色堂の須弥壇や四天柱の装飾などがある。平安時代前期で使われた銀の割合が次第に少なくなり、代わりに螺鈿が使われ始めるのがこの時期である。銀は酸化するため変色しやすいことが理由に挙げられる[17]。
鎌倉から安土桃山時代
[編集]鎌倉時代に入ると今までの技法により一層の力強さが加わり、蒔絵、螺鈿の表現に写実性を帯びてくるようになる。出雲大社の「秋野鹿蒔絵手箱」や鶴岡八幡宮の沃懸地(いかけじ)[注釈 5]が施された「沃懸地籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(いかけじまがきにきくらでんまきえすずりばこ)[注釈 6]、三島神社の「梅蒔絵手箱」、永青文庫の「時雨螺鈿鞍」などが挙げられる[18]。平安後期の影響が残り叙景的意匠が多いが、和歌や漢詩などを文学的テーマとして平仮名を蒔絵に表現した漆器も見られる[19]。「秋野鹿蒔絵手箱」に見られる器体側面に繰り返される秋草の表現方法は一部の例外を除き、「沃懸地籬菊螺鈿蒔絵硯箱」から始まる表現である[20]。
室町・安土桃山時代
[編集]宋、元、あるいは禅宗の文化の影響が現れてくる室町時代に入ると、平安時代から続くこれまでの和風的表現に新しい傾向が見られ、文化財保護委員会の「塩山蒔絵硯箱」には漢画風な表現が見られる。室町後期、東山文化と言われる時期に入ると根来塗、鎌倉彫そして沈金が現存の漆器からうかがえる。この頃には幸阿弥道長、五十嵐信斎といった漆芸家が足利義政に仕えた。安土桃山時代では新興武家社会を反映し華麗さを増す[18][21]。この時期より江戸初期にかけて3つの意匠がその時代を代表するようになる。高台寺蒔絵、南蛮漆器、光悦蒔絵といった漆器がそれにあたる[22]。
高台寺蒔絵
[編集]京都、高台寺の御霊屋の厨子と、そこに祀られる北政所の調度品に見られる様式を備えた漆芸品のことを高台寺蒔絵という。
南蛮漆器
[編集]南蛮漆器とは西欧人を題材にした、また、彼らの依頼で作られた漆器を意味し、キリスト教の祭具として製作されたものといわれる。「花鳥獣蒔絵螺鈿聖龕」(かちょうじゅうまきえらでんせいがん、東京国立博物館蔵)[23]や「楼閣山水蒔絵箪笥」(神戸市立博物館蔵)、「楼閣山水蒔絵櫃」(ヴィクトリア&アルバート博物館蔵)、がそれにあたる。禁教令以前の製作で「IHS七宝繋蒔絵螺鈿書見台」(IHSしっぽうつなぎまきえらでんしょけんだい 東京国立博物館蔵)などがある[24]。海外に現存するこういった漆器の多くは、16世紀末から19世紀にかけて日本から輸出されたもので、江戸時代に輸出されたものが比較的多い。西欧人の依頼で作られたものは「輸出漆器」とされ、欧米でその呼び名が定着しつつある。いわゆる、一括りでいう南蛮漆器または南蛮蒔絵、南蛮漆芸とは題材が異なる。つまり輸出漆器の目的は海外輸出であり、南蛮漆器は国内市場向けが含まれると指摘される[25]。 スペイン王国のフェリペ2世が没した後、およそ10年をかけて作成された財産目録によると、彫金された黒塗り金具を備えた、高さ84センチ、幅55センチ、奥行き55センチの祈祷壇の記録があるが、これは1590年に秀吉からの贈答品の鎧入れの櫃と考えられる。また、フェリペ2世の妹マリアは、修道院の聖人の遺物や遺骨を納める部屋であるヴンダー・カマーに、貝貼細工と螺鈿象眼のでできたグジャラート産の櫃などとともに、高い蒔絵技術で作られた洋櫃を奉納している[26]。他にも、スペイン、ポルトガル両国に至るまでの中継地、マニラ、ペルー、メキシコなどにも蒔絵や当中継地独自の装飾が加えられた聖龕なども見られる[27]。こうした輸出品は中南米の美術工芸品にも影響を及ぼした[28]。他に渡海したものでマリー・アントワネットのコレクションも知られる。 特に輸出漆器の下地には、漆ではなく膠が使用されていた。従来、質が劣る下地と思われた膠であるが、輸出先の気候は乾燥しやすく木地が変形を起こす。これでは漆は剥げ落ちてしまうために膠が使用された。結果、漆かそれ以上の下地と同時に、費用面や時間削減の利点を獲得した[29]。
光悦蒔絵
[編集]舟橋蒔絵硯箱は「後撰和歌集」を題材に大胆な曲線で構成される。本阿弥光悦が関わった漆器の特徴として、古典文学がをテーマに取り入れ、鉛板で製作される[30]。
漆芸史研究者の灰野昭郎は、光悦蒔絵あるいは光琳蒔絵と呼称される漆芸品は製作者のわかる確かな作品は少なく、重要文化財に登録される光悦が関わったとする8作品の中では、「宝相華螺鈿法華経経箱」と「住江蒔絵硯箱」の2作品のみが光悦蒔絵としている。「八橋蒔絵螺鈿硯箱」と「蒔絵八橋文硯箱」の2作品ついては「正徳四年 道具代買帳」に記載される価格の相違点、岡田譲が主張する、蓋の表にある"乃"の文字は慶長期の付け加えとする意見を支持しつつ、国宝として優美さは備わるものの、光悦蒔絵として文化財に登録されていることに異論を唱えている[31]。
他には光悦作として伝わる「南蛮人蒔絵硯箱」があるが、サーベル、帽子、マント、靴を身に着けた西洋人を銀粉蒔絵、切金、平蒔絵などで巧みに表現されている。箱の脱落部の様子からは朱漆、梨子地、文様蒔絵の順に漆工されたことがわかる[32]。他には「葦舟蒔絵硯箱」「樵蒔絵硯箱」「群鹿蒔絵笛筒」などがある[30]。
江戸時代から近代
[編集]江戸時代の漆芸品
[編集]江戸時代に入ると富豪町人の時代となり必然的に漆器の需要も高まってきた。元禄には五代将軍綱吉の院号に因んで常憲院時代物と言われる漆芸が登場する[33]。また、郷土の文化と融合して数々の地方漆器が勃興してくるのもこの時期である。この時代の優れた漆芸品は、本阿弥光悦の「舟橋蒔絵硯箱」、山本春正の「雲錦蒔絵提重」、幸阿弥長重[注釈 7]の「初音蒔絵三段」、五十嵐道甫の「秋野蒔絵硯箱」が挙げられる。元禄から享保にかけて活躍した漆芸家は、塩見政誠[注釈 8]、小川破笠(柏木菟意匠料紙箱・春日野意匠硯箱 )などがおり、中でも「八橋蒔絵硯箱」を制作した尾形光琳は注目される。明和、安永年間には古満巨柳[注釈 9]、文化・文政年間には古満寛哉[注釈 10]、原羊遊斎[注釈 11](蔓梅擬目白蒔絵軸盆)、玉楮象谷、などが存在感を示した[10]。他に飯塚桃葉[注釈 12]などがいる[34][10]。
婚礼調度品として「初音蒔絵調度」(はつねまきえちょうど 徳川美術館蔵)が注目される。寛永16年、家光の子、千代姫と徳川光友の婚礼に際して、幸阿弥長重によって3年の歳月をかけて作られたものである。この書棚は高蒔絵、濃梨子、平蒔絵、研出蒔絵によって源氏物語をテーマに表現されている[24]。大名家は威信をかけてこういった調度品をあつらえたのは、大名同士の結婚の場合に女性の方が格式が高いことが多かった。結果、嫁入り道具が豪奢であればその家も裕福であるという意識が生まれ、これを町人が真似をしたことにより現在まで続く家夫長制になったと推察される[35]。 また、金沢を中心に繁栄した加賀蒔絵も注目される。五十嵐道甫、清水九兵衛といった漆芸家が当地に代表される[24]。
江戸時代の生活様式と漆器
[編集]公家・宮中の漆器
[編集]公家社会においては、寛永時期に独自の茶道文化が始まったようで、京都御苑を含んだ公家屋敷の遺構調査で漆器が発見されている。仙洞御所、桂離宮などで発展した公家の茶道には下地には朱の多層塗りが施され、加飾には蒔絵、梨子地粉に金の使用が多く見られる。歴代天皇が使用された生活食器を記した文献には、 宮中儀式である、朝鰈(あさがれい)や大庄子(だいじょうじ)などに使われた例として、伊万里焼の大皿などと一緒に、春慶塗や菊御紋付きの呂色黒塗の重箱および弁当箱の漆器などが 様々な陶磁土器、金属、ガラスと共に出土した。こうした公家文化は発展を遂げて今日の文化に影響を与えた。別の公家屋敷の遺跡からは多層塗りのサビ下地の漆器も確認された。仁孝天皇の即位に関係した「仁孝帝御即位院中御道具使用帳」には様々な漆器の記述が見られ、安政2年(1855年)に書かれた「三条家奥向恒例年中行事」にも同じく様々な漆器類が記されていて、現在まで続く旧公家の伝統的行事とも鑑みて広く日常で漆器が使用されていたと考えられる。また、霊前供養に使用する漆器は「禁裏御膳式目」「幕末の宮廷」に見られるように、漆器は一部に限り磁器が多く使用されている[36]。
""利休没後100年の元禄ころは茶の湯は家元制度の整備や茶道具の手引書の刊行で社会的に流行し、広い階層に知られることになった。元禄9年(1696年)の茶会の文書「茶湯献立指南」には、汁椀、皿など漆器種別に技法の注釈が付いた図で取り上げられている。 明和8年(1771年)「茶道早合点 巻之下 会席道具類」、茶道と作法と茶道具が、文化13年(1816年)「茶道ぜん蹄」の第5巻には[37]。""
生産と普及
[編集]江戸や金沢城下の遺構調査による、芙蓉模様、桜、松鶴亀が蒔絵された漆器には、量産性に適しているとされるトチノキ、ブナの使用率が多く見られ、塗りにおいて、下地塗には炭の粉を柿渋などと混合した一層塗り、加飾塗では幕府の統制物である朱(硫化水銀(II))よりも、量産化が可能となったベンガラ(酸化第二鉄)が多く使用され、加飾の要所に朱が使用されているのがわかっている。また、金の代わりに銀、スズ、石黄、の使用が見られ、これは使用材の価格差<52.53に価格あり>や、寛文以降発せられる奢侈禁止令の影響も考えられ、日常に使われる漆器が均質に量産され、かつ実用性を重視したものとわかった。因みに、尾張や紀州藩では町衆に対する蒔絵の加飾の禁止、武士の階級別の道具の仕様規定などが定められている[38]。
鎖国令が寛永16年(1639年)2003年から1年かけて調査で御池中学校から出土した四耳壺からは漆の成分であるチチオールが検出された。これは日本や中国、ベトナムの漆の成分とは違う分析結果を示している。つまり、「オランダ商館長の日記」に記載されがあるように、オランダ東インド会社によって貿易で持ち込まれたもので、タイ産出のいわゆるブラックツリーから採れた樹液である考えられる。商館長の日記に書かれる日付は、国産の漆産出量が増える享保よりも以前のことで、京都で漆の輸入に頼る必要があったと、この遺構からは考えられる[39]。 また、京都市中京区で2007年に行われた発掘調査で、17世紀初期から中期の町屋敷の遺構から多くの生活用具とともに漆器工房に関する容器類などが出土、検査の結果、漆へらを含むこれらの容器類からは、日本、中国産の漆の特徴である成分、ウルシオールが検出され、ベトナム漆の特徴のラッコールも検出された。これらのことから、状況に応じた漆の使い分けや混合作業が行われていたと推察される[40]。
文禄・慶長の役で朝鮮半島から連れてこられた陶工によって肥前で最初の磁器が焼かれる。当初、それら磁器は室内装飾品としての利用や販路が限られていたこともあり、一般に出回ることはなかったが、宝暦から明和頃に江戸市中の風俗が大きく変化し、江戸の料理屋において利便性の良さから漆器だけの膳に磁器が加えられ始めた[41]。町家の食事を記した『地口絵手本』、農家の食事を記した『経済をしへ草』から、江戸中期頃は一汁三菜が基本で、飯椀と汁椀が漆器、小皿が磁器として使用されていたことがわかる[42]。民族学者の宮本馨太郎は,漆器から陶磁器への交代の過程を、「漆器は江戸時代に広く庶民の間に普及した。陶磁器の普及は桃山時代から江戸時代中期以降にかけてで,大量に安価な陶磁器茶碗が売出されて,漆器に代わって陶磁器の碗が流行することになった」と記しており[注釈 13]、東京都千代田区紀尾井町遺跡より出土した漆器や他の遺跡からの出土品から考察すると、幕末か近代にまでは漆器が主に使用されていたことがより明らかとなった[43]。
明治以降
[編集]明治、大正、昭和の戦中期にも全国の漆工や意匠の特許取得によって技術の継承が図られている 郷土の文化、また地方産業のひとつとして漆器は日本の生活用品として古くから親しまれている。より一層の意匠を凝らした漆器は人々の目を楽しませた。現代に入り明治期になると柴田是真、川之辺一朝、白山松哉、六角紫水、松田権六といった漆芸家が作品を残した。
現在
[編集]伝統的工芸品産業振興協会の調べによると1974年度では生産額は約305億円、従業者数は21,410人で2006年度では約202億円、従業者数は11,168人で減少している。需要が低い要因は、生活様式の変化や伝統的工芸品に対する認知度が挙げられ、調査では認知度が5割を超える漆器は、23品中2品であった[44]。 日本国内産の漆の生産量はごく僅かで、2015年で最大生産量の岩手県を入れても1トン弱ほどである[45]。2013年から過去3年を通して見ると、大半は中国から、わずかにベトナムからの輸入である[46]。 現在は食文化の形体も変化し1970年代を境に生産数は減少の一途を辿っている。[47] 磁器の製造過程は漆器のそれよりも量産体制がとれ、経済効率がよい。また、管理の点からも漆器は扱い易くはない。とはいえ、椀の縁に口をつけて食する時、特に熱い中身の場合は木椀が適しているといわれる[42]。
主要な生産地
[編集]- 青森県
- 秋田県
- 岩手県
- 宮城県
- 新潟県
- 福島県
- 茨城県
- 栃木県
- 東京都
- 神奈川県
- 静岡県
- 長野県
- 岐阜県
- 愛知県
- 石川県
- 富山県
- 福井県
- 三重県
- 滋賀県
- 京都府
- 奈良県
- 和歌山県
- 岡山県
- 広島県
- 島根県
- 山口県
- 香川県
- 愛媛県
- 福岡県
- 長崎県
- 宮崎県
- 沖縄県
その他
[編集]うるしの日
[編集]日本漆工協会によると京都嵐山の法輪寺の石碑には、11月13日は文徳天皇の第一皇子惟喬親王が漆の製法とその技法を国中に伝え広め、それを祈願した日と記されており、「うるしの日」とされる[48]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 即とも書き、乾漆、古くは夾紵(きょうちょ)とも言った。麻布を漆で固めそれを繰り返す技法。古代中国漢時代の棺、耳杯など多く出土している。世界大百科事典第2版より。漆工#乾漆を参照
- ^ 牛や鹿の皮をなめして漆を塗り固めたもの。直接漆を塗るものと、下地に麻布を被せるものがある。第五十八回正倉院展 146頁。漆工#乾漆を参照
- ^ 鍛造技法。金属板の表裏をハンマーで打ち出す 第五十八回正倉院展 147頁。
- ^ 中の掛け子には微量の銀を含んだアマルガム鍍金が施される 江本 義理 古文化財のX線分析法による材質測定資料I.金属―漆芸品―蒔絵材料、金具類(1)1968 55頁
- ^ 金地などとも言われる。金粉及び銀粉を一面または一部に濃く蒔き詰め研ぎだす技法。コトバンクより。漆工を参照
- ^ 言い伝えでは後白河法皇が源頼朝に下賜したといわれている。日本美術史190頁
- ^ 工芸鏡2によると、幸阿弥家第10代。東福門院の入内、明正天皇の即位の際に調度品を製作した。慶安4年(1651年)に没した。
- ^ 工芸鏡2によると、享保年間に京都で活躍した蒔絵師。風雅な作風で知られ研出蒔絵を得意とし、それら漆芸は塩見蒔絵といわれた。
- ^ こまこりゅう 古満休伯の門人でその技術は高かった。安永、天明の頃に名を古満巨柳斎とした。からくり人形も作ったといわれる。 工芸鏡 36貢
- ^ 工芸鏡2によると、その師巨柳より秀でて寛哉と名乗る。後に坦叟、坦哉とも名乗った。狂歌も嗜み、眞砂菴道守と名乗った。
- ^ 工芸鏡2によると、号を更山と称して、文化、文政のころに江戸で比類なき名工とされた。詳細は不明だが中山胡民が奥義を継ぎ、胡民は柴田是真と肩を並べたといわれる。
- ^ 工芸鏡2によると、印籠の蒔絵師。号を観松斎といい、蜂須賀重喜によって士分となり後にその子孫も阿波国に仕えた。
- ^ 「お茶碗」考--江戸における量産陶磁器の変遷 (陶磁器が語るアジアと日本) -- (食と陶磁器)」より
出典
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参考文献
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- 能城修一・佐々木由香『遺跡出土植物遺体からみた縄文時代の森林資源利用 (縄文時代の人と植物の関係史) -- (研究動向と最新の成果)』国立歴史民俗博物館、2014年。
- 千葉敏朗『下宅部遺跡から見た縄文時代の漆工技術』国立歴史民俗博物館研究報告、2014年。
- 古尾谷知浩『古代の漆工』名古屋大学文学部、2014年。
- 須藤護『古代の轆轤工と渡来人』龍谷大学国際社会文化研究所、2009年。
- 須藤護『古代の轆轤工と渡来人(II) : うつわの文化史』龍谷大学国際社会文化研究所、2010年。
- 金子裕之『010 奈良時代の漆器の復元』奈良国立文化財研究所、1992年。
鈴木三男 ほか 縄文時代のウルシとその起源 国立歴史民俗博物館研究報告 2014 千葉 敏朗 , 工藤 雄一郎 , 佐々木 由香 , 能城 修一 石器によるウルシ樹液採取実験 国立歴史民俗博物館研究報告2014
飛鳥/// 塗肌を整える*縄文晩期に見られる、器物の面に対して塗肌を整える技法はいわゆる漆下地と考えにくい。玉虫厨子には漆下地は塗られていないとされる。この工程は「造石山院所用度帳」に記載されるような、 土塗であり、大陸及び朝鮮半島から来た渡来人より伝わったと考えられ、この漆下地の用法は長い期間続けられるが、平安後期にはほとんど見かけなくなる。1.2貢
- 中里壽克 古代漆下地の研究 1985
- ?『cinii 玉虫厨子』2000年 。
飛鳥・平安時代
[編集]- 木村理恵『飛鳥藤原地域出土の木製食器』奈良文化財研究所、2012年。
- 中里嘉克『古代漆下地の研究』保存科学、1985年。
- 岡田譲『世界大百科事典 13』下中邦彦編、平凡社、1972年。
- 仲間勇栄『琉球の漆について』琉球大学農学部、1981年。
- 中里嘉克『古代蒔絵粉の研究―奈良時代沃懸地の新資料を含めて―』保存科学、1972年。
平安///
- 高橋照彦 土器の流通・消費からみた平安京とその周辺 ([共同研究]都市における生活空間の史的研究) 1999
- 廣瀬誠一 先史時代及び原史時代における顔料及び塗料 1971 色材協会
- 鈴木康之 中世土器の象徴性:「かりそめ」の器としてのかわらけ 2002
- 八田誠治 1.伝統工芸品のルーツは京都 2017 繊維製品消費科学
- 石丸進, 石村真一 中国・韓国古典様式家具の日本への影響に関する研究 : 中国のケヤキ家具用材を中心として(1) 2003
室町///
水澤 幸一 戦国期武家の日常使いの貿易陶磁の実像 : 十五世紀中葉?十六世紀中葉を中心に 国立歴史民俗博物館研究 2014 小林公治 展覧会評 二〇一三年開催の南蛮漆器に関係する展覧会から
- 高台寺蒔絵とは京都、高台寺の御霊屋の厨子と、そこに祀られる北政所の調度品に見られる様式を備えた漆芸品のことである。
高台寺 慶長10年(1605年)造営。調度品は14種類31点あり、1598年以前のものとされる 高台寺蒔絵調度品類に見られる蒔絵の作風は幸阿弥家、特に、幸阿弥長清の作風と見做される。勾欄(欄干 須弥壇の手すり)は厨子の扉や調度品と違い高台寺蒔絵には入るが表現などに差がある。 硯箱は曲禄(椅子)、刀掛け、歌書箪笥にみられる 中川千咲 いわゆる高台寺蒔絵の一硯箱と高台寺の蒔絵 1965 美術研究 波田よし子 近世における"草体"の蒔絵 : 桃山時代から江戸時代初期への展開(美学会第四十五回全国大会報告) 1994 久保智康 近世霊廟の荘厳 : 武家の祖霊供養と寺社(第五十三回智山教学大会講演) 2010 浅見雅子 江戸時代の調度 1973
祥瑞...しょうずい 中国明末期から清初期にかけて、崇禎(1628年-44年)に江西省景徳鎮の窯で日本人好みの絵付けをした青花磁器。一部作品に五郎大甫 呉祥瑞造とあることから。 桃山///
鎌倉から安土桃山時代
[編集]高台寺
[編集]南蛮漆器
[編集]- 並木誠士『「高台寺蒔絵」成立に関する一試論』大阪大学、1997年。
- 吉村元雄『江戸時代輸出漆器基礎資料集(第一編)』関西学院大学、1976年。
- 川村やよい『一六、一七世紀のスペイン「帝国」からみたアジア 南蛮漆器を主とする東洋の美術品の評価と、中南米へもたらされた日本美術の影響』長崎純心大学、2017年。
- 田口 義明 , 加藤 寛 , 高橋 千恵『輸出漆器の技法的復元研究』保存科学、2001年。
- 北野信彦 ほか『桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査』東京文化財研究所、2008年。
- 北野信彦 ほか『桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査(II)』東京文化財研究所、2009年。
- 北野信彦 ほか『桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査(III)』東京文化財研究所、2014年。
光悦
[編集]- 金沢市立中村記念美術館『金沢市立中村記念美術館ニュース 35·36号』金沢市立中村記念美術館、1997年 。
- 灰野昭郎『本法寺「宝相華螺鈿法華経経箱」-光悦・光琳蒔絵研究の諸問題(1)-』京都国立博物館、? 。
かきかけ
[編集]37貢...鎖国令が寛永16年(1639年)2003年から1年かけて調査で御池中学校から出土した四耳壺からは漆の成分であるチチオールが検出された。これは日本や中国、ベトナムの漆の成分と違う分析結果を示している。つまり、「オランダ商館長の日記」 に記載されるようにオランダ東インド会社による貿易で日本に持ち込まれたもので、タイ産出のブラックツリーから採れた樹液を輸入したと考えられる。商館長の日記に書かれる日付は、国産の漆産出量が増える享保よりも以前のことで、京都で漆の輸入 に頼る必要があったと、この遺構からは考えられる。 北野信彦 ほか 桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査 2008
133-143貢...また、京都市中京区で2007年に行われた発掘調査で、17世紀初期から中期の町屋敷の遺構から多くの生活用具とともに漆器工房に関する容器類などが出土、検査の結果、漆へらを含むこれらの容器類からは、日本、中国産の漆の特徴である成分、ウルシオール が検出され、ベトナム漆の特徴のラッコールも検出された。これらのことから、状況に応じた漆の使い分けや混合作業が行われいたと推察される。 北野信彦 ほか 桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査(II)2009
慶長10年(1605)『宇都宮大明神御建立御勘定目録』の漆の調達記録、正保2年(1645)の『長崎オランダ商館長日記』にある調達記録 北野信彦 ほか 桃山文化期における輸入漆塗料の流通と使用に関する調査(III)2014
江本 義理 古文化財のX線分析法による材質測定資料 III 金属―漆芸品―蒔絵材料 1980
大森健二 高台寺開山堂修理工事報告その前身建物について 一般社団法人日本建築学会 1954 赤石敦子 桃山時代における蒔絵螺鈿漆器について 関西意匠学会 1998 江戸時代
江戸時代から近世
[編集]- 神崎宣武『日本の食器-漆器から磁器へ』日本食生活学会、2002年。
- 長佐古真也『「お茶碗」考--江戸における量産陶磁器の変遷 (陶磁器が語るアジアと日本) -- (食と陶磁器)』国立歴史民俗博物館、2002年。
- 横井時冬『工芸鏡.二』六合館、1894年。
- 北野信彦『近世遺跡出土の茶会席食器としての漆器資料』金沢大学文化財学研究、2003年。
- 北野信彦『近代公家社会における生活什器としての漆器資料』くらしき作陽大学、2003年。
===江戸の生活様式と漆器 40-47貢...利休没後100年の元禄ころは茶の湯は家元制度の整備や茶道具の手引書の刊行で社会的に流行し、広い階層に知られることになった。元禄9年(1696年)の茶会の文書「茶湯献立指南」には、汁椀、皿など漆器種別に技法の注釈が付いた図で取り上げられている。 明和8年(1771年)「茶道早合点 巻之下 会席道具類」、茶道と作法と茶道具が、文化13年(1816年)「茶道ぜん蹄」の第5巻には
徳川時代が終わり天保以後の情勢が一変し、漆芸家たちは地に落ちたかのようであったが文哉、原羊遊斎、柴田是眞が明治以後の漆芸界を生き永らえさせた。この頃日本の美術品が世界へ輸出されたように漆器もまた同じ道を歩んだ。しかし、時間が経つに連れ大正にはかつての盛況さは減衰した
- 岡田三郎助『工芸美術及室内装飾』書画骨董叢書刊行会、1922年。
濱田琢司 工芸品消費の文化的諸相と百貨店 : 民芸運動とその周辺から 国立歴史民俗博物館研究報告 2016 1955年以降、漆器の素地は木からプラスチックへと広まる 加藤明 山中・海南漆器産地の近代化に関する研究 : 近代漆器への移行における比較研究 2010 北陸先端科学技術大学院大学 経済産業省製造産業局 伝統的工芸品産業室作成 「伝統的工芸品産業をめぐる 現状と今後の振興施策について 現状と今後の振興施策について」2008.2011年 より 永瀬喜助 論文 漆液に関して 大橋嘉一 漆工業および焼付ヶ漆について 1963 ______________________________________________________________________
現在
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関連文献
[編集]- 木村理恵『飛鳥藤原地域出土の木製食器』奈良国立文化財研究所、2012年。
- 奥原加奈子『中世出土漆器の製作』奈良大学大学院研究年報、2004年。
- 六角紫水『天平工芸の研究 : 工芸常識講座』三省堂、1930年。
- 読売新聞『しま模様浮かぶ「重文級」縄文漆器…精巧な彫刻』読売新聞、2018年 。
- 並木誠士『日本美術史』森理恵編、昭和堂、1998年。ISBN 4-8122-9811-3。
- 林虎松『長崎漆器沿革史』著名物産、1903年。
- 工業試験所『漆器試験報告』1897、1903、1912。
- 澤口悟一『漆と其工芸的応用』三省堂、1930年 。
- 澤口悟一『本邦漆器の研究』顔料塗料印刷インキ 一般社団法人色材協会、1934年 。
- 澤口悟一『漆器の地方的特色』顔料塗料印刷インキ 一般社団法人 色材協会、1934年 。
- 鶴田榮一『顔料の歴史』色材協会誌、2002年。
- 岡田三郎助『工芸美術及室内装飾』書画骨董叢書刊行会、1912年。
- 加藤勝次郎『漆器の栞』加藤漆器部、1910年。
- 本間一男『木材工芸法』工業図書、1937年。
- 大村西崖『正倉院志』田島志一、1910年。
- 灰野昭郎『我が近代漆工史序説』奈良大学文学部文化財学科、2011年。
- 黒川眞頼『漆器説、「工藝志料」』明治年間。
- 北野信彦『中・近世アイヌ史の解明に対する漆器分析の可能性』2012年。
- 仲間勇栄『琉球の漆について(林学科)』琉球大学農学部、1981年。
- 権修珍『沖縄県伝統的工芸品産業の現状に関する考察』立命館大学、2003年。
- 室瀬和美『受け継がれる日本の美 漆の文化』2002年。
- 荒川浩和『漆工芸』保育社、1982年。
- 赤石敦子『桃山時代における蒔絵螺鈿漆器について』関西意匠学会、1998年。
- 湯山英子『日越経済関係史 : 戦前の日本商と漆貿易』北海道大学大学院経済学研究科地域経済経営ネットワーク研究センター、2015年。
- 商工省商務局貿易課編『輸出漆器ニ関スル調査』1927年。
- 北野信彦『生産技術面からみた近世出土漆器の生産・流通・消費』くらしき作陽大学、2000年。
- 石田為武『英国ドクトルドレッセル同行報告書』1877年。
- 都築由理子『江戸遺跡出土漆器の研究』人間科学研究、2011年。
- 波田よし子『江戸時代初期における輸出漆器の多様性について』1995年。
- 馮赫陽『清末における中国漆の日本輸出について』2011年。
- 大阪府内務部『日清貿易案内』1891年。
- 大蔵省印刷局編『官報』1890年11月26日。
- 啓明会『財団法人啓明会講演集. 第42回 (支那の工芸 2)』啓明会、1931年。
- 商工省商務局『一九二六年米国独立百五十年記念万国博覧会出品団体代表者視察報告』商工省商務局、1927年。p73
- 工業組合中央会『工業組合の組合員工場従業員に対する諸施設』1937年。p33
- 比嘉明子、宮崎清『昭和戦前期の地方のデザイン活動~漆器を事例にして : 地方試験研究機関による工芸振興に関する研究項目の分析』デザイン学研究、1997年。
- 島田竜登『近世日本のシャム貿易史研究序説』経済学論集 41巻(2号)、2006年。
- 宮腰哲雄『漆と高分子』明治大学理工学部応用化学科、2007年。
- 國本学史『日本近代の漆工芸における色漆の変容』東京工芸大学芸術学部、2015年。
- 農商務省『府県漆器沿革漆工伝統誌』有隣堂、1886年。
- 大蔵省印刷局『官報』日本マイクロ写真、1890年。
- 横井時冬『工芸鏡. 巻二』六合館、1894年。
- 特許局『実用新案分類総目録. 明治44年1月至大正3年12月登録 上巻』特許局、1914年。p713
- 井戸文人『日本嚢物史』日本嚢物史編纂会、1919年。p515
- 商工省商務局『一九二六年米国独立百五十年記念万国博覧会出品団体代表者視察報告』商工省商務局、1927年。 p73
- 後藤守一『日本歴史考古学』四海書房、1937年。p534
- 南満洲鉄道株式会社中央試験所『特許発明分類総覧. 化学工業之部』南満洲鉄道中央試験所、1942年。 p265-p267
- 東京芸術大学事務局総務課『東京芸術大学学報. 平成20年 (449)』東京藝術大学、2008年。
- 奈良国立博物館『平成十八年 正倉院展』奈良国立博物館、2006年。
- 寺田晃『漆器の丈夫さについて1』梅光女学院大学、1995年。
- 下出祐太郎・遠藤淳司『漆製品の劣化についての基礎的研究(木材・漆材料,一般セッション)』2012年。
- 佐々木康寿・山崎真理子『繰り返し曲げ荷重下における木材の強度耐久性(木材・漆材料,一般セッション)』2012年。
- 橋本悠希 小泉直也『漆をベースとした電子回路構築手法の基礎的検討』2015年。
- 大塚智嗣・新宅智也『漆の復興と保存活動 : 第1期計画」報告』広島市立大学芸術学部芸術学研究、2012年。
- 山崎剛『海を渡った日本漆器(1)16・17世紀 日本の美術 (No.426)』東京国立博物館、2001年。
- 「商業調査報告. 第2輯(昭和8年度調査)に生産戸数、従業員、等の数記あり
- 「官報. 1942年10月23日」には漆器全般についての記述あり
- 松島さくら子「漆が語るアジアの文化 ミャンマーの漆文化Ⅰ」
- 飯田 昭光 , 田中 功二ほか「青森・岩手・茨城・新潟県のウルシ植栽地調査について 」2013
- 伊藤清三 「うるしの栽培・採取等の技術的変遷に関する調査研究橢書」
- 下出 祐太郎 , 奈須 慎一「漆塗り様外観を有するプラスチック射出成形品の創製に関する研究 」
- 荒井 紀子 , 山本 美穂 「農山村地域における伝統技術の継承に関する研究」2011
- 七海 絵里香 , 大澤 啓志 , 勝野 武彦「八溝山地南部における漆掻き林の分布および林床植生の特徴 」2014
- 永瀬喜助 1965 うるしとエポキシ樹脂 38頁
- 鈴木三男 ほか 縄文時代のウルシとその起源 国立歴史民俗博物館研究報告 2014
- 千葉 敏朗 , 工藤 雄一郎 , 佐々木 由香 , 能城 修一 石器によるウルシ樹液採取実験 国立歴史民俗博物館研究報告2014