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利用者:Ami du Peuple/ヴェルサイユ行進

『ヴェルサイユ行進』の色彩版画。オリジナルはカルナヴァレ博物館収蔵

ヴェルサイユ行進(ヴェルサイユこうしん, : La Marche des Femmes sur Versailles, : The Women's March on Versailles)は、フランス革命1789年10月5日、王妃マリー・アントワネットが三色帽章を冒涜したという噂[1]を発端に、様々な階層の女性たちからなる集団が、国民衛兵を引き連れてヴェルサイユ宮殿まで行進し、パンなどを要求して一晩居すわった挙げ句、翌日未明、宮殿内に侵入して、ルイ16世ら国王一家をパリに半ば強制的に連行した2日間にわたる事件である。十月事件[2]: Journées des 5 et 6 octobre 1789)または十月行進: The October March)などとも言う。

以後、国王と立憲議会は革命の中心であったパリに場所を移し、テュイルリー宮殿で民衆の厳しい監視下に置かれることになった。これにより王党派は力を失い、立憲君主主義者が台頭したが、同時に急進的な考えを持つ者も現れるようになった。事件は民衆の自発的行動ではなく、特定の政治目的を持った扇動者による陰謀であったという説が当時から複数ある。

背景

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ヴェルサイユ行進が起こった背景には、少なくとも2つの異なる動機があり、1つの発端となった出来事があった。ブルジョワジー(政治家を含む)と民衆(細民)は、国王をヴェルサイユからパリに連れ去るという同じ目的のために行動したが、両者の利害や関心が一致していたわけではなかった。政治解決が頓挫しかかったときに民衆の暴挙がそれを救ったという構図は、バスティーユ襲撃の時と全く同じであり、この事件は7月14日の事件の延長線上にあって、国王の首都帰還によって革命権力の二重構造を解消して、パリ革命を完成させた[3]と考えることができる。

政治問題

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ジャン=バプティスト・ラメマン作の『バスティーユ襲撃』

バスティーユ襲撃事件が起こると、軍事顧問のプロイ元帥[4]は反乱を起こした忠誠心のないパリを離れて地方に退避する防御策を進言したが、当時、軍隊と地方に移動するだけの資金と食糧がなく、実行できなかった[5]。また直近のオルレアン公爵の反抗的行動[6]から彼が黒幕であるという根拠のない憶測も信じられていて、ヴェルサイユを留守にすれば議会がオルレアン公爵を新国王と宣言しまいかと恐れてもいた[7]。そこでルイ16世はむしろ議会に屈服することにして、その支持をつなぎ止める方が得策だと考えるようになった。

翌日、ルイ16世はヴェルサイユの別の棟にあった議場[8]へ来て、自分には革命に対して悪意が無いことを告げ、パリから軍隊を引き上げる旨[9]の約束をした。さらに17日にはパリを直接訪れて、第三身分代表を選出した407名の選挙人が集まってできた常任委員会[10]が独自に決定した三色旗国民衛兵とその司令官にラファイエットを任命したことなどを事後承認した。これは露骨な革命への媚びであったが、そのとき国王は市庁舎オテル・ド・ヴィルで出迎えた市民の大きな歓声に感動して「民衆はいつでも余の愛に期待をかけることができる」と応えることすらした[11]。この弱腰に怒った強硬派は、アルトワ伯爵を筆頭として次々と国外への亡命を始めるのであるが、政治力学は新しい姿をすでに示していた。ルイ16世は王位を保つために新しい主権者はフランス人民であると認めざる得なかったのであり、民衆の力が首都に権力を打ち立てたのである。パリのブルジョワジーの勝利は確実なものとなった。その衝撃は全国の地方都市にも波及し、次々とパリをまねて三色旗を掲げ、自治組織と民兵とが立ち上げられた。

ところが地方農村では別の反応があった。予てよりの要求が認められなかった不満から、公権力衰退の隙を突き、領主館を襲って封建的諸権利を記した証書や土地台帳を焼き払うなどして抗議する、大恐怖グランド・プールと呼ばれる大規模な農民反乱が広がったのである。立憲議会の自由主義貴族とブルジョワジー[12]は震え上がって、まず所有権の侵害であるこれらの暴力的な抗議行動を鎮圧することを考えた。しかし軍隊を発動する権限は国王にしかなかったのと、その動員された軍隊が革命を弾圧するのにも使われる危険性を考慮し、議会は武力鎮圧を断念して、代わりに8月4日封建的特権の廃止を宣言することで、譲歩する寛大さを示すことにした。これが11日に封建制廃止令としてまとめられると、内容は大いに農民を失望させるものであったものの、旧体制封建制を破壊するには十分であり、以後は納税免除[13]も廃止され、フランス人は同じ権利とを義務を持つことになった[14]

こうして旧弊を廃した後で、議会は再建の一歩として人権宣言の起草について討議を始めた。これは議員ムーニエ[15]が予てから必要性を主張していたもので、8月26日に採択された。宣言は王制とアンシャン・レジームの社会を暗黙のうちに非難した内容で、ブルジョワジーの立場から基礎原則を打ち立てて民主主義を定義し、制定作業中の憲法の前提とされるべきものであった。

パレ・ロワイヤルの風景

ところが、2つの歴史的宣言の熱狂でパリが浮かれている間に、ヴェルサイユでは情勢が一変した。ルイ16世は表面上は革命に屈服していたが、本心ではなかった。国王は貴族と聖職者の権利を奪うことはできないという理由で、議会が採択した決議を裁可するのを拒んだのである。この態度の変化は、財務長官ネッケルと法務大臣シャンピオン・ド・シセ[16]の助言によるもので、すぐに憲法論議にも波及する。憲法委員会でムーニエとラリー=トランダル[17]は、イギリスの議会制度に倣って世襲制の上院(貴族院)の設置を主張し、治安維持に必要な執行権を国王に与えるべきとも言って、議会に対しては絶対的拒否権を国王に認めるように要求した。これはバスティーユ襲撃での民衆の暴力に恐れをなした革命派の一部が保守に転じ、革命の進行を阻止しようと動き出した結果であった[18]

この宮廷と貴族政治家の反撃に、アベ・シェイエス[19]は革命を蔑ろにするものとして厳しく反論し、三頭派[20]も即座に反対の論陣をはり、バルナーヴを中心として愛国者派と称する一派が議会で形成され始めた。議会の外では、ミラボーが世論を喚起してパリの各区に檄を発したので、パレ・ロワイヤルには再びいきり立つ民衆で溢れた。オルレアン派や、マラーダントン(コルドリエ派)らは、国王をヴェルサイユにおける陰謀から引き離すためにパリへつれてこなければならないというスローガン[21]を様々な出版物に書いて広めた。デュポール[22]は拒否権に反対する人民運動を開始した。カミーユ・デムーランはバルナーヴに相談することなし、8月30日31日、群衆を扇動して議会決議の即時批准を要求させ、議会と国王をパリに連れてくるべくパレ・ロワイヤルから出発しようとしたが、国民衛兵によって力ずくで阻止された。

革命派の分裂に、ラファイエットは両派を自邸と友人のアメリカ大使ジェファーソンの邸にそれぞれ呼んで仲裁の協議を試みたが、火に油を注ぐ結果となった。バルナーヴはムーニエと絶交し、妥協案を示したラファイエットも三頭派、特にラメット兄弟が自分の地位を狙っているのではとの不信感を抱き、パリの騒擾はオルレアン派が裏で糸を引いているとの誤った印象を持つようになった。

9月10日、議会では圧倒的多数で二院制の設置を否決した。しかし翌日、拒否権についての評決では、停止的拒否権(臨時拒否権)を国王に与えるという事前に提示されていた妥協案に、バルナーヴとミラボーがそれぞれ別の理由[23]で賛成に回って、これにはロベスピエールビュゾーらが猛反対したが、結局、可決された。しかしネッケルの説得にもかかわず、その後も国王は8月4日の決議や人権宣言などの批准を拒み続けた。

9月18日、国王は議会に意見書を提出し、狩猟権、鳩小屋設置権、教会臨時税等の無償廃止には同意したが、貢租やその他の領主権については「尊厳を傷つけぬ程度の補償」を求め、10分の1税の廃止には反対して、条文の修正を希望した。これに対してミラボーは、封建制度は国制に関わる問題であって拒否権の対象ではないとし、議決は一般意志によるもので、国王の裁可は必要ないと突っぱねた。ル・シャプリエ[24]もまた、議決が憲法に等しいものであるとして、議会が国王に求めたことは発布の承認だけであり、内容に意見する権限はないと、同様に停止的拒否権の対象外という主張を展開した。しかしムーニエは特権廃除には補償処置が必要と力説し、国王が憲法に拒否権を行使できないとしても、国王と議会は協力して憲法を構築せねばらならず、条文に対しての所感陳述権を保持すると言って譲らなかった。こうして政局は手詰まりとなったまま、国王のヴェルサイユ脱出という杞憂だけが差し迫った問題のように人々を苛立たせた。

社会問題

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パリの民衆にとって最大の関心事は食糧問題、特にパンの価格であった。4ポンドのパンの平常時の価格は8スーから9スー[25]というのが相場であったが、革命勃発前の4月と5月に高騰を始めて、7月と10月に最高潮に達した。その時期には何れも大きな騒動が起きており、これこそがバスティーユ襲撃とヴェルサイユ行進という2つの事件において発揮された民衆のエネルギーの怒りの根源であった。

バスティーユ襲撃の1週間後の7月22日に、4ポンドのパンの価格は14.5スーから13.5スーに引き下げられたが、民衆の怒りは収まらず、市当局(自治委員会[26])への抗議集会から、殺人事件[27]にまで発展した。8月8日、市庁舎での大規模な示威行為を受けて、当局は自主的に食糧委員会を立ち上げ、4ポンドのパンの値段をさらに12スーまで引き下げる布告を行った。これで一旦は小康状態を保ち得たが、この処置はパリ市の独断であり、ヴェルサイユの立憲議会は商業の自由を重視する反対の立場であったので、8月29日、穀物取引の自由を宣言して、統制を禁止した。

フランス革命に参加した女性たち「トリコトゥーズ[28]」の肖像

1789年の収穫は、前年・前々年ほど悪くはなく不作ではなかった。当時、食糧不足は「飢饉なしの飢え」と呼ばれた[29]が、それは穀物の買い占めが横行し、ネッケルまでもが国庫破産に瀕した財政を救うために穀物に対する投機を公金で行っているという噂が、まことしやかに囁かれていたからである。食糧不足の原因は陰謀であるという考えは、民衆の中に根強く支持されていた。よって彼らの多くはヴェルサイユに行きさえすれば豊富な食糧が手に入ると誤解していた。

しかし実際には穀物価格の上昇以外にも流通に問題があった。8月21日、長い日照りで水車小屋が麦打ちを終えられず、穀物を十分に挽くことができなかったために小麦粉の供給が不足した[30]。価格が安定しても肝心のパンが足らなくなり、パン屋の店先には長い行列ができた。強制的に安値でパンを売らなくてはならないパン屋が売り惜しみをしていると勘ぐって、パン屋を逆恨みする市民が後を絶たなかった。暴動を避けるためにパン屋に国民衛兵が配置されたが、秩序はあまり回復しなかった。日雇労働者達は長い行列で待つと働けなくなるので、パンを手に入れるために女たちを押し退け、暴力すら振るって列の先頭に割り込んだ。またあるパン屋が質の良いパンを富裕者に18スーで売り、質の悪いパンをその他の人々に売ったというので、群衆はそのパン屋を捕まえて絞首刑にしようとして、9月13日に暴動が起きた。

パンの問題は、食卓を預かる女性たちの問題であり、女性の政治活動への参加も目立っていった。9月14日には怒った女性の集団が穀物を運ぶ荷車を止めて市庁舎に運び、別の日にも荷車を強奪して地区本部に運ぶ姿が目撃された。彼女たちは当局に対してパン屋の悪い振る舞いについて延々と苦情を申し立て、業を煮やして、自分たちで何とかしようという考えを持つ者も現れるようになった。ただしこの時点ではどの人民結社[31]も女性の正式入会を認めてはいなかった。

他方、不況と失業も深刻であった。もともとフランスは1786年の英仏通商条約[32]以後の不況による失業問題を抱えてたが、フランス革命によって貴族の亡命が相次いだことで、パリの奢侈業は衰退し、奉公人は就業先を失った。雇用を求めるデモや、賃金の引き下げや労働条件に関する争議が多くなり、それを鎮圧する当局への不満も高まっていった。治安の妨げになるという理由で、慈善作業場のいくつかも閉鎖されたので、故郷に帰るあてもない多数の失業者が町に溢れた。

パリの民衆の不満は、行き着くところ、8月4日の宣言[33]にもかかわらず、政治が依然として上級貴族に独占されていた現実にあった。国王の周りには亡命した宮廷貴族に代わって自由主義貴族が集って大臣職を占めた。議会では、ネッケル派とムーニエ派の連合である王制擁護派が最右翼で、それよりも少し自由主義的な中道はラファイエット派に集い、それより少し左派は愛国者派とも言うが、ミラボーを中心とするグループ[34]とバルナーヴとラメットの三頭派で、これらすべての党派に属する人々はの意見の違いこそあれ、ほとんどが貴族か聖職者の出身で、上流ブルジョワジーの利益を代表していただけであったから、彼らに民衆の貧窮が分かるはずもなかった。彼らが気にしていたことは失業者が再び騒動を起こす危険性であり、自由主義経済の信奉者として社会政策への関心は僅かで、その必要もまだ十分に認識されていなかった。

議会の最左翼にはビュゾーやロベスピエールと言った市民の立場を代弁するごく少数の議員もいたが、パリの問題に無関心であるヴェルサイユの国王と議会に対する怒りは次第に高まった。飢餓政策[35]という古くからある陰謀論も再び頭をもたげ、議員が何もしないならば民衆が再び行動を起こすべきであるという考えが広がっていった。

発端

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ヴェルサイユ宮殿で王妃の象徴である黒章を称える近衛兵(1789年10月1日)

8月末に蜂起が起こりかけた後、ムーニエは立憲議会での主導権を失ったので、宮廷を代表する右派(王党派)のモーリ枢機卿[36]やカザレス[37]と妥協し、32人指導委員会を結成して議会右派(王制護持派)の陣営を固めたが、騒動を予見して、国王にソワッソンコンピエーニュに移ることを提案した。同様に時期は不明であるが、王妃マリー・アントワネットブイエ侯爵の指揮下にあったメス市への移動を勧めていた[38]とされる。しかしこのような再三の提案にも、ルイ16世は国王たるものが逃げるのは恥と考えて拒否した。ルイ16世が、唯一、王党派に行動を許したのは、フランドル連隊[39]を含む数個の部隊を警備のためにヴェルサイユへ呼び寄せるという9月14日の命令だけであった。

同じ日、議会は何とか8月4日の決議の批准を求めて、国王に裁可を催促する決議を出し、翌9月15日、王位の神聖不可侵と世襲制を決める決議を出して、国王を懐柔しようと試みたが、ルイ16世は前述の意見書を提出しただけでまたもや曖昧な態度しか示さなかった。そうしているうちに、国王が軍隊を呼び寄せたという噂がパリを駆けめぐった。愛国者派は騒然となり、内務大臣サンプリースト[40]を通じて軍隊の送還を再三求めたが、9月23日にフランドル連隊はヴェルサイユに到着する。

ラファイエットは、挑発行為と受け取られかねないこのような行動が自分の相談なしに決められたことに驚き、憮然とした。彼はバイイと共に民衆の蜂起を何とか鎮めようと努力していたが、国王と民衆との板挟みにあってすでに進退窮まっていた。外務大臣モンモラン[41]は彼の機嫌を取り持とうと、中将への昇進と元帥の称号を提示したが、ラファイエットはこれを拒否し、暴動が起こった場合は国王はパリに来れば国民衛兵が守るから安全であろうと、投げ遣りに言い放った。彼にしてみれば、この期に及んで、どちらの肩を持つわけにはいかなかったのである。

9月28日、ムーニエが右派の票によって新しく立憲議会議長に選出された。これによって王制擁護派と王党派の連合が、議会を制したような錯覚が、ヴェルサイユに満ちた。マリー・アントワネットは、王党派の貴族たちから偉大なるマリア・テレジアの娘が民衆ごときに屈するべきではないなどと煽てられ、内戦を意識したかのような強硬発言が目立つようになった。

10月1日と2日、オペラ広間でフランドル連隊の歓迎会が連夜行われた。国王夫妻と王太子が臨席する中で、グレトリーの歌劇「獅子王リチャード」が上演されて「王よ、全世界があなたを見捨てた」[42]という意味の歌が演奏されると、興奮した近衛兵(士官)は(革命と国民を表す)三色帽章を踏みにじり、国王の白章か、王妃の黒章を掲げて、慣例となっている国民の健康への乾杯を行わずに、国王と王族のために乾杯があげられた。近衛兵は議会を呪い、抜剣して国王のために死ぬと誓い合った。

翌日、この話はパリにも伝わって民衆の動揺を引き起こすとともに、特にパレ・ロワイヤルの一派を激昂させた。新聞など沢山の出版物が一斉に取り上げ、扇動を始めた。4万の貴族が全国から来て、国王を奪取するというデマまで流れた[42]。マラーは地区に武装を呼びかけて「市役所の大砲をひきずりだしてヴェルサイユへ行進せよ」[43]と勧めた。ダントンは最後通牒を持ってヴェルサイユへ進軍するようにラファイエットに勧める決議をコルドリエ地区集会で通して、自治委員会[26]にも促した。こうして苦心して回避され、8月末に1回は頓挫した計画が、軽率な事件によってにわかに現実味を帯びることになった。国王を首都に取り戻してパリの"臣民"の中に住まわせることが、貴族達の手から政治を取り戻す解決策であるということになった。

展開

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武装した女性達の集団がヴェルサイユに向けて行進を開始した

1789年10月5日、この日のパリはいつになく早朝から騒然としていた。蜂起は同時多発的にいたるところで起こったが、特に中央市場とサン=タントワーヌ城外区[44]の二箇所で大きな集団になった。その中心となったのは女性であり、市場の魚売り女や露天商、洗濯女、婦人労働者、売春婦、粋な帽子を被ったブルジョワ女まで、あらゆる社会階級の女性たちがこぞって参加した。中央市場では、若い少女が太鼓をならしながらパンの欠乏を非難して行進を開始したとされ、非常に多数の女性たちがこれに合流して、その数は急激に増加した。サン=タントワーヌ城外区では、女性たちがサント・マルグリット教会[45]の鐘つき人に無理を言って警鐘をならさせ、市民に戦闘態勢を取らせた。驚いた地区の国民衛兵隊もこの異常に気づいて、次々と警鐘を鳴らして呼応し、指揮官達は市庁舎に駆けつけた。

7時と8時の間に、サン=タントワーヌ門でパンを要求して集まった女性の群れは40〜50名に達したが、女達は方々から市庁舎を目指した。彼女らの目当ては、第一にはパンを要求することであり、第二にはそれを要求するための武器(マスケット銃と大砲)と弾薬を手にするためであった。女性の集団は道すがら通りすがりの人々を行進に参加するように強要し、遭遇した国民衛兵は武装解除して奪った武器は後続の夫たちの集団に渡された。9時半頃、市庁舎に達すると、無理矢理押し入って、事務室に乱入。2時間ほど居すわって散々文句を言って騒いだ後、11時にグレーヴ広場に退去した。


同じ頃、スタニスラス・マイヤール[46]は、バスティーユ義勇兵[47]の一隊を率いて、作業場から追い出されたバスティーユ解体の労働者の騒ぎを静めた。


人々は



パリの広場に集まった約7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始。ラファイエットの率いる2万の市民軍が後を追った。彼らはバスティーユ牢獄襲撃事件の功労者マイヤールを先頭に、降りしきる雨の中、約20kmの道のりを6時間かけて行進してヴェルサイユ宮殿に到着した。彼らは各々武器を取り、大砲まで持ち出して行進したといわれる。

狩りを好んで行った国王はこの日も狩りに出ており、民衆は更に4時間近くの待機を強いられた。狩りから戻った国王は宮殿に集った大勢の民衆に恐れをなし、パンの配給を表明した。これにより民衆の興奮は幾分治まったが、翌6日未明、武装した市民の一部が宮殿に乱入し、これを阻止しようとしたスイス傭兵の近衛兵数名を殺害した。これを見た民衆は暴徒と化し、宮殿に雪崩れ込んで略奪を行うと共に、国王を拘束した。民衆は国王に対しパリへの帰還を迫り、その日の午後に国王一家をパリに連行した。


結果

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武装女性
Map of Versailles in 1789
Lafayette at the balcony with Marie Antoinette
The women hailed by onlookers on their way to Versailles (illustration c. 1842)

が、この問題について、民衆も政治家も解決策を持っていなかった。パンの価格はともかくとして、流通自由主義経済に任せられていたから、パリのような大都市への供給では些細なことも大きな問題になり得た。そもそもこれは昨日今日に始まった話ではなく、少なくとも百年以上も都市を悩ませてきた問題であった。


より断固たる行動を起こす準備ができていた。



価格の変動は、。


8月初旬には小麦の欠乏から騰貴が起こり、

革命が勃発したからと言っても、パンの価格を安定させるような政策がとられたわけではなく、から、政治の無策に対する民衆の怒りは募るばかりであった。

さらにこの頃、失業の問題も表面化していた。フランスは不況下にあり、発生した大量の失業者がパリ近郊の慈善作業場で公共事業に従事していたが、これらが治安の妨げになるというので、いくつかが閉鎖された。


事件以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に監視される日々を送ることとなる。国王と共に議会の機能もパリに移動した。

積極的に行動したのは民衆、なかでも女性市民であったという点がこの事件を特異なものにしているが、

立憲君主制主義者の台頭

「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を国王が承認したことから、政局の混乱は一応沈静化した。しかし国王一家のウィーンへの逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)を経て、民衆は王家に対する不信を次第に募らせた。

陰謀説

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なお、王位簒奪を狙うオルレアン公ルイ・フィリップが、この事件を煽動したともいわれる。

脚注

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  1. ^ 4日前の1789年10月1日の出来事である。(内容は上記
  2. ^ または10月6日事件
  3. ^ リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, p.87
  4. ^ Victor François de Broglie, Duke of Broglie
  5. ^ 小林 1969, p.256
  6. ^ 1789年6月25日、オルレアン公爵は国王の命令を無視して47名の第二身分議員(貴族議員)を率いて第三身分議会に合流した。このあからさまな挑戦に対してルイ16世が決断した対抗策が軍隊の招集であった
  7. ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, 上 p. 103
  8. ^ 場所は、娯楽室(salle des menus plaisirs)もしくはムニュ・プレズィール館(Hôtel des Menus Plaisirs)という。上記地図の7番
  9. ^ 1789年7月11日のジャック・ネッケル罷免と軍隊へのパリ集結命令が発せられたことが、バスティーユ襲撃事件の直接の引き金となったので、この日、ルイ16世は両方の命令を取り消す必要があった
  10. ^ Comité permanent」のこと。公権力に逆らって、自主的にパリの自治政府となった。パリ・コミューンの前身
  11. ^ ソブール, 小場瀬卓三 & 1953年, pp.102-103
  12. ^ 彼らは一方では地主か、土地管理人であり、大恐怖によって大きな経済的損失を直接受けた
  13. ^ 一般に免税者は貴族や聖職者といった特権身分だけだと誤解されることがあるが、ブルジョワの一部も特別免税権を持っており、特定の都市についても中世以来、免税特権を持つものがあった。これら一切が廃止された
  14. ^ 身分制度の公式な廃止は人権宣言による。また貴族の称号が廃止されるのは1790年6月19日立法議会の宣言による
  15. ^ ジャン=ジョゼフ・ムーニエ。開明派貴族の立憲議員。フランス革命初期の代表的なリーダーで、球戯場の誓いや人権宣言の草案作成、憲法委員会の中心人物。自由主義信奉者であるが、立憲派のなかでも王党派寄りの立場であった。(Jean-Joseph Mounier
  16. ^ ジェローム=マリ・シャンピオン・ド・シセ。ボルドー司教。ラファイエット派の政治家。(Jérôme Champion de Cicé
  17. ^ トロフィル=ジェラール・ド・ラリー・トランダル。ラリー伯爵およびトランダル男爵。インド総督の息子。王党派の法律家で、かつラファイエットの個人的な友人であったが、ヴェルサイユ行進の後に亡命した。総裁政府で帰国。(Gérard de Lally-Tollendal
  18. ^ この頃、革命派は同じく立憲君主主義者であったが、拒否権問題で、左派の愛国者派と、右派の英国心酔派アングロマーヌとに分裂した。後者の代表がムーニエで、(英国心酔派というのはやや蔑称であるため)王制護持派とも言う。(ソブール, 小場瀬卓三 & 1953年, pp.113-115
  19. ^ 当時は「中央グループ」と呼ばれた中間派に属した
  20. ^ バルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟ら
  21. ^ リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, p.99
  22. ^ アドリアン・デュポール。高等法院の参事官、立法議会議員、三頭派。8月10日事件の後に亡命。(Adrien Duport
  23. ^ バルナーヴはネッケルが国王を説得して決議を批准をさせると言った約束を信じたこと。ミラボーについては国王の利益を守ることで、将来、彼の念願である大臣に任命されたいと考えていた
  24. ^ Isaac René Guy le Chapelier
  25. ^ リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, pp.30 - 35
  26. ^ a b 選挙人団による常任委員会の後継組織で、パリ・コミューンの前身
  27. ^ 「賤民どもに1リーブル2スーでもパンを分けてやる必要ない」との暴言を吐いたシャテル少佐を群衆が追い詰めて殺したもので、21人が逮捕された
  28. ^ 議会の二階席で編み物をしながら熱心に傍聴したことから、「編み物をする女」の意味の「トリコトゥーズ」が革命的女性市民の呼称となった。(Tricoteuse
  29. ^ 小林 1969, p.261
  30. ^ リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, pp. 96 - 97
  31. ^ 女性団体もこの時点では1つも存在しなかった。パリで初めての女性政治団体はエッタ・パルムの「真実の友同盟」で1791年3月23日の結成
  32. ^ Traité Eden-Rayneval
  33. ^ 身分や家柄にかかわらず、聖職、文武の官職に登用されると明記してあった
  34. ^ オルレアン派も含まれる。似たような主張であったが、三頭派とは対立関係にあった
  35. ^ パンの価格が政治に与える影響が大きかったので、フランスでは昔から政敵を追い落とす方法として、穀物を意図的に買占めて価格を釣り上げ、市民の生活と苦しめて騒乱を起こし、治世者を失脚させることがあると信じられていた。貴族の陰謀説の一種
  36. ^ Jean-Sifrein Maury
  37. ^ Jacques Antoine Marie de Cazalès
  38. ^ ミシュレ, 桑原武夫 & 1979年, p.117
  39. ^ 近衛歩兵連隊の1つ。(Régiment de Flandres
  40. ^ François-Emmanuel Guignard de Saint-Priest
  41. ^ Armand Marc de Montmorin Saint-Hérem
  42. ^ a b 小林 1969, p.262
  43. ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, 上 pp. 132-133
  44. ^ フォーブール・サン=タントワーヌ(Faubourg Saint-Antoine
  45. ^ パリ11区にある教会。後にDNA検査にかけられたルイ17世が埋葬されたという逸話がある。(Église Sainte-Marguerite (Paris)
  46. ^ バスティーユ襲撃で活躍した元兵士(革命前に除隊)。極左のサブリーダーとなり、数度の逮捕と、エベール派の追放を生き延びたが、病死した。(Stanislas-Marie Maillard
  47. ^ バスティーユ襲撃に参加した民兵のこと。勇者として一目置かれていた

参考文献

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  • リューデ, ジョージ; 前川貞次郎, ほか訳 (1963), 『フランス革命と群衆』, ミネルヴァ書房 
  • ミシュレ, ジュール; 桑原武夫, (編)ほか (1979), 『世界の名著 ミシュレ 』(フランス革命史の抄訳), 中央公論社, ISBN 4-12-400658-6 
  • マチエ, アルベール; 市原, 豊太(訳); ねづ, まさし(訳) (1989), 『フランス大革命 』, , 岩波文庫, ISBN 4-00-334191-0 
  • ソブール, アルベール; 小場瀬卓三, 渡辺淳, (訳) (1953), 『フランス革命』, , 岩波新書 
  • 小林, 良彰 (1969), 『フランス革命の経済構造』, 千倉書房 

関連項目

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