利用者:G-Sounds/節を作ることは記事の成長を促進する
この文書は私論です。一部のウィキペディアンが助言や意見を記したものです。広く共有されている考え方もあれば、少数意見の見解もあります。内容の是非については慎重に検討してください。 |
「節を作ることは記事の成長を促進する。」は、Wikipediaに関するG-Soundsの私論です。これは日本語版に限らず、全言語版のWikipediaの記事に言えることだろうと、G-Soundsは考えています。
要旨
[編集]記事の本文は適切な数の節を作っておいた方が、読み易い記事にできます。適切に節が作られていないと、文章の全体構造の把握に時間がかかるため読み難くなりがちで、自分が必要とする情報を探すためには記事全文を読まねばならない事態も起こりがちです。さらには、自分が必要とする情報が書かれていないと知るためにですら、記事全文を読まねばならないという事態を招く場合もあります。
さらに、本文に適切な節が設けられていないと、編集に多数の者が関わるWikipediaでは前後の文章と脈絡の乏しい文がランダムに挿入され易いようです。これは、本文に節が設けられていないと、本文の見通しが悪く、また、加筆しようにも、一体どこに加筆するか迷う事も、原因の1つと考えられます。この結果として、記事の成長を阻害する場合があります。
以上の理由で、本文に適切に節を作ることを推奨します。
なお、ここで言う節には「関連項目」「出典」「脚注」「参考文献」「外部リンク」に当たる節は含まれません。必要なのは、それ以外にも節が存在することなのです。
本文
[編集]適切な節が存在しないことの弊害
[編集]Wikipedia日本語版に限らず、どの言語版でも、本文は冒頭定義文から最後まで1つも節が存在せず、「関連項目」「出典」「脚注」「参考文献」「外部リンク」に当たる節が最初に出現する節である記事が散見され、ついぞ、そのような記事は、2010年代が終わっても無くなりませんでした。つまり、本文は冒頭定義文から最後まで、ずっと文が続いている状態の記事のことです。
このような記事は、1人の執筆者が編集しているだけならば問題ない場合もあるようですけれども、年月が経過して何人もの編集者による加筆を経ると、あちらこちらに前後の文章とは脈絡の乏しい文が挿入されたり、単に箇条書きのように追記されたりした事例が散見されます。
このように記事が、文章として破綻する理由は、幾つも考えられます。例えば、後から加筆しようとした者が、その記事に加筆する必要は有ると判断したものの、その記事の一体どこに追記するか迷ったことが、このようなことが起こる原因の1つでしょう。もしかしたら、そもそも節が作られていない以上は、記事のどこに追記しても良いと考えることが理由の1つかもしれません。また、節が存在しない長文から、問題の箇所を見付け出すには労力がかかるために、このような場所が見落とされて長期間放置されるのかもれません。他にも、前後のつながりが悪い、取って付けたような文が有る状態を是正するには、節が存在しないために、その記事全体の編集を行う必要に迫られるせいで、修正にかかる手間を考えて編集をためらった結果、放置されている可能性も考えられます。場合によっては、長い文章を要約することは簡単ではないですから、長過ぎる記述を要約する編集を試みたは良いものの、残念ながら要約の能力不足で、結果として文脈をズタズタに切ってしまったせいかもしれません。
適切な節が存在することの利点
[編集]ここでもし、きちんと節が作られていた場合、追記すべき内容を、その記事のどこに追記するかを、迷う可能性が減ります。
例えば、ある医薬品の記事に「用途」の節と「副作用」の節が設けられていた場合、「用途」の節に「副作用」について書こうとは思わないでしょうし、仮に「用途」の節に「副作用」について書かれていたら記述を「副作用」の節に移動させるでしょう。そして、その薬の「合成法」や「歴史」について加筆したいと考えた場合、新たに節を作って加筆するでしょう。さらに、記事の閲覧者も、記事の見通しが良いため、内容の把握がし易い上に、もし記事に問題点が有れば、それも発見し易いはずです。つまり、適切に節が作られていれば、その記事の改善も行い易いと考えられます。
場合によっては「その他」といった雑多な記述が集積し易い節が作られて、断片的な事柄が箇条書きされた記事も散見されますけれど、雑多な記述が集積し易い場所がハッキリしている分だけ、記事の改善にかかる労力が少なくて済む可能性があります。また「その他」のような節には、その記事を加筆するためのヒントが存在しているかもしれません。例えば、簡単な記述に済まされて「その他」と片付けられている事項ながら、それが実は重要な事項で、その記事の主題と照らし合わせて考えても、もっと掘り下げて記述すべき内容だということもあるでしょう。
他に「概要」「概説」などといった、特殊な節が設けられる場合もあります。特に、長い記事において「概要」「概説」に当たる節が存在しない場合、それは他人に読んでもらう準備のできていない記事だという点も忘れないでください。例えば、論文などには必ず「Abstract」や、それに類する節が設けられていて、さらに詳しい情報が欲しければ、読み進められるように書かれています。Wikipediaの活用法は様々で、ある人にとっては詳細に知りたい事柄でも、ある人にとっては概説だけで充分な事柄だということもあり、そして、どちらの人に向けても開かれているのがWikipediaです。「概要」「概説」は読み飛ばして詳述から読み始めることも、「概要」「概説」だけを読んで他の記事を読むことも、いずれの読み方もできるようにしておくのが親切でしょう。これに関連して「概要」「概説」に当たる節は、それ以降の要約であるわけですから、極端な話、それ以降の節の文章に出典が付いているのであれば、「概要」「概説」に当たる節では読み易くすることを優先させ、出典を省いても良いかもしれません。
なお、要約することを、箇条書きにすることと勘違いしている編集者も散見されるため、しばしば断片的な単語や、断片的で幼稚な数語による文の羅列が増加し易い節が、「概要」「概説」に当たる節と、そして「概要」「概説」の前に存在する冒頭文です。もちろん、長過ぎる文は主語を曖昧にして論理展開まで曖昧にする上に、読み難くなる傾向があるために良くありません。さりとて、ようやく助詞を覚えた程度の子供が書くような、数語による文が連続している状態では、百科事典としての品位に欠けるのではないでしょうか。そして、そのような場所は、箇条書きが改行無しで続いているだけの、断片化した記述が集まった状態になっている例が、しばしば見られます。ですので「概要」「概説」に当たる節が設けられていると、断片化した記述が集積し易い場所がハッキリするという効果も出るように思われます。また、これらの部分は記事全体を要約している場所であるわけですから、長い記事に「概要」「概説」が設けられていることによって、言語能力を活かしたWikipediaの改善を行うことを優先させると良い部分を、「概要」「概説」の節という形で明確に示すことができます。結果として、そのような編集が得意な人の協力を得られ易くなるでしょう。
また、ある事柄に関することで、Wikipediaから部分的な情報だけを拾いたい人にとっては、節が作られていることによって、その情報が書かれているであろう場所を見つけ易くなりますし、書かれていないのであれば書かれていないことも判り易くなります。例えば、Wikipediaの機能で表示される「節」の目次の部分だけ見て、その先を読むかどうか決めるという読み方も可能です。情報収集にかかる時間を短縮できるように節を作っておくことは、読者への"粋"な計らいだと言えるのではないでしょうか。
不適切な節とは
[編集]この私論の表題は「節を作ることは記事の成長を促進する。」ですけれども、これは、記事を編集する際に、必ず記事の全文を通読して、記事の構造を把握する作業を怠らなかった場合の話です。
もし、記事全体の構造の把握を怠って節を作成すると、何が起こるでしょうか。それを考えるためには、まず「概要」「概説」の節と、それ以外の節の違いを明確にせねばなりません。
不適切な「概要」「概説」の節とは
[編集]もちろん「概要」「概説」の節の内容と、その他の節の内容が重複する事は普通ですし、むしろ、記事全体を読んで、その内容を要約した場所が「概要」「概説」の節ですから、この節だけは、他の節の内容と重複していなければなりません。
逆に、記事内の他の場所の記述と重複していないならば、それは「概要」「概説」の節ではありません。もし、記事内の他の場所の記述と重複していない「概要」「概説」の節が有ったとすれば、それは単に、適切な節の名称を考えることを怠っただけの話です。きちんと、適切な名称の節を、別に設ける必要があるのです。
導入文に関する誤解
[編集]「概要」「概説」の節に言えることは、冒頭の「導入文」と呼ばれる場所についても同様です。
ここまでの内容を読んで「概要」「概説」の節を作ることが面倒臭くなったからと言って、それならばと、単に「概要」「概説」の節であるとの表示を消して、導入文を長くしても、何の解決にもなりません。それどころか、そのような編集は、むしろ有害です。
Wikipedia日本語版では、単に「概要」「概説」の節であるとの表示を消すだけの有害な編集が、多数行われてきました。このような有害な編集を、行ってはなりません。
彼ら彼女らが行ってきた編集は、やはり、ただ単に適切な節の名称を考えることを怠っただけの話なのですから。
それ以外の節の不適切な作り方
[編集]記事全体の構造の把握を怠って節を作成すると、基本的には記述を重複させるべきではない「概要」「概説」の節以外の節でも、似たような内容が書かれて、同じ記事の中の別々な節に、何度も同じ記述が登場する場合が出てきます。
この結果、説明がクドイだけで済めば、まだ良いと言えましょう。さらに悪いことに、少しずつ違った内容が、記事内に散らばった状態に陥る場合まであるのです。これでは、せっかく節を作ったのに、もはや何のために節を作ったのか判りません。
そもそも節は、記述内容を整理するために存在しているのです。これを忘れてはなりません!
逆に、このことさえ忘れずに、記事全体の構造を把握するように努めながら編集を行えば、少しずつ違った内容が、記事内に散らばった状態にまで至った、もはや「惨状」と言うべき記事にはならないはずです。
記事内での節の並べ方
[編集]節同士の関係性を考えずに、ただ単に乱雑に節を作って並べた状態にすることも、行うべきではありません。
無論、節同士の関係性と言われても、観点が異なれば節の関係性は違ってきますから、編集者によって節の設定の仕方も、並べ方も異なることは、充分にあり得ます。ですから、節を並べる順番に、絶対的な正解が存在するわけではありません。
また、記事の主題によっても節の関連性の強さも違ってくる場合があり得ますから、ある記事では適切な順番の節の並べ方でも、他の記事では不適切な順番だということも充分に考えられます。ですから、機械的に節の順番を決めて良いわけでもありません。
きちんと、記事の文脈を把握し、節同士の関係性を考えた上で、節の順番を決定する必要があるのです。そうしておけば、Wikipediaの機能で表示される「節」の目次の部分だけ見て、その先を読むかどうか決めるという読み方が、有効に機能しますから、読者の情報収集にかかる時間を、短縮することに繋がります。
適切な節を作成し、そして、それを適切に配列することは、読者への"粋"な計らいだと言えるのではないでしょうか。
節単位での編集は、非推奨
[編集]これは少し毛色の違う話ですけれど、関連する話なので、ここに記載しておきます。ここまでの内容を読んでいただければ、なぜ「節単位での編集」を推奨しないのか、お判りいただけると思うからです。
つまり、良い編集を行うためには、記事全体の構造の把握して、節同士の関係性を考えてから、編集を行う必要が有るからです。
もちろん、単なる誤字脱字の修正程度なら、節単位での編集でも充分です。
しかし、記述の追加や除去を行うのなら、必ず全体編集を行い、常に、記事の全体を見ながら編集を行うことを、強く薦めます。Wikipediaの編集は、記事の全体構造と内容を覚える記憶大会ではないのですから。
まとめ
[編集]以上のように、例を挙げればキリがありませんけれど、「関連項目」「出典」「脚注」「参考文献」「外部リンク」に当たる節以外にも節が設けられている記事は、閲覧者にも、編集者にも、やさしい記事だと言えるのではないでしょうか。初版執筆者にとって、節を作成することは手間だと感じられることも有りましょうけれど、現在進行形で不特定多数の人間によって編集が続けられる形態のWikipediaにおいては、節を作成した方が親切です。