利用者:Aboshi/三国志関連人物の生没年記録について
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このページはひとまず私、Aboshiが三国志関連の生卒年についての記録の所在のあるなしを書きとどめるために作成したスペースです。以前よりいわれていたように、現在、ウィキペディア内において中国の三国時代・日本の戦国時代の人物は、コーエーのゲームや個人の憶測などに基づく生卒年の書き込みが当然のようにまかりとおっております。また、中国語由来の歴史読み物などは、勝手な憶測で生卒年を記すことが多く、これに依拠して記すと、まだ顕在化していないながら大きな間違いを犯すこととなりかねません。これらの問題から、ひとまず三国志について私自身が整理するために以下の表を作成することとしました。
※表の記し方 ・・・人物・生卒年・元史料の順に書きます。もしここで抜け落ちている人物、また史料に生卒年が記してあるよ、というものを見つけた方は、ノートの方でご指摘ください。ご指摘の際には、形式を合わせていただけると幸いです(ペーストできると楽ですので)。なお、長期的にはやりたいですが、太陰太陽暦から現太陽暦への変換は今後の課題とします。
『三国志』に主に記されている人物
[編集]『三国志』「魏書」内の人物
[編集]巻一
[編集]巻二
[編集]- 文帝丕(曹丕)(187-226)『三国志』「魏書」本人の本紀に没年月日まで明記。生年は死亡時の年齢より逆算。
巻三
[編集]- 明帝叡(曹叡)(205-239)「魏書」明帝紀によれば景初三年に死去、三十六と記載。すると生年は204年と考えられるが、叡の母である甄氏が曹丕が妻となったのは建安9年(204年)8月の鄴落城の際(「魏書」明帝紀裴注)なので、おかしい。裴松之が明帝紀の注において挙げる205年説が、多く採られる (同じ「魏志」文帝紀の黄初(延康)元年5月の項に「王子叡を封じて侯と為す」とあり、明帝紀では「年十五にして武徳侯たり」とあるため、206年生まれの可能性がある)。
- 繁陽王穆(曹穆)(?-229)明帝の子。繁陽王。明帝紀に太和三年六月癸卯に死去と記載。
- 曹冏(?-226)「魏書」明帝紀、明帝の嫡子で清河王に封ぜられるが同年中<の十月>に薨去した方。
巻四
[編集]- 斉王芳(曹芳)(232-274)『斉王芳紀』(伝?)に廃位された年に二十三、注に泰始十年に死去、四十三と記載。
- 曹詢(231-244)「魏書」斉王芳紀に正始五年八月に死去と記載。(生年は確認できず)
- 高貴郷公髦(曹髦)(241-260)『高貴郷公髦紀』に甘露五年五月己丑に死去、二十と記載。
- 元帝奐(曹奐)(245、246-302)『陳留王奐紀』に廃位された年に二十、注に太安元年に死去、五十八と記載。(代:256)
巻五
[編集]- 文昭甄皇后(甄氏)(?-221)曹丕室。「文帝紀」に黄初二年三月丁卯に死去と記載。
- 曹淑(?-232)「魏書」文昭甄皇后伝に太和六年に死去と記載。
巻六
[編集]- 董卓(?-192)「魏書」董卓伝中に初平3年4月に殺害された旨記載。『後漢書』「孝献帝紀」には四月辛巳と年月日まで確定。
- 袁紹(?-202)「魏書」袁紹伝中に建安7年に「憂死」した旨記載。また「武帝紀」には夏5月死亡と月を確定。『後漢書』「孝献帝紀」には5月庚戌と日付まで確定。
- 袁術(?-199)『後漢書』孝献帝紀に建安4年7月に「死」んだ旨記載。年不詳。
- 劉表(?-208)劉表伝に建安十三年に死去と記載、『後漢書』では八月と記載。(生年の記載は発見できず)
巻七
[編集]- 呂布(?-198)「魏書」呂布伝中に建安3年に処刑された旨記載。『後漢書』「孝献帝紀」には十二月癸酉と年月日まで確定。
巻八
[編集]- 公孫瓚(?-199)本人の伝に建安四年に袁紹に攻められて自害と記載。『後漢書』孝献帝紀によるとこれは同年三月のこと。
- 陶謙(132-194)本人の伝に興平元年に死去と記載。また、注に引く『呉書』に志望したときに年六十三であったと記載。
- 張楊(?-198)『後漢書』献帝紀に建安三年十一月に「盗」によって殺害された旨記載。『三国志』魏書張揚伝によると、呂布を救援しようとした際に部下の楊醜によって殺されたとある。
- 公孫度(?-204)本人の伝に建安九年に没と記載。
- 張燕(生没年不詳)本人伝ほかに生没年に関する記載なし。
- 張繍(?-207)張繍伝によると烏丸の柳城に出征しようとする途中で病死と記載。これは武帝紀によると建安12年の2月から7月にかけてのこと。
- 張魯(生没年不詳)張魯伝ほかに生没年に関する記載なし。
- 閻圃(生没年不詳)張魯の功曹。生没年に関する記載なし。
巻九
[編集]- 夏侯惇(?-220)「文帝紀」に黄初元年四月庚午に死去と記載。
- 夏侯淵(?-219)夏侯淵伝に建安二十四年正月に戦死と記載。
- 夏侯覇(生没年不詳)生没年に関する記載なし。
- 曹仁(168-223)「魏書」曹仁伝に黄初四年に死去と記載。注に死去のとき五十六と記載。
- 曹純(171-210)「魏書」曹仁伝に十五年に死去と記載。また、曹仁伝が注に引く『英雄記』に20歳のとき曹操が陳留郡襄邑で募兵したために配下に加わったとあるが、このときが190年。
- 曹洪(?-232)「魏書」曹洪伝に太和六年に死去と記載。
- 曹休(?-228)「魏書」明帝紀に太和二年九月庚子に死去と記載。
- 曹真(?-231)「魏書」明帝紀に太和五年三月に死去と記載。
巻十
[編集]- 荀彧(163-212)荀彧伝に建安十七年に死去、五十と記載。
- 荀攸(157-214)荀攸伝に曹操の孫権攻めの際に陣中死と記載。注に引く『魏書』(『三国志』内の魏書とは別物)にこのとき建安十九年で、年五十八であったと記載。
- 賈ク(147-223)賈ク伝に江陵の役(黄初三年)の後に死去、七十七と記載。
巻十一
[編集]巻十二
[編集]巻十三
[編集]巻十四
[編集]- 程昱(141-220)程昱伝に「文帝踐阼、復為大尉、進封安郷侯。増邑三百戸、并前八百戸。分封少子延及孫曉列侯。方欲以為公、会薨」とあり、このときが220年。また、同伝が注で引く『魏書』(『三国志』の魏書とは別物)死亡時に「昱時年八十」とあり。
- 郭嘉(170-207)郭嘉伝に曹操の烏丸征伐(建安十二年)の後に病死、三十八と記載。
- 董昭(156-236)明帝紀に青龍四年五月乙卯に死去と記載。董昭伝には死亡時に年八十一と記載。
- 劉曄(生没年不詳)生没年不詳ながら、没年については劉曄伝に「太和六年、以疾拜太中大夫。有閒、為大鴻臚、在位二年遜位。復為太中大夫、薨。」とあるので、234年以降のさして離れていない時期。
- 蒋済(?-249)斉王芳紀に嘉平元年四月乙丑に死去と記載。
- 劉放(?-250)劉放伝に嘉平二年に死去と記載。
- 孫資(?-251)斉王芳紀にに嘉平三年七月庚子に死去した旨記載。
巻十五
[編集]- 劉馥(?-208)劉馥伝に建安十三年に死去と記載。
巻十六
[編集]巻十七
[編集]- 張遼(?-222?)張遼伝と「呉書」呉主権伝を参照すると、呉の黄初元年十一月以降の同年中に陣没と考えられる。
- 楽進(?-218)楽進伝に建安二十三年に死去と記載。
- 于禁(?-221?)青龍元年8月に呉から帰還して将軍位を与えられた後に、曹操の廟に詣でた後に憤して死んだと記載、翌年のことか?
- 張郃(?-231)「蜀書」後主禅伝に蜀の建興九年六月に戦死した旨記載。
- 徐晃(?-227)徐晃伝に太和元年に死去と記載。
- 朱霊(生没年不詳)生没年不明。最後の記録は「満寵伝」所載の太和二年(二二八)に従軍した記録。
巻十八
[編集]- 李典(生没年不詳)李典伝に死亡時に歳36とあるが、いつ死んだか不明。
- 李通(168?-209?)李通伝に出陣中に死没、歳42とあるが、これは前後の内容から209年か?
- 臧霸(?-230以降)明帝紀が注に引く『魏書』に太和4年の事跡として臧霸が大尉となった記録あり。これが臧霸についての最後の記録。
- 許チョ(生没年不詳)許チョ伝に明帝即位後(226年以降)に死去とのみ記載。
- 典韋(?-197)武帝紀と典韋伝を合わせると、建安二年正月の張繍反乱時に討死している旨記載。
巻二十七
[編集]- 王基(190-261)「魏書」王基伝に景元二年に死去と記載。
巻十九
[編集]- 任城威王彰(曹彰)(?-223)「魏書」文帝紀に黄初四年六月甲戌に死去と記載。
- 陳思王(曹植)(192-232)「魏書」陳思王植伝に太和六年正月に死去、四十一と記載。
- 曹志(?-288)「魏書」陳思王植伝の注および『晋書』曹志伝に太康九年に死去と記載。
- 曹炳(?-238)曹熊の子。蕭懷王熊伝に黄初六年に死去と記載。
巻二十
[編集]- 豊愍王昴(曹昂)(?-197)「魏書」武帝紀に建安二年正月に死去と記載。
- 鄧哀王沖(曹沖)(196-208)曹操の子。鄧哀王沖伝に十三年に死去と記載。
- 沛穆王林(曹林)(?-256)曹操の子。
- 中山恭王袞(曹袞)(?-235)「魏書」中山恭王袞伝に青龍三年に死去と記載。
- 趙王幹(曹幹)(?-261)「魏書」趙王幹伝には明記されず。ただし陳留王奐紀に景元二年八月戌寅に死去と記載。
- 楚王彪(曹彪)(?-251)曹操の子。斉王芳紀に嘉平三年六月に死去と記載。
- 樊安公均(曹均)(?-219)「魏書」樊安公均伝
- 曹抗(?-237)「魏書」樊安公均伝に景初元年に死去と記載。
- 東平霊王徽(曹徽)(?-242)「魏書」東平霊王徽伝に正始三年に死去と記載。
- 北海悼王ズイ(曹ズイ)(?-233)「魏書」北海悼王ズイ伝に青龍元年に死去と記載。。文帝の子、北海悼王
- 東武陽懐王鑒(曹鑒)(?-225)「魏書」東武陽懐王鑒伝に黄初六年に死去と記載。
- 東海定王霖(曹霖)(?-250)文帝の子。斉王芳紀に嘉平二年十二月甲辰に死去と記載。
- 邯鄲懐王邕(曹邕)(?-229)文帝の子、邯鄲懷王邕伝に太和三年に死去と記載。
- 清河悼王貢(曹貢)(?-223)「魏書」清河哀王貢伝に黄初四年に死去と記載。
- 広平哀王儼(曹儼)(?-223)「魏書」広平哀王儼伝に黄初四年に死去と記載。
- 曹尋(?-248)「魏書」賛哀王協伝に正始九年に死去と記載。
- 曹整(?-218)「魏書」曹操の子。郿戴公子整伝に建安二十三年に死去と記載。
巻二十一
[編集]- 曹節(?-260)献帝の夫人
- 曹範(?-235)曹操の孫で曹據の子。郿戴公子整伝に黄初三年に死去と記載。
巻二十四
[編集]- 高柔(174-263)「魏書」高柔伝に景元四年に年九十で薨ずと記載。
巻二十五
[編集]- 辛毘(辛毗、?-234以降)魏書が注に引く『漢晋春秋』及び『晋書』宣帝紀に234年の事績として辛毘が登場。これ以降は記載なし。
- 楊阜(生没年不詳)生没年に関する記載なし。
- 高堂隆(生没年不詳)生没年に関するはっきりした記載はないが、死去は景初元年4月(景初暦策定)から景初3年正月(曹叡死去)までの間。
- 棧潛(生没年不詳)生没年に関する記載なし。
巻二十六
[編集]- 満寵(?-242)斉王芳紀に正始三年三月に死去と記載。
- 田豫(生没年不詳)田豫伝に死亡時歳八十二だった旨記載。生没年は明らかではないが、劉備が公孫瓚についた時期(190-194年)から活動しており、正始初年以降(239年)に歳七十を越えていたということまで明らか。
- 牽招(生没年不詳)生没年に関する記載は特になし。
- 郭淮(?-255)高貴郷公髦紀に正元二年癸未に死去と記載。
巻二十八
[編集]- 王淩(172-251)斉王芳紀に嘉平三年五月に自殺した旨記載。また、王淩伝が引く『魏略』には自殺する前に「行年八十、身名並滅邪!」と自ら口にしたことが記載されている。
- 令孤愚(?-251)王淩の甥。馬隆伝にクーデタ失敗後に殺害された旨記載。
『三国志』「蜀書」内の人物
[編集]巻三十一
[編集]- 劉焉(?-194)劉焉伝に興平元年に病死の旨記載。
- 劉璋(?-219年以降)没年について219年を断定的にかがげられることも多いが、劉璋伝には「孫権に帰順して後に死去」とあるのみで、孫権の荊州奪取が219年11月であることを考えると、わずか2ヶ月足らずの219年中に死去したと断定するだけの根拠はない。ただし219年以降のさして遠からざる年ではあろうとは考えられる。
巻三十二
[編集]- 先主備(劉備)(161-223)『三国志』「蜀書」本人の伝に没年月日まで明記。生年は死亡時の年齢より逆算。
- 馮習(?-222)先主備伝に章武二年六月から七月にかけての夷陵の戦いで戦死と記載。
- 張南(?-222)先主備伝に章武二年六月から七月にかけての夷陵の戦いで戦死と記載。
巻三十三
[編集]- 後主禅(劉禅)(207-271)「後主禅伝」に章武三年に即位したときに年十六と記載。また同伝に泰始七年没と記載。
巻三十四
[編集]- 後主太子璿(劉璿)(224-264)「後主太子璿伝」に延熙元年十五歳のときに立太子された旨記述。さらに咸熙元年正月に鍾会の乱後に騒乱する成都で兵に殺されたとも記述。
巻三十五
[編集]- 諸葛亮(181-234)『三国志』「蜀書」本人の伝に没年月まで明記。生年は死亡時の年齢より逆算。
巻三十六
[編集]- 関羽(?-219)関羽伝に建安二十四年に死去と記載。
- 張飛(?-221)『三国志』「蜀書」先主備伝に章武元年六月に殺害された旨記載。
- 馬超(176-222)馬超伝に章武二年に死去、四十七と記載。
- 黄忠(?-220)黄忠伝に建安二十四年の翌年に死去と記載。
- 趙雲(?-229)趙雲伝に建興七年に死去と記載。
巻三十七
[編集]- 龐統(178-213/179-214)龐統伝に雒城包囲中に戦死、年三十六と記載。この包囲戦は建安十六年から十七年にかけて行われているため、生没年は一年差ではありつつも特定できず。
- 法正(176-220)法正伝に劉備が漢中王となった年(219)の翌年に死去、年四十五と記載。
巻三十八
[編集]- 許靖(?-222)許靖伝に章武二年に没と記載。また先主備伝には章武二年八月に死去と明記。許靖伝には「許靖は七十歳を越えても云々」との記載もあり、七十歳以上生きている。
- 麋竺(?-220/221?)219年末に弟麋芳が呉に寝返った後、慙愧して発病して一年余り後病死との記載あり。220年か221年のことか?
- 孫乾(?-214?)劉備の益州平定(214年)後しばらくして死去と記載。
- 簡雍(生没年不詳)特に生没年についての記載なし。ただし劉備と同郷で交わりがあったという記載及び蜀の平定後将軍位を与えたれたという記載から、180年代から214年以降の活動期間は確実。
- 伊籍(生没年不詳)生没年に関する記載なし。
- 秦宓(?-226)秦宓伝に建興四年に死去と記載。
- 任安(125-203)儒者。秦宓伝が注に引く『益部耆旧伝』に年七十九、建安七年卒と記載。
巻三十九
[編集]- 董和(生没年不詳)特に生没年に関する記述なし。
- 胡済(生没年不詳)特に生没年に関する記述なし。
- 劉巴(?-222)蜀・劉巴伝に章武二年に死去と記載。蜀の尚書令。
- 馬良(187-222)馬良伝に夷陵の戦いで討死した旨記載。また、死亡時に年三十六と記載。
- 馬謖(190-228)馬良伝に付属した馬謖伝によると、建興六年に街亭の戦いで敗れて諸葛亮に処刑された、年三十九と記載。
- 陳震(?-235)陳震伝に建興十三年に死亡した旨記載。
- 董允(?-246)董允伝に延煕九年に死亡した旨記載。
- 陳祇(?-258)董允伝に景耀元年に死亡した旨記載。
- 呂乂(?-251)呂乂伝に延熙十四に死亡した旨記載
巻四十
[編集]- 劉封(?-221?)劉封伝に孟達に裏切られて上庸失陥の後、また劉備の夷陵出兵以前に処刑される。221年のことか?なお、生年不詳ながら213年の劉備の蜀攻めの際に「年二十歳余」だった旨記載。
- 彭ヨウ(178-214/179-215)彭ヨウ伝より、劉備の蜀平定後、まもなく投獄・処刑されている。
- 廖立(生没年不詳)生没年に関する記載なし。
- 李厳(?-234)李厳伝に建興十二年に諸葛亮の死を聞いた後同年中に発病して死去。
- 劉琰(?-234)蜀・劉琰伝に建興十二年に棄市された旨記載。蜀の車騎将軍。
- 魏延(?-234)魏延伝に諸葛亮死後の建興十二年に殺害された旨記載。
- 楊儀(?-235)楊儀伝に建興十三年に自殺した旨記載。
『三国志』「呉書」内の人物
[編集]巻四十六
[編集]- 孫堅(156-192)孫堅伝に初平三年に死去、また注に引く『呉録』に年三十七と記載。『後漢書』献帝紀によると孫堅の戦死は同年の一月から四月の間。
- 孫策(175-200)孫策伝に建安五年に死去、二十六と記載。
巻四十七
[編集]- 呉主権(孫権)(182-252)『三国志』「呉書」本人の伝に没年月まで明記。生年は死亡時の年齢より逆算。
巻四十八
[編集]- 孫亮(243-260)孫亮伝に廃された太平三年に十六、孫休伝に永安三年に死去と記載。
- 孫休(235-264)孫休伝に永安七年癸未に死去。三十と記載。
- 孫皓(242-284)孫皓伝に太康五年に死去と記載。注の『呉録』には四年十二月に死去、四十二と記載。
巻四十九
[編集]巻五十
[編集]巻五十一
[編集]巻五十二
[編集]- 張昭(156-236)張昭伝に嘉禾五年に死去、八十一と記載。
- 顧雍(168-243)顧雍伝に赤烏六年に死去、七十六と記載。
- 諸葛瑾(174-241)諸葛瑾伝に赤烏四年に死去、六十八と記載。
- 歩隲(?-247)歩隲伝に赤烏十年に死去と記載。
巻五十三
[編集]- 張紘(? - 211年以降)死の時に六十歳とだけ記載。伝中の死亡する前の事績として建業への本拠移転建言があるが、これが建安十六年のことなので、これ以降のさして離れていない時期と考えられる。
- 厳畯(生没年不詳)生没年に関する記載なし。ただし注に引く『呉書』に死亡したときに七十八歳であった旨の記載あり。
巻五十四
[編集]- 周瑜(175-210)周瑜伝に孫策と同年の生まれ、死去したときに三十六と記載。(劉備が荊州牧になった後に死去と書いてあり、『孫権伝』ではこれは建安十四年の出来事になっている。ただ単に翌年と言う言葉を書かなかっただけかもしれないが)
- 魯粛(172-217)魯粛伝に建安二十二年、四十七歳で死去と記載。
- 呂蒙(178-219)呂蒙伝に関羽が死んだ年に死去、四十二と記載。
巻五十五
[編集]巻五十六
[編集]巻五十七
[編集]巻五十八
[編集]- 陸遜(183-245)呉主権伝に赤烏八年二月に死亡した旨記載。また陸遜伝に死亡時の年齢が六十三であったと記載。
- 陸抗(226-274)陸遜伝に附伝されている陸抗伝に鳳皇三年秋に病死した旨記載。また、同伝に陸遜の死亡時に歳二十であったとも記載。
『後漢書』に主に記されている人物
[編集]- 霊帝(156-189)霊帝紀に中平六年四月丙辰に南宮嘉徳殿で死亡、年三十四と記載。
- 献帝(181-234)後漢最後の皇帝。孝献帝紀に魏の青龍二年に死亡し、年五十四だった旨記載。また、『三国志』「魏書」明帝叡紀には、死亡日を三月庚寅と明記。
- 伏完(?-209)献帝の舅。皇后紀下、伏皇后紀に「(建安)十四年卒し、子の典嗣ぐ」と記載。
『晋書』に主に記されている人物
[編集]- 高祖宣帝(司馬懿)(179-251)『晋書』本人本紀に没年月日(八月戊寅)まで明記。生年は死亡時の年齢より逆算。
- 何曽(199-278)武帝紀に咸寧四年十二月丁未に死亡と記載。何曽伝に死亡時に八十歳だった旨記載。
- 羊祜(221-278) 武帝紀に咸寧四年十一月辛卯に死亡と記載。また羊祜伝に死亡時に五十八歳だった旨記載。
- 杜預(222-284)『晋書』武帝紀に没年月(太康4年閏12月)まで明記。生年は本人伝の死亡時の年齢より逆算。
- 裴秀(224-271)武帝紀に泰始七年三月丙戌に死亡と記載。また裴秀伝に死亡時に年四十八だった旨記載。
- 張華(232-300)『晋書』孝恵帝紀に没年月日(四月辛卯)まで明記。生年は本人伝の死亡時の年齢より逆算。