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利用者:胡亂洞/第一分娩室

浅間神社
所在地 山梨県南都留郡富士河口湖町河口1
位置 北緯35度31分51.9秒 東経138度46分30.3秒 / 北緯35.531083度 東経138.775083度 / 35.531083; 138.775083
主祭神 木花咲耶姫命
社格 式内社(名神大)論社・旧県社
創建 伝景行天皇朝
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 河口浅間神社
例祭 4月25日
主な神事 孫見祭(4月25日)
太々御神楽祭(7月28日)
河口の稚児舞(4月25日・7月28日)
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河口浅間神社(かわぐちせんげんじんじゃ)は山梨県南都留郡富士河口湖町河口に鎮座する神社。正式名称は浅間神社。河口集落の略中央、御坂山地を背後に負う地に西面して鎮座し、鎮座地は河口湖を挟んで富士山に正対する。旧社格県社

祭神

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木花咲耶姫命1柱を祀るが、天津彦彦火瓊瓊杵尊大山祇命の2柱を相殿に祀るとの説もある[1]

由緒

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社伝によれば景行天皇朝に日本武尊の東征に際し、尊が木花咲耶姫命を祀り「浅間明神」と号したのが創祀という[2]。また、『日本三代実録』に貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けてそのの神意を慰めるため、翌7年に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列されるとともに祢宜が置かれたという「浅間明神の祠」が見え[3]、『延喜式神名帳』に甲斐国八代郡の名神大社として「浅間神社」があるが、当神社がそれに相当するともいう。この「浅間神社」の比定には笛吹市浅間神社を充てる説もあり、また富士山2合目に鎮座した御室浅間神社[4]を充てる説もあって定説を見ない。

鎮座地は甲斐と駿河を結ぶ官道(後の鎌倉街道)に沿い、御坂峠を扼するの交通の要衝であったために早くから朝野の崇敬を集めていたと思われ、室町時代には国中を治める武田氏郡内小山田氏の勢力が接する地で、両氏による社殿の造営や社領の寄進が行われたと伝える[5]。また戦国時代には周辺に神社所属の御師が集住するとともに社前を通る鎌倉街道の両脇に軒を連ね、富士信仰により富士山登頂を志す道者(巡礼者)や一般の旅人のために道者坊と呼ばれた宿坊を営む等、彼等を中心に賑わいを見せた。江戸時代には徳川将軍家の祈願所として歴代将軍から崇敬され[1]郡内藩主鳥居氏秋元氏による崇敬も篤く[5]、社地6(約18,000)、山林3町の除地を有し[6]、また宝永年間(18世紀初め)の富士山噴火に際しては寺社奉行鳥居忠救が鎮火を祈願し、祈祷料として白銀10枚を奉納したという[1]

明治5年(1872年)3月郷社に列し、大正13年(1924年)県社に昇格した。

川口御師

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富士山へは中世以来日本各地から導者と呼ばれる一般人(道者や堂者と作る場合もある)が登拝したが、そうした導者を迎えては宿泊やその無事を祈願する等、登拝全般に亘る世話をし、また夏期に限られた富士山の開山期(毎年陰暦6・7月)以外の時期には、各地を訪れて浅間神社の神札を配ったり(配札)、依頼に応じて祈祷や代参(富士山頂への代理登拝)等の活動を行う川口御師が社前の鎌倉街道沿いに屋敷を構え、その数は最盛期には140軒を越えた。

『延喜式神名帳』の甲斐国浅間神社

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祭祀

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孫見祭(まごみまつり)(4月25日)
4月25日に本殿で例大祭を斎行、河口の稚児舞が奉納されるが、その後神輿が集落内を巡幸しながら集落の南端、河口湖東岸から湖中に突き出した産屋ヶ崎(うぶやがさき)に鎮座する産屋ヶ崎神社へ至る。産屋ヶ崎には祭神の子神である彦火火出見命とその妃神豊玉姫命が祀られているが、その間に孫神[7]が誕生したためこれを祝って祭神自らが産着を届ける神事であると伝え、そこから「孫見祭」と称されている[6]。かつては4月初申の日に行われ、神輿に産着の小袖1領を持った神体を遷し、神主や御師を従えて巡幸した[8]。なお、この日には各家庭で魚を荒布で巻いて甘露煮にし、富士山を象って三角形に形を整えた「めまき」という行事食が作られる[9]
太々御神楽祭(おだいだいまつり)(7月28日)
富士山の噴火を祭神の荒振る神業と見て、神意を鎮めるために創められたと伝える[10]、河口の稚児舞全5番が奉納される祭り。午前10時に始まり、稚児舞の途中に富士山を鎮める「火伏せの神事」や昼食が挟まれ、午後4時頃に終了する。

社殿

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本殿幣殿拝殿慶長11年(1606年)の焼失を受けて翌12年に都留郡の領主鳥居成次が再建したもの(棟札)。

本殿は一間社の流造屋根銅板葺で、向拝(こうはい)の軒先に唐破風を付加する。宮大工として関善左右衛門尉藤原家継という者の名前が残されている。町指定の有形文化財(昭和49年(1974年)5月14日指定)。

拝殿は桁行7間梁間3間の切妻造平入銅板葺、背面に幣殿が接続する。なお、拝殿前に「ヒイラ石(美麗石)」という屋根型の石が置かれるが、貞観7年に創建された「浅間明神の祠」の跡であるとの説があり[11]、また古代磐座祭祀の名残であるとの説もある[10]

社頭の鳥居元禄10年(1697年)に谷村藩主秋元喬知(喬朝)の再建で、銅製の扁額に書かれた「三国第一山」の書は公弁法親王輪王寺宮)の筆[8]。その他、切妻造平入銅板葺三間一戸の神門等が建つ。

境内社

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本殿背後に大山祇命を祀る山宮社(小祠)があって「奥の院」と称されるが、以前は火打場(ひうちば)と呼称された尾根上に鎮座していた[8]。また徐福を祀る秦大明神(旧称徐福の社)他多数の末社があるが、近世期にその数は21社であった[8]

文化財

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(括弧内は指定の区分と年月日)

山梨県指定

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  • 河口の稚児舞(無形民俗文化財、昭和35年11月7日)
  • 七本杉(天然記念物、昭和33年6月19日)
樹齢およそ1.200年(平成20年現在)の7本の老杉で社殿前から富士山に向かって南行する旧参道に沿って聳える。いずれも樹高45メートル前後、目通り幹周7、8メートル。7本もの老杉が樹勢も盛んに一所に存在する点が珍しいが、幹の分岐もない為に地形的に強風を受ける事なく生育したものと思われ、特に7本目(最南)のものは根周りが30メートルにも及び(他は10から20メートル)、根部の異常発育が認められる点も珍しい[12]

富士河口町指定

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  • 本殿(有形文化財、昭和49年5月14日)
  • 黒駒大絵馬(有形文化財、昭和57年5月27日) - 戸田忠真狩野邦信(洞元)に描かせて元禄10年(1697年)に奉納した大絵馬
  • 参道の杉並木(天然記念物、平成15年(2003年)2月18日) - なお、七本杉や並木以外にも杉の老樹が社叢を形成している。
  • 栃の木(同上) - 社頭に聳えるの木。
  • 樅の木(同上) - 社頭に聳えるの木。

脚注

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  1. ^ a b c 甲斐国社記・寺記』。同書は慶応4年(1868)7月から明治元年10月の4箇月間に、甲府寺社総括職に提出された山梨県内の神社・寺院の由緒・伝承の書上書を編纂したもの。下注にある『社記』も同じ。
  2. ^ 『社記』。但し祀った神は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の2柱とする。
  3. ^ 『日本三代実録』貞観6年5月25日条、同年7月17日条、同年8月5日条、及び貞観7年12月9日条。
  4. ^ 現在勝山の冨士御室浅間神社に遷祀されている。
  5. ^ a b 『角川日本地名大辞典』。
  6. ^ a b 『山梨県の地名』。
  7. ^ 鵜草葺不合尊の事。
  8. ^ a b c d 『甲斐国志』。
  9. ^ 志摩阿木夫「山梨の祭礼行事・解説 - 河口浅間神社の孫見祭」(『祭礼行事・山梨県』所収)。
  10. ^ a b 地域文化資産ポータル、「河口浅間神社の稚児の舞」。
  11. ^ 伴『甲斐国河口郷延喜式内名神大社浅間神社正史』。
  12. ^ 文化庁『天然記念物緊急調査 植生図・主要動植物地図19山梨県』、文化庁、昭和47年。

参考文献

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  • 式内社研究會編『式内社調査報告』第10巻 東海道5(伊豆国・甲斐国)、皇學館大學出版部、昭和56年
  • 谷川健一編『日本の神々-神社と聖地』第10巻東海《新装復刊》、白水社、2000年ISBN 978-4-560-02510-9(初版は昭和62年)
  • 伴泰『甲斐国河口郷延喜式内名神大社浅間神社正史』、浅間神社、昭和58年
  • 『角川日本地名大辞典 19山梨県』、角川書店、昭和59年ISBN 978-4040011905
  • 『山梨県の地名』(日本歴史地名大系19)、平凡社、1995年ISBN 4-582-49019-0
  • 全日本郷土芸能協会編『日本の祭り文化事典』、東京書籍、平成18年ISBN 4-487-73333-2
  • 高橋秀雄・志摩阿木夫編『祭礼行事・山梨県』、おうふう、平成7年ISBN 4-273-02488-8

外部リンク

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