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利用者:Evans700/sandbox

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武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
新庄直忠 近江・伊勢国内 14,600 後に徳川家康に仕官。


 
寺崎 盛永
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正9年7月17日1581年8月16日
別名 民部左衛門尉
主君 上杉謙信織田信長
氏族 寺崎氏
喜六郎
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寺崎 盛永(てらさき もりなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏、のちに織田氏の家臣。越中国願海寺城主。

略歴

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寺崎氏は越中国婦負郡国人[1]天文21年(1552年)、盛永は井田城主の飯田利忠と天神林で戦い、天正2年(1574年)に能登畠山氏で紛争が起こった際には能登国二宮まで攻め込んだという[2]

その後、盛永は小島職鎮とともに上杉謙信の麾下に属し、元亀3年(1572年)6月18日には毛利秀広との連署で鰺坂長実日宮城の敗戦を報じている[2]

天正6年(1578年)、謙信が急死したのち織田氏の勢力が越中に及ぶと、盛永は上杉氏から離反して織田信長に与した。しかし天正9年(1581年)3月に上杉景勝が越中に侵攻した際、盛永は景勝と誼を通じたため、同年5月に信長が派遣した菅屋長頼によって願海寺城を落とされた(『上杉古文書』)[3]。『信長公記』によれば、6月11日、盛永は息子の喜六郎とともに佐和山城に護送され、7月17日には信長の命令によって切腹したという[3]。このとき、喜六郎は17歳の美少年で、その最期は見事であったと太田牛一は書き留めている。

なお、安部政吉が景勝側近の樋口与六(直江兼続)に5月6日付けで宛てた連署状によると、盛永は能登で切腹させられたとしているが、谷口克広はこれは誤聞であると推測している[3]

脚注

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  1. ^ 森岡浩『戦国大名家辞典』東京堂出版、2013年12月30日、483頁。ISBN 9784490108422 
  2. ^ a b 花ヶ前盛明『上杉謙信大事典』新人物往来社、1997年5月30日、145-146頁。 
  3. ^ a b c 谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』中央公論新社、2007年7月25日、142,145-148頁。ISBN 9784121019073 


 
氏家 行広
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年(1546年
死没 慶長20年5月8日1615年6月4日
別名 直通、荻野道喜
官位 従五位下内膳正
主君 織田信長信孝豊臣秀吉秀頼
氏族 氏家氏
父母 父:氏家直元(卜全)
兄弟 直昌行広行継
京極高吉娘・松雲院
男子4人、古奈、三沢清長[要出典]
京極高次養女
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氏家 行広(うじいえ ゆきひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名氏家氏14代当主。官位は従五位下内膳正

生涯

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氏家氏は宇都宮氏の庶流。元亀2年(1571年)、父・氏家直元(卜全)伊勢長島攻めで戦死した後、家督は兄・直昌が継ぎ、引き続き織田信長に仕えた。

本能寺の変後、氏家氏は織田信孝に属したが、信孝が羽柴秀吉と対立すると秀吉方へ味方し、以降は秀吉に仕える。この前後に兄が病死し、天正11年(1583年)に行広が家督を継ぎ、美濃国三塚1万5,000石に移封される。天正16年(1588年)、従五位下内膳正に叙任。その後、小田原征伐などで軍功を挙げ、天正18年(1590年)、伊勢国桑名2万2,000石に加増移封された。

秀吉死後、慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康軍に合流するため東向中であったが、道中で石田三成挙兵の報を聞くと家康に断りを入れた上で伊勢に帰還、豊臣秀頼が幼少であることを理由に家康方・三成方いずれにも呼応せず中立の立場を取った。しかし桑名に西軍勢力が及んできたため中立の立場を維持できず、やむなく弟の行継と共に西軍に与し、伊勢路を防衛した。このため関ヶ原の戦い後、家康の命で改易されて浪人となる。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用い大坂城に入城し豊臣氏に与して活躍した。家康は行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけたが応じなかったという。翌年の大坂夏の陣のとき、大坂城落城と共に自刃した。彼の4人の子のうち三男以外は京に逃れたが、京都所司代の配下に捕らえられ、同年7月、妙覚寺にて自刃に追いやられている。三男のみは天海の弟子となっており、助命された。

系譜

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出典

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参考文献

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