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利用者:G-Sounds/数量の少ないブロックは使い勝手が悪い

「数量の少ないブロックは使い勝手が悪い。」は、Wikipediaに関するG-Soundsの私論です。なお、ここではWikipediaを利用した宣伝などに関わることについても言及しています。

論旨

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  1. 不良品・売名・宣伝・報告・告知に当たる記事でない限り、Wikipediaの記事数は多い方が良い。
  2. 記事数が多いことは、Wikipediaの成長(利便性の向上、並びに、質の向上)を促進する。
  3. 不良品ではない記事が数多く存在することは、最終的に質が高く使い勝手の良い百科事典にするための基礎に当たる。

本文

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レゴブロックでもダイヤブロックでも何でも構わないのですけれども、どうぞ、使えるブロックの個数が少ない状況を想像してみてください。個数が充分でないと、ブロックで何かの形を作りたいと思っても、ブロックが足りずに断念せざるを得ない事態に陥りやすいこと、または、小さく作らなければブロックが不足する事態に陥りやすいことは、御理解いただけると思います。

実はWikipediaでも同じ事が起こり得ます。すなわち、記事数が少なければ、Wikipediaを使って何か調べ物をし、その成果をまとめ上げようとしても、記事が足りずにWikipediaが役に立たないことがしばしば起こります。また、Wikipedia内の記事を成長させようとしても、周辺関連記事が不足していて充分に成長させることが難しいといったこともしばしば起こります。

他にも、このようなことを経験したことはないでしょうか。多くの情報を含んだ記事は、その記事を単独で読むだけで済む調べ物には大変役に立つのですけれども、その記事を読むだけでは完結しない調べ物をする時には、いかに素晴らしい記事であっても、それは調べ物のブロック(要素)の1つに過ぎず、他にも必要な記事が揃っていなければWikipediaはあまり役に立ちません。情報量の多い素晴らしい記事は、もしかすると黄金でできた大変に価値の高いブロックのようなものなのかもしれませんが、それ1つだけではWikipediaを点としてしか活用できないのです。点としてしか活用できない状態というのは、何か単語の意味を忘れた時に辞書を引くような調べ物、または、何かの事項を忘れた時に自身が知っている書籍の特定のページを見るような調べ物をするのに似ています。その分野に詳しい人にとってはこれで充分ですけれども、そうでなければ大変に使いにくい、少なくとも初学者が調べ物をする時や、自身の専門外の分野を調べる時には使いにくいということは容易に想像が付くと思います。Wikipediaは専門家だけのための事典ではありませんので、これはあまり良い状態とは言えません。

無論、ブロックに不良品が混じっているのも困り物です。そして質の高いブロックが歓迎されることも当然のことです。しかしながら、一応記事として成立するレベルにある記事(ブロックに喩えると、そこそこの品質は保たれていて、歪んだり、割れたりはしていないブロック)が大量に存在していることもまた重要だということは、ここまでの話だけでも御理解いただけるのではないかと思います。幸いなことにWikipediaは紙媒体などではないので、記事が幾つ存在しても問題はありません。したがって、たとえ小さな記事であっても一定以上の品質の記事が大量に存在しているということは、間違いなく良いことなのです。また、これも幸いなことにWikipediaは記事の加筆をすることも保護などがされていなければ随時簡単に行う事ができます。したがって、不良品の記事を修理(加筆修正)することも簡単にできますし、不良品の記事を交換して(差し替えて)しまうことも簡単にできますし、最終手段として削除することも可能です。

どこまでを不良品とするかには各々の考え方によって違いが出てくるでしょうけれども、私が考える不良品の記事と言うのは、次のような記事です。

  1. 誤記が含まれた記事。
  2. 明らかな論理矛盾のある記事。
  3. 一見理屈に合いそうもない記述や意外な記述が何の出典も無く書かれている記事。
  4. 具体的なデータに出典が付いていない記事。

以上のような記事を特に問題な不良品だと私が考えるのは、Wikipedia内の関連記事の記述を利用して加筆を行ったり、翻訳や執筆の際に利用する際に、これらの問題を孕んだ記事を参照してしまうと、誤りが複製される可能性が高いからです。逆に、例えば翻訳をする際などでは、正確な片仮名転記がなされているだけでも、概要のデータが存在しているだけでも役に立つこともあるように、たとえ小さな記事でも大量にストックされていることは、執筆・翻訳・加筆の際に記事の質を上げやすくすることにもつながります。不良品ではないブロックが大量にあれば、ブロックを組み合わせて一回り大きな形状、一段と精緻な形状を作りやすい状態にあることに似ています。

記事の数は、Wikipedia成長のための土台なのです。

つまり、宣伝や売名につながらないのであれば、その事項に関して記事が存在しないことが最悪。情報量の多い記事は貴重ですけれども、不良品ではない記事が多数存在することが、特に発展途上の段階にあるWikipediaにおいては重要なのです。そして、仮に充分に成熟した段階に入ったとしても、Wikipediaで検索をかければ調べたい項目が記事として存在することや、関連する項目への内部リンクが縦横無尽に走っているということが便利なことは想像に難くないでしょう。

どうそ、昔から存在している、今よりも記事が少なかった時代から存在し続けている幾つかの記事の今と昔とを、編集履歴を使って見比べてみてください。恐らく、記述の質も情報量も上がっていることが多いと思います。少なくとも、内部リンクは増えているので関連する事項についても調べやすくなっていると思います。Wikipediaは、今日明日、そして1ヶ月や1年先が締め切りではありません。誤記や、明らかな論理矛盾などが含まれている不良品の記事を正しく書き換えておけば、いずれ質も上がってゆくはずです。また、もう1点、良質な記事を増やすことは直接質を上げると同時に周辺関連記事の質も上がりやすくする効果もあるわけですけれども、周辺関連記事が多く存在している方が良質な記事を作りやすい側面があることも忘れてはならないことです。

どうぞ、記事を作成してみてください。その記事が不良品であったり、または、Wikipediaにそぐわない売名・宣伝・報告・告知に当たる記事でない限り、私はWikipediaの記事数が増えることを歓迎します。

宣伝・売名・報告・告知に関して

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ここまでの論旨から見ると、たとえ売名・宣伝・報告・告知に当たる記事であっても、残しておけばいずれ成長してゆくのではないか。売名・宣伝・報告・告知に当たる記事も、大切なブロックの1つになってくれるのではないか。このように考えて、ここまでの論旨に矛盾するように勘違いされるかもしれないので、ここで補足しておきます。

Wikipediaに売名や宣伝がそぐわない理由は、そもそもWikipediaが中立的な立場で記事を作ってゆくという方針を持っているからに他なりません。売名や宣伝というのは、偏った物の見方の典型例です。また、宣伝に至っては商業的なことの他に、プロパガンダ(思想の宣伝)に当たる可能性もあるという側面もあります。いづれにしても、意図的に偏らせた見解に当たる、宣伝や売名を排除しないことには、公正中立を目指すことなど不可能なことなのです。また、報告・告知についても、誰かが広く伝えたいと思っていることを書き込むわけですから、これも偏った物の見方の典型例であって、やはり排除しなければならないのです。換言するならば、売名・宣伝・報告・告知に当たる記事というのは、不良品の記事(ブロック)に当たるのです。本文にも不良品のブロック(記事)では困ると断りを入れてありますので、矛盾はしていないのです。