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- p9-。ホセ・アルカディオ・ブエンディと妻ウルスラは友人たちとともに未開の地マコンドに移住してきた。勤勉で進取の気象に富むホセ・アルカディオ・ブエンディのおかげで村の生活は安定した。
マコンドを年1回訪れるジプシーの中にメルキアデスという男がいた。メルキアデスから錬金術を学んだホセ・アルカディオ・ブエンディは研究に没頭し、人が変わったようになる。 - p35-。もともと、ホセ・アルカディオ・ブエンディとウルスラはリオアチャに住む、いとこ同士だった。この家には近親相姦で産まれた子どもには豚のしっぽが生えるという言い伝えがあり、反対する親族を押し切って2人は結婚した。ある日、侮辱を受けたホセ・アルカディオ・ブエンディは相手の男を殺してしまう。それ以来、亡霊に悩まされるようになり、2人はリオアチャを出たのだった。
2人は3人の子をもうける。成長した兄のホセ・アルカディオは家に出入りする商売女のピラル・テルネラと関係を持った後、ジプシーの女について村から出奔する。 - ピラル・テルネラは男の子を産み、ホセ・アルカディオ・ブエンディに引取られる。
マコンドは発展し、職人や商人がやってきてにぎやかになる。ホセ・アルカディオ・ブエンディは町の発展に尽くし、人望を得る。
両親を亡くしたレベーカという少女がやってきて、家で引取ることになる。その頃、伝染症の不眠症という疫病に村人たちは冒される。
町長に任命されたと称するモコステがやってくる。反発していたホセ・アルカディオ・ブエンディだが、最後には受け入れ、モコステに住まいを提供する。
- ホセ・アルカディオ・ブエンディは木につながれて暮らす。
- その弟アウレリャノは金細工師となる。
- 妹アマランタ。
- ホセ・アルカディオの帰郷。レベーカとの結婚。
- 戦争が始まり、アウレリャノは反乱軍を率いて32回蜂起する。
- 戦争が終わり、再びアウレリャノは金細工をして過ごす。
- アウレリャノ・セグンドはフェルナンダと結婚する。
- マコンドにバナナ会社が作られる。
- 雨が5年降り続く。雨がやむと10年の干ばつとなる。
- レナータはマウリシオと結婚の約束をするが、マウリシオは泥棒と間違われて背中を撃たれ、寝たきりになる。レナートは秘かに子を産み、アウレリャノと名付けられる。
- アウレリャノは部屋に引きこもり、メルキアデスが遺した古文書の解読を続ける。
- アウレリャノは(叔母の)アマランカ・ウルスラと激しく愛し合い、子どもが産まれる。その子には豚の尻尾が生えている。
邸
[編集]
- 「『阿部定事件』から82年 純愛ではない?最新心理鑑定で見えてきた真相とは」ABEMA PRIME(ABEMA TIMES、2018年5月21日[3])、心理学者らが事件は「純愛」ゆえではなく、独占欲、境界性パーソナリティ障害、自己愛によるもの等と分析した。
- 32年テーゼ
- 野呂栄太郎たちは「32年テーゼ」を裏づける形で『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)を発表し(刊行計画の具体化はテーゼの発表前であった)、いわゆる「講座派」を形成した。講座派は知識人に一定の影響を与えた。また、社会ファシズム論は、労働運動などでの共産党員の態度などにも現れることとなった。なお、これに反対したのが労農派であって、両派は大論争を行ったが、いずれも共産主義弾圧を受けて壊滅し、論争は深まらなかった。
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大智門駅(漢口駅)1900-1903、現存 (現在の漢口駅舎はデザインを模したもの)
未だ
[編集][編集]
- レールモントフ『現代の英雄』、『U.S.A. (小説)』、『オトラント城奇譚』
- 義疏(ぎそ)
受容(じゅよう)とは、受け入れること。
- 文化史における受容==
- 外国の文化を受け入れること。
- ある文学作品が
- 心理学における受容==
- 相手の存在を評価したり、否定したりせずに、そのまま受け止めること。カウンセリングの基本的な態度である。詳しくはアクセプタンスの項目を参照。
価格革命(かかくかくめい、price revolution)とは、大航海時代の16世紀半ばから17世紀初めにかけてヨーロッパ諸国で大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象をさす。封建領主の没落と商工業の発達を促した点に歴史的な意義がある。
概要
[編集]16世紀、長期間にわたって穀物をはじめとする物価が上昇した。マドリッドでは16世紀から1世紀半の間に物価が約13倍[1]、フランスの穀物価格は16世紀の間に7倍以上[2]になったと言われる。
「新大陸」(メキシコ、ペルー、ボリビアなど)から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、かつては緩やかな結びつきであったヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことが主な原因と考えられている。なお、川北稔は、価格革命の要因を16世紀西欧における人口急増に求めている[3]。
価格革命により、16世紀の西ヨーロッパでは資本家的な企業経営にとってきわめて有利な状況がうまれて、好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされた。反面、固定した地代収入に依存し、何世代にもおよぶ長期契約で土地を貸し出す伝統を有していた諸侯・騎士などの封建領主層にはまったく不利な状況となって、領主のいっそうの没落を加速した。それに対し、東ヨーロッパでは、西ヨーロッパで拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され農場領主制と呼ばれる経営形態が進展した。また、それまでの銀の主産地だった南ドイツの銀山を独占していた大富豪フッガー家や北イタリアの大商業資本の没落をもたらした。
学問への影響としては、当時、スペインのサラマンカ大学を中心に活動していた16世紀サラマンカ学派の神学者アスピルクエタやセリョリゴは、新大陸からの金銀流入と物価上昇を結びつけて捉え、今日でいう「貨幣数量説」に到達したことから、近代的経済学の先駆をなしたといわれる。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004476242/ 16世紀「価格革命」論の検証 平山 健二郎
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thumb|180px|出雲の阿国像(京都市東山区) 出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており[4]、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる[5]。
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い[6]。 お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない[7]。
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる[8]。
経歴
[編集]「歌舞伎の創始者」として伝説化された人物であり、生没年不詳、確実な経歴はほとんどわからない。
文献上確実な史料は『時慶卿記』の慶長5年7月1日(1600年8月9日)の条に、京都近衛殿の屋敷で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ跳」を夜まで演じていたとある。この頃には「ややこ踊り」として貴族の邸宅に出入りする一座であったことがわかる。
次いで、『当代記』の慶長8年(1603年)4月頃、「出雲国神子女(みこ)」の国(くに)が男装で刀脇差を持ち、茶屋の女と戯れるという「かぶき踊」が評判になったという記事がある。『当代記』は後年の編纂物だが、当時の日記『慶長日件録』(同年5月6日条)に新上東門院(後陽成天皇の母)の御所で「出雲国人」が「かぶき踊」を演じたとあるのに符合し、信頼できる史料と言える。『当代記』は当時の「かぶき踊」の様相を具体的に伝える唯一の確実な史料である。
出雲での伝承
[編集]出雲大社の千家に伝わる『出雲阿国伝』によれば、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている[9]。 その後、出雲に戻って尼となり、連歌、法華経三昧の生活を送り、87歳で没したという。出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
しかし『出雲阿国伝』は明治時代になってから多くの俗書を元にまとめられたものとして、研究者の多くは内容に疑問を持っている。
出自に関する諸説
[編集]- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
- 『当代記』の慶長8年(1603年)4月の条
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 江戸幕府が阿国歌舞伎を快く思っていないということが既に察知されているという事が分かる。
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 『時慶卿記』より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある。
- 『多聞院日記』の天正10年5月(1582年6月)の条に、「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。
- 『多聞院日記』の天正10年5月(1582年6月)の条に、「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。
- 「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」
- 上記を、8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、逆算して国を1572年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀の国出身の8歳・11歳の娘という解釈もあり得る。
- 「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」
- 『時慶卿記』の慶長5年7月1日(1600年8月9日)の条に、京都近衛殿の屋敷で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を夜まで演じていたという確実な歴史資料がある。
- 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
- 上記により、「クニ」と名乗っていた評判の踊り子がおり近衛という代表的貴族からも破格の好待遇を受けていた一座がいたことがわかる。
- 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
- 『当代記』の慶長8年(1603年)4月の条
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 江戸幕府が阿国歌舞伎を快く思っていないということが既に察知されているという事が分かる。
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 『時慶卿記』より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある。
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている[8]。
『当代記』[10]によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。 当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った[11]。
慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている[8]。この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したと考えられている[8]。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている[8]。
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった[11]。一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった[11]。 このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる[8]。
出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている[9]。
出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている[9]。
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある[12]。
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。
また、京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されている。なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。
阿国の与えた影響
[編集]お国一座は京都での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業したが、 かぶき踊は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった[7]。 遊女歌舞伎は男装した遊女と遊女の猥雑な掛け合いに、お国一座にはなかった三味線による囃子が付いたもので、お客にとっては遊女の品定めの場であった[11]。
寛永6年(1629年)[13]、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社で既に徹底されていた女人禁制との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた男尊女卑(女性差別)の傾向から、女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされる[7]。
資料
[編集]「クニ(国)」なる踊り子に関する史料には次のようなものがある。
- 『多聞院日記』の天正10年5月(1582年6月)の条に、「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。
- 「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」
- 上記を、8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、逆算して国を1572年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀の国出身の8歳・11歳の娘という解釈もあり得る。
- 「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」
- 『時慶卿記』の慶長5年7月1日(1600年8月9日)の条に、京都近衛殿の屋敷で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を夜まで演じていたという確実な歴史資料がある。
- 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
- 上記により、「クニ」と名乗っていた評判の踊り子がおり近衛という代表的貴族からも破格の好待遇を受けていた一座がいたことがわかる。
- 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
- 『当代記』の慶長8年(1603年)4月の条
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 江戸幕府が阿国歌舞伎を快く思っていないということが既に察知されているという事が分かる。
- 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給」
- 『時慶卿記』より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある。
演じた人物
[編集]その他
[編集]- 当代記[6]大日本史料第12編之1
脚注
[編集]- ^ 『日本大百科全書』4(小学館、1985年)、p818。
- ^ ノーマン・デイヴィス、別宮貞徳訳『ヨーロッパ II 中世』(共同通信社、2000年)、p388。
- ^ 川北「近世社会の成立」『イギリス近代史』(1986)11-12頁
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、109頁。
- ^ 但し、この従来説に対し、服部幸雄は、その著書『歌舞伎成立の研究』風間書房(1968)において、阿国かぶきは中世以来の女性芸能の一つに過ぎず、歌舞伎の成立は若衆歌舞伎からだとしている
- ^ 「名古屋山三郎との熱烈な関係」については「伝説的な部分が多いとみておくべきだろう」と疑念を呈する者もいる(小和田哲男 『日本の歴史がわかる101人の話』 三笠書房 2008年、291頁
- ^ a b c 国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 978-4-473-03530-1、206頁-211頁
- ^ a b c d e f 国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 978-4-473-03530-1、198頁-205頁
- ^ a b c 出雲阿国顕彰会『出雲大社と阿国さんのまちから』山陰中央新報社、2003年、ISBN 4-87903-091-0、13頁
- ^ 『当代記』慶長8年4月。上記資料参照。
- ^ a b c d 長島淳子『江戸の異性装者たち:セクシュアルマイノリティの理解のために』勉誠出版 2017 ISBN 9784585221982 pp.69-73.
- ^ 小笠原恭子『出雲のおくに』 中公新書 1984年、158頁-160頁
- ^ 歌舞伎、狂言などの舞台に女性芸能人が立つことをお触れで一斉に禁止したのではなく十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと主張している者もいる(国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 978-4-473-03530-1、206頁-211頁)
- ^ [1]