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利用者:G-Sounds/警告タグは数を絞らなければ意味が無い

「警告タグは数を絞らなければ意味が無い。」は、Wikipediaに関するG-Soundsの私論です。ここではWikipedia日本語版の記事で使用されている各種テンプレートに関わることについて言及しています。これに対して、この文章では、利用者の問題行動に対する警告については何も言及しておらず、また言及対象にもしません。あくまで、記事に貼付されることのある警告タグに関する文章です。

要旨

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常態化した警告タグは注目されない。乱発された警告タグは価値が下がる。至る所にあって風景のようになった警告タグは役に立たない。よって、警告タグは必要最低限にし、本当に必要な警告タグのみを残すことが重要。

本文

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記事への警告タグの貼り付けは、本当に重大な問題が存在している時のみに行わなければなりません。もちろん、警告タグを使用するなと言っているわけではありませんけれども、だからと言って漫然と警告タグを掲示し続けて良いというわけではありません。ここからは、具体的な例を挙げておきます。是非、警告タグ使用の際の指針として御活用ください。

宣伝的であるとの警告

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この警告は、宣伝的な記述の免罪符ではありません。

宣伝であれば、削除提案も同時に行うことを検討してください。宣伝は、中立的であることを求めているWikipedia:五本の柱に反する内容であることを忘れないでください。この警告は、文章全体の改稿をすれば問題がなくなる時にその改稿が終わるまで一時的に、または、削除が行われるまで一時的に、Wikipediaの五本の柱に反する記事であることを警告するためのタグです。

この記事は「stub」であるという警告

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例えば、stubのテンプレートなら、優先的な加筆をする必要性が高い場所にだけ貼り付けているでしょうか? 他にも、単に記事のサイズが小さいからstubのテンプレートを機械的に貼り付けてはいないでしょうか? それどころか、記事を作ったら必ずstubテンプレートを貼っておくことにしてはいないでしょうか? 確かに全ての記事を成長させるのは良いことですけれども、物事には軽重があります。さして重要ではない記事、加筆は後回しにしても良い記事などもあるわけですから、そのような記事にはstubテンプレートを敢えて貼り付けないという選択も必要です。stubテンプレートには「この記事は比較的重要な記事だから、または、この記事の重要な部分がまだ執筆されていないから、できれば加筆を行ってください」というような意味があることも忘れないでください。

少し判りにくいかもしれないので具体的な例を挙げてみましょう。島と島の間にある小さな海峡ならば、世界中に数え切れないくらいあります。そのような海峡の記事は、たとえ情報量が限られていても、たとえ地元では有名な海峡であっても、世界的見ればさして重要ではないとして、stubテンプレートを貼り付けないという選択も視野に入れるべきです。しかし、もしも小さな海峡であるにもかかわらず、そこに国境が走っていたらどうでしょうか。もしも過去に重大な事件が起こった現場であったならばどうでしょうか。このような海峡の記事は重要度が増すと考えられますけれども、残念ながら充分な内容が書かれていなかったとします。そのような時に初めてstubテンプレートを貼り付けるようにするべきです。

無論、元々コンパクトにまとまる内容の記事であって、サイズの小さな記事とは言え、それはすでにstubではない記事という状態の記事も存在するわけです。そのような記事に、サイズが小さいからと言って機械的にstubテンプレートを貼り付けるのは最悪の行為です。行っていることは狼少年と似たようなものですから、stubテンプレートなど誰も注目しなくなってしまいかねません。また、記事を作ったら必ずstubテンプレートを貼るようなことをすれば、本当に加筆が必要な記事に付加されているstubテンプレートを埋もれさせてしまうことを忘れないでください。

なお、もしも加筆を行ったならば、一旦stubのテンプレートを取り外すことも重要な作業ですので、どうぞstubのテンプレートが貼り付けられている記事に加筆を行ったら、stubテンプレートを外すことも検討してください。

辞書に収載すべきとの警告

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字引記事であるとの警告は、単なる単語の説明以上には成長し得ないと考えられる記事で、かつ、辞書に収載するべき記事にWiktionaryへの移管がなされるまでの間にだけ使用するべきタグです。これに対して、このタグを短い記事だからと言って機械的に貼り付けるのは最悪の行為です。どんなに成長させたとしても、最終的にそれほど長い記事にはならないと予想されるものの、その単語の使用例に関する記述、類義語に関する記述、対義語に関する記述、外来語などの場合は転記の仕方に関する記述を除いた時に、定義文のみにはならない記事は、たとえ短い記事であっても字引記事ではありません。記事の主題を吟味して、どう成長させようとしても単語の説明以上には発展し得ないであろうと考えられた場合のみ、このタグを貼り付けて、同時にWiktionaryへの移管を提案してください。なお、移管の議論を行った結果、移管せずにWikipediaに残すとの結論に至った時は、速やかに、このタグを取り外してください。

出典不足や要検証に関する警告

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Wikipediaにおいて、出典を明示しておくことは重要なことです。そして、出典などが不足していれば要出典や、場合によっては要検証などのテンプレートを貼り付けることもあるでしょう。

しかし、ちょっと待ってください。本当に、その記事には出典が無いですか? 本当に、その記事には単一の出典しかついていないですか?

奇妙な問いかけに思えるかもしれません。しかし、このように問いかけざるを得ない事態がWikipedia日本語版では起きています。確かに脚注の機能を使った出典も、さらに「参考文献」の節での出典提示も無い記事もあります。ところが、本文を読んでみると文脈の都合で、例えば、ZXCVと言う人物が書いた著書「BNM」には「1234567890」と書かれているなどと、本文中にどこに書いてあった文章なのかなどが組み込まれていることもあります。また、例えば「log10=1」というような定義から自明なこと、「南アメリカ大陸は、北アメリカ大陸の南にある。」というような地理的に動かしがたい事実など、わざわざ出典を提示するまでもないようなことに、機械的に「要出典」や「要検証」を付けるような編集者が散見されるのです。他にも、出典のページ数が書かれていないと警告がなされているのに、参考文献の節を見てみると、そこにページ数が明記されていて、そこを見てみると用が足りたといったことも見かけられます。

まずは、記事を熟読してください。機械的に貼り付けられたタグは、本当に出典や検証が必要な場所に貼り付けられたタグを埋もれさせます。また、この程度のことの確認を怠って警告タグを貼り付けたとあっては、執筆者や編集者に失礼であることを忘れてはなりません。さらに、修正作業を請け負った編集者をも、無意味な警告によって翻弄することにつながり、Wikipedia全体の改善作業を遅らせる原因になり得ることも忘れてはなりません。

さて、では一見、出典が必要と思われる場所に出典が明示されていなかったとします。ここで次に、あなたは、その分野の教科書、せめてその分野の基礎に当たる学問分野の教科書を読むなどして、専門的に学んだ(自習した)事がありますか? その記述は、その分野では自明のこととして扱われている事柄ではないことを確認した上で、初めて「要出典」や「要検証」の警告をしていますか?

残念ながら、この程度のことすら行わない編集者も散見されるのです。

そして。最低限、ここまでのことをしたならば、本当に出典が必要な場所や本当に検証が必要な場所がどこなのかは、すでに判るはずです。恐らく、自分でも出典を追加できる場合もあるでしょう。

  • 例えば「10の3乗は1万」とあれば、これは計算ミスなので、その場で修正すれば良く、要検証など付ける必要はなく、問答無用で正しい答えを書き込めば良いでしょう。
  • 例えば「太陽系のメインベルトの小惑星QWERTYUIOPの直径が10万 km」とあれば、間違いなく要検証(直径10万 kmというのは地球よりもはるかに巨大な天体で、こんな小惑星が太陽系のメインベルトにあるわけがない)でしょう。
  • 例えば「ASDFGHJKLと言うのは、炭酸水に後からジンを加えたカクテルである」とあって出典が無ければ、間違いなく要出典(これはカクテルの作り方の基本に反するため、本当にそんな作り方をするとの出典が絶対に必要な場所)でしょう。
  • 例えば「COX2を選択的に競合阻害するNSAIDsのZXCVBNMは、COX阻害による胃腸障害は起こりにくい」とあって出典などが無くとも、ここに出てきたキーワードを全て知っていれば常識(初歩)レベルの話であって、特に目くじらを立てる必要も無い。「しかし、このNSAIDsのZXCVBNMは、その化学的特性によって胃腸に障害を与える」こちらに出典が無ければ、間違いなく要出典(その化合物独特の性質なので、出典が絶対に必要な場所)でしょう。

このように慎重に選別をすることによって、本当に問題のある記事に「要出典」や「要検証」が付いて、このタグも価値が出てくることを忘れないでください。

「いつ?」との警告

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機械的に貼り付けられることの多い警告タグの1つです。出典などと同じで、どこまで詳しく、その時を明示せねばならないのかを吟味の上で警告しなければなりません。判りやすいように、例を挙げておきます。

  • 探査機QAZは、2010年10月20日10時20分30秒から軌道修正のための噴射を行った。
  • 医薬品WSXは、EUで2001年2月1日に承認、アメリカ合衆国では2001年3月4日に承認、日本では2015年現在においても未承認である。
  • かつて医薬品EDCは広く使用されていたこともあった。しかし、2010年に重大な副作用が発覚し、2011年までに世界中で承認が取り消され、現在は使用されていない。
  • 現在の地球表面には液体の水が存在しているものの、形成された直後の地球表面には液体の水は無かったと考えられている。

上記は、このままで何ら問題ありません。

  • 探査機RFVは、2015年序盤(いつ?)に軌道修正のための噴射を行った。
  • ある時(いつ?)パンゲアが分裂した。

ここに「いつ?」と警告を付けるのなら問題はないでしょう。しかし、簡単に調べられるはずですので、「いつ?」を付けるくらい暇ならば、御自分で調べてください。せめてWikipedia内に「いつ?」の答えがあるのなら、あなたがそれを書き加えてください。

スタイル修正に関する警告

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無意味な警告です。このような警告をするタグを貼り付ける暇があるのなら、御自身がその場で修正してください。

雑多な記述の羅列が見られるとの警告

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あまり意味の無い警告です。

記事を拾い読みしていると、そこまで小さなことを延々と書く必要はないと考えられる記事ではないかと思うこともあるでしょう。しかし、ちょっと待ってください。それは本当に「雑多な記述の列挙」ですか? と言うのも、例えば多数のシリーズ作品について1つの記事で総括している場合、ある程度の羅列が必要になってくるからです。にもかかわらず、そのような場所に機械的に「雑多な記述」と警告を貼り付けるのは最悪の行為です。まず、その記事の主題を吟味した上で、本当に雑多な記述なのかを考えてください。

さて、では記述の吟味を行った結果、本当に雑多な記述の羅列が存在したとします。その時は、わざわざ雑多な記述の羅列が見られるとの警告を貼り付ける暇があるくらいならば、本当に雑多な記述の羅列が存在することに気が付いた人間が、自分で記述の整理を行えば良いのです。ただ気を付けてください。記事の主題によっては、一見雑多な記述の羅列に見える部分が必要な場合もあります。よって、その分野に精通していないのならば、下手に記述を除去するのは危険な側面もあることを忘れないでください。逆に、その分野に精通しているのならば、すぐに雑多な記述の羅列であることを見抜いて、そのような記述の整理ができるはずですので、どうぞこんな警告タグを貼り付ける時間があるのでしたら、御自身の手でさっさと整理してしまってください。

言葉を濁しているとの警告

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これも機械的に貼り付けられることのある警告タグです。例えば、泥炭が形成される現場を我々は見ることができますので、泥炭の形成され方は断定形で書くべきです。しかし、例えば宇宙の開始と言われているビックバンが本当にあったのか、仮にあったとしたらそれはどのようなものかを我々は見ることができませんので、「と考えられている。」などと断定を避けなければならない場合があることを忘れてはなりません。他にも、生体内のこと、天体内部のこと、それどころか地球の海中のことですら、我々は未だに全てを知り得ていません。そのような事象に対して「と言われている。」「と信じられている。」「と見られている。」「と考えられている。」などの断定を避ける表現は、誠実であり、公正です。

よって、この警告は、その分野に精通している編集者が扱うべき警告であることが判ります。そして、その分野に精通していれば、このような警告は使わず、適切に修正ができることと考えます。つまり、この「言葉を濁しているとの警告」も存在意義は非常に低いのです。なにしろ、この警告タグを記事に貼り付ける能力のある者は、その記事の言い回しを適切に修正できる能力を兼ね備えているのですから。

まとめ

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警告は数を絞らなければ注目されにくくなってしまいます。ですから、とにかく本当に警告が必要かどうか吟味して、記事に貼り付ける警告は必要最低限にしてください。そして、警告を貼り付ける前に自分自身で調査することや、自分自身で記事の改善も行って、少しでも記事に貼り付ける警告の数を少なくしてください。そうすることが、Wikipedia日本語版の品質を早く上げることにつながるのです。

関連項目

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