オルレアニスム
オルレアニスム(フランス語:Orléanisme)は、フランス革命期に起源を持つ、フランスの右翼ないし中道右派の派閥による政治運動。オルレアン派、オルレアン主義、オルレアン王朝主義などと訳される。
オルレアニスムの名称は、派閥の指導者であるブルボン王家の分枝オルレアン家に由来する。オルレアニスムは1789年に起きた革命の指導者たちが追求した「人間の権利」と、君主制の原則とのつり合いのとれた立憲君主主義を政治目標とし、この政治的妥協を進める人々の擁護者となったオルレアン家の公爵たちをフランス王として支持した。オルレアニスム運動は1870年の第三共和政成立後しばらくすると、分裂する形で消滅した。この派閥に属する者はオルレアニスト(Orléaniste)と呼ばれた。フランスの歴史家ルネ・レーモンの分析によれば、オルレアニストはレジティミスト、ボナパルティストとともに、フランス右翼の3つの派閥の一つである。
歴史
[編集]フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年)
[編集]ルイ14世の甥として生まれ、フランス王国の摂政を務めたオルレアン公フィリップ2世は、サン=シモン公爵によれば、(少なくとも気を許した者たちとの集まりや談義の中で)自分がイギリスの自由や立憲君主制に惹きつけられている、と常日頃から発言していたとされる。フランス革命の初期、その曾孫で国王ルイ16世とその妃を毛嫌いしていたオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフは、自然とリベラル王党派の代弁者を引き受けることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子ルイ・フィリップが王位を獲得できたのと同様、この立場から自由主義者の推す国王候補となることはきわめて容易であった。
一方、それまでフランス王家であったブルボン家嫡系(その当主はルイ18世からシャンボール伯爵アンリまで)は自由を定める憲章あるいは憲法を制定する用意はあったものの、自分たちの王権が「神意」によること、臣民の自由は国王の自由意思によって付与されるものであることを主張してもいた。こうした封建的な言葉に多くのフランス人が感情を害し、人々はブルボン王家の下での恩恵としての自由は、常に罰としての自由の撤回と結びつくのだと判断した。そのため、共和制よりは君主政体のほうがフランスには望ましいが、一人の人間の意志に左右される自由に甘んじるのも嫌だと考える人々は、国民の選択によって支配者に選ばれたと称するボナパルト一族の支持者(ボナパルティスト)か、「原初の契約」および人々の意思に基づいて統治するつもりのあるオルレアン家の公爵たちの支持者(オルレアニスト)となった。ブルボン王家の嫡系を支持するレジティミストとオルレアニストとは、統治基盤に対する考え方に関して深い亀裂が存在するのである。
オルレアニストの第1世代は、大革命の混乱に圧倒されることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフは、第一共和政の下で「フィリップ・エガリテ」(Philippe Égalité、「平等な」フィリップ)と名乗り、ルイ16世の処刑に賛成票を投じたが、自身も1793年にはギロチンにかけられた。しかし歴史家アルベール・ソレルによれば、オルレアニストはこの痛手を乗り越えて第一帝政期を生き延び、ルイ18世とシャルル10世の下で復活した正統王朝を倒した自由主義の復権の中で、歴史の表舞台に戻ることになるのである。
ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)
[編集]ブルボン王家による統治が1814年に復活すると、自由主義者たちはオルレアニスト陣営に入り、新体制の熱烈な支持者であるレジティミスト、そしてボナパルティストと対立した。彼らから見れば、ボナパルティスムも「民主主義を掲げる独裁主義」に過ぎず、一人の専制君主による支配に他ならなかったのである。当時、革命時代のフランス人が政治的自由よりもずっと大事だと考えていた、法の下での平等と社会生活上の平等は確保されたとされ、人々は次に獲得すべきは政治的自由だと信じていた。オルレアニストたちの考えでは、オルレアン公が理想的な政府の下で自分たちに政治的自由を保障してくれると思われた。
オルレアニスト陣営に加わった自由主義者たちの指導層には、文筆業や実業の世界で著名な人物たちが多かった。フランソワ・ギゾー、アドルフ・ティエール、ド・ブロイ公アシール・シャルル・レオン・ヴィクトルとその息子ジャック・ヴィクトル・アルベール、銀行家ジャック・ラフィットなどである。
1830年の7月革命でブルボン家の嫡系が王位を失うと、オルレアニストたちはそこにつけ込み、まんまとオルレアン公ルイ・フィリップ3世を国王に推戴した。新王は伝統的な「フランスとナヴァルの王」(roi de France et de Navarre)ではなく「フランス人の王」(roi des Français)という称号を採用し、重要な政治的転換をアピールした。この称号の採用は、王が「神意」によって選ばれた存在ではなく、国民との契約によって選ばれた首長に過ぎないことを意味していたのである。
7月王政期(1830年 - 1848年)
[編集]オルレアニストたちは「神意」に基づく王権という考えを嫌う反面、民主主義をも恐れていた。独裁主義への反転やボナパルティスムへの回帰を引き起こすと確信していたのである。オルレアニストは中産階級の代表者が拠る議会を基盤とした立憲君主政体を採用するイギリスの自由主義政府を理想と考えていた。彼らは絶対君主主義と民主主義の「中庸」(juste-milieu、ジュスト・ミリュー)を追求していた。オルレアニスト政府はフランスにおけるイギリスの中産層選挙民に相当する「法定人口」(pays legal)は25万人程度と決め(実際の有権者は17万人程度)、この枠内から漏れた圧倒的大多数の人々は「事実上は国家を代表している」とした。ギゾーはこの原則を断固たる厳密さをもって解釈し、国政に適用した。
オルレアニストによる7月王政は完全に中産階級のためだけの政治を展開したため、「法定人口」から漏れた大多数の国民は、政府を特権階級の集まりと判断した。政治から排除された国民たちは政府を攻撃しようとはしなかったが、オルレアニスト政府に魅力を感じることはなくなり、貴族政治や昔の王政と変わらないと考えていた。
第二共和政期から第二帝政期(1848年 - 1870年)
[編集]1848年革命が起きたのは、それぞれに個性の強すぎる王子や政治家たちによる政権運営が行きづまったことも一部にはあったが、主には18年もの間オルレアン派によって権力から遠ざけられていた、「法定人口」から外れた人々の不満が原因であった。オルレアニストは第二共和政(1848年 - 1852年)と第二帝政(1852年 - 1870年)の間、自派閥に属する人々の富と才能のおかげで、きわだった社会的、文学的威信を保つことが出来た。彼らはアカデミー・フランセーズで影響力をふるい、『両世界評論』誌や『ジュルナル・デ・デバ』紙といった報道の世界で才能を発揮した。
第二共和政に引き続いて成立した第二帝政の時代、オルレアニストは無尽蔵ともいえる巧妙さと機転とを使って政府に対する慎重な反対活動を行った。彼らは政府に対する冷たい沈黙や無視を続け、そして帝国は外国や旧体制の人々から非難を受けていると断じる歴史研究を発表したりして、ナポレオン3世を苦しめ続けた。しかし、オルレアニストたちはパリの文芸サークルの外、殊に地方ではほとんど支持を受けていなかった。
第三共和政期(1870年 - 1940年)
[編集]普仏戦争の敗北に伴って第二帝政が崩壊すると、ボナパルティストを嫌い共和主義を恐れる人々は選挙で君主制支持者に投票し、結果として1872年12月にボルドーで開かれた国民議会は王党派が多数派を占めた。同議会では、個々の能力の抜きんでているオルレアニストが再び主導権を握ることになったが、レジティミストたちも彼らに対抗する姿勢を見せた。オルレアニストの大統領アドルフ・ティエールは、自身の所属する王党派の望まない第三共和政を樹立した。オルレアニストはレジティミストと協力し、1873年5月24日にティエールから大統領職を奪った。
この後、オルレアニストは王政復古の大義のためにレジティミストとの合同を模索し始めた。かつてギゾーも1850年にまた両派の合同構想を抱いていたが、シャンボール伯爵アンリが「神意」による王権を求めて合同を否認するのは明らかであった。1873年に合同が成立した時には、重要な歩み寄りがあった。協議が行われた結果、オルレアン家の王位請求者であるパリ伯爵フィリップとシャンボール伯との対面がフロースドルフで実現した。パリ伯はこの訪問は一族の家長に対する表敬訪問であるだけでなく、「あちら方の主義主張を受け入れる」ことの表明である、と宣言した(ただし、オルレアニストは時にパリ伯による宣言は心裡留保を伴って行われたものである、と主張している)。しかし結局、最終的な合意が成立に至ることはなかった。
共和主義者は1876年の総選挙で勢力を盛り返し、1877年に5月16日危機が起きると同時に王党派による共和国支配は終焉を迎えた。1883年、シャンボール伯が没すると同時にブルボン王家の嫡系は絶え、パリ伯が合意によりその地位を引き継いだ。しかし、独立した政治党派としてのオルレアニストは消滅し、かつての支持者たちの多くが共和国の体制に順応していった。
一方で、1899年に創設された急進的な右翼組織「アクシオン・フランセーズ」は、共和国体制がやがて崩壊を迎えることは目に見えており、オルレアン家こそがフランスの民族統合を救う唯一の存在であるとして、支持基盤の崩壊した同家を支持した。こうしてオルレアニスムは新たな生命力を得たが、その主導権は真正の君主制支持者など眼中にない別の組織に渡ってしまった。本来のオルレアニストの持つ、正統王朝と共和主義者という両極端のあいだに存在する穏健派という性格は、失われてしまったのである。
歴史家ルネ・レーモンによれば、第五共和政において、オルレアニストの系譜を引く政治家には大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンがいる。
肖像 | 名前 | 生没年 | 付記 |
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(ルイ・フィリップ・ドルレアン) 1848年2月24日 - 1850年8月26日 |
1773年10月6日 - 1850年8月26日 | オルレアン公。 | |
(ルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアン) 1850年8月26日 - 1894年9月8日 |
1838年8月24日 - 1894年9月8日 | パリ伯。ルイ・フィリップ1世の孫。 | |
(ルイ・フィリップ・ロベール・ドルレアン) 1894年9月8日 - 1926年3月28日 |
1869年8月24日 - 1926年3月28日 | オルレアン公。フィリップ7世の息子。 | |
(ジャン・ピエール・クレマン・マリー・ドルレアン) 1926年3月28日 - 1940年8月25日 |
1874年9月4日 - 1940年8月25日 | ギーズ公。フィリップ8世の従弟。ルイ・フィリップ1世の曾孫。 | |
(アンリ・ロベール・フェルディナン・マリー・ルイ・フィリップ・ドルレアン) 1940年8月25日 - 1999年6月19日 |
1908年7月5日 - 1999年6月19日 | パリ伯。ジャン3世の息子。 | |
(アンリ・フィリップ・ピエール・マリー・ドルレアン) 1999年6月19日 - 2019年1月21日 |
1933年6月14日 - 2019年1月21日 | パリ伯およびフランス公。アンリ6世の長男。 | |
(ジャン・カール・ピエール・マリー・ドルレアン) 2019年1月21日 - |
1965年5月19日 - | アンリ7世の長男。 |
系譜
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脚註
[編集]参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Orleanists". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 281-282.
- A. Sorel, L’Europe et la révolution française (Paris, 1885 - 1904)
- F. Guizot, Histoire parlementaire de la France (Paris, 1819 - 1848)
- F. Guizot, Mémoires pour servir a l’histoire de mon temps (Paris, 1858—1867)
- P. de la Gorce, Histoire du second empire (Paris, 1894 - 1904)
- G. Hanotaux, Histoire de la France contemporaine (Paris, 1903, etc.)