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利用者:Dassaim/北脇昇

北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本の前衛画家


来歴

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愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学[1][2]

1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る[2]。1927年、若森かねと結婚[2]。1930年4月、津田青楓の画塾に入る[2]。1932年、第19回二科展に《跨橋》、《Mart》が初入選[2]。同年9月、京都洋画協会の結成に参加[2]。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。1937年6月、京都青年芸術家クラブ結成に参加[2]。1938年4月、当時シュルレアリスム的作品を発表していた若手画家の浅原清隆糸園和三郎らの立ち上げた創紀美術協会結成に参加[2][3]。1939年5月、創紀美術協会結成が発展的解消し、同年4月5日に独立美術協会を脱退した福沢一郎を含む40名の前衛芸術家らの前衛グループが集まって結成された、シュルレアリスム運動で知られる美術文化協会に合流、41人の創立同人の一人となる[2][4][注釈 1]

シュルレアリスムと日本(東洋)文化(仏教曼荼羅等)、さらには、数学等の自然科学との融合の方向性を探り、その作品は、ヨーロッパのシュルレアリスムの真似にとどまらない、日本的な独自の境地に至っている。

北脇の作品としては、カラフルで幻想性の強い写実的な作品がほとんどであるが、ほぼ完全な抽象絵画も制作している。デカルコマニーコラージュも制作した。同時期の画家としては、小牧源太郎今井憲一と交流した。

1948年6月、肋膜炎を発病。1950年4月、肺結核を診断される[2]。1951年12月18日、死去。50歳没[2][5]

代表作

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「独活」

 

  • 裸婦(1933 年)
  • 独活(うど。1937年):うどを人間に見立てた作品[6]
  • 空港(1937年):楓の種子を飛行機に見立てた作品[7]
  • クォ・ヴァディス(1949年)[8]

「独活」と「空港」は、北脇の作品の中でも「見立て」タイプを代表する作品である。 「空港」は、村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000年2月)の表紙、裏表紙、扉絵に使用された。最初の新潮文庫版の表紙にも使用された。

「空港」

主な展覧会

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関連項目

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参考文献

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  • 北脇昇展. 東京国立近代美術館. (1997). NCID BA30247811 
  • 四人の作家:小川芋錢、梶田半古、佐分眞、北脇昇. 国立近代美術館. (1958). NCID BN05318647 
  • マニゴ・ヴァンサン (2011). “北脇昇:普遍性を捜し求めた画家”. 言語・地域文化研究 17: 272-282. ISSN 13419587. 

脚注

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  1. ^ 北脇昇:普遍性を捜し求めた画家(マニゴ・ヴァンサン)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 北脇昇展. 東京国立近代美術館. (1997). NCID BA30247811 
  3. ^ 創紀美術協会”. artscape. 20210518閲覧。
  4. ^ 『美術文化協会』小学館〈日本大百科全書〉。 
  5. ^ 北脇昇 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年5月18日閲覧。
  6. ^ 北脇昇:独活 (1937) - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
  7. ^ 北脇昇:空港 (1937) - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
  8. ^ クォ・ヴァディス 文化遺産オンライン
  9. ^ 1958年 | 東京国立近代美術館”. www.momat.go.jp. 2021年5月18日閲覧。
  10. ^ 青木画廊-AokiGallery-”. aokigallery.jp. 2021年5月18日閲覧。
  11. ^ 国公私立美術館連繋企画展 北脇昇展 理知と幻想のシュルレアリスト|京都国立近代美術館”. www.momak.go.jp. 2021年5月18日閲覧。
  12. ^ 理智と幻想のシュルレアリスト 北脇昇展”. 愛知県美術館. 2021年5月18日閲覧。
  13. ^ 北脇昇 一粒の種に宇宙を視る | 東京国立近代美術館”. www.momat.go.jp. 2021年5月18日閲覧。

注釈

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  1. ^ 「北脇昇展」の図録やartscapeの「美術文化協会」の項目ではでは「40人」との記述がされている。ここでは『日本大百科全書』の「美術文化協会」の項目の記述と、美術文化協会のWebページに掲載されている「美術文化協会のあゆみ」をもとに「41人」と記述。