コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:沢町/下書

 
松平定重
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保元年11月16日1644年12月15日
死没 享保2年10月27日1717年11月29日
改名 万吉(幼名)、定重
戒名 円鏡院殿照誉定信智法大居士
墓所 道本山東海院霊巌寺
官位 従五位越中守、従四位
幕府 江戸幕府 奥詰
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
伊勢桑名藩藩主、越後高田藩藩主
氏族 菅原氏久松氏松平氏
父母 松平定頼、養仙院(京極高広娘)
松平定良
兄弟 真修院(島津綱久正室)、慶雲院(酒井忠直正室)、定盛、光雲院(阿部定高正室、黒田之勝正室)、鏡智院(松平直明正室)定長、仙寿院(山内豊昌正室)、定重
前田利常娘松(陽春院)駒井氏娘類(松久院)
定富定逵定儀水野忠定定弘柳生俊平定利
テンプレートを表示

松平 定重(まつだいら さだしげ)は、伊勢桑名藩、のち越後高田藩の藩主。定綱系久松松平家3代。伊予松山藩主・松平定頼の三男。

生涯

[編集]

正保元年11月16日(1644年)、伊予松山藩主、松平定頼三男として江戸三田で生まれる。母は正室養仙院。幼名は万吉。

明暦3年(1657年)、病弱で子の無かった伊勢桑名藩主の松平定良の養嗣子となる。同年7月18日、養父定良死去、同年10月2日には家督を継いで桑名藩主となり、同年12月27日に従五位下越中守に任ぜられる。

宝永7年(1710年)5月、郡代野村増右衛門を経理上の不手際により打ち首にし、増右衛門の親族44人と関係者の役人370人を死刑、追放、罷免などの処分にした事件が発生する(野村騒動)。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に越後高田藩11万3,000石へ移封された。正徳2年(1712年)9月7日、五男の定逵に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。

年表

[編集]
和暦 月日 西暦 数え年 内容
正保元年 11月16日 1644年 1歳 誕生
明暦3年 1657年 14歳 松平定良の養嗣子となる。
7月18日 養父、定良が死去。
10月2日 家督を継いで桑名藩主となる。
12月27日 従五位下越中守
寛文元年 8月19日 1661年 18歳 初めて任地桑名に入る。
延宝5年 8月9日 1677年 34歳 堀田正信家臣を預かる。
天和元年 9月11日 1681年 37歳 預かりの堀田正信家臣を召し抱える。
貞享元年 11月14日 1684年 39歳 伴重長の息子、孫三郎盛幸を預かる。
元禄元年 12月25日 1689年 42歳 従四位下
元禄2年 2月2日 43歳 喜多見重政を預かる。
3月2日 江戸幕府奥詰就任。

系譜

[編集]
  • 父母
    • 父:松平定頼(慶長12年(1607年) - 寛文2年1月22日(1662年)) - 伊予松山藩主。詳しくはリンク先を参照。
    • 母:養仙院( - 天和3年11月16日(1684年)) - 京極高広長女[1]、母は池田輝政長女[2]。松平定頼正室。法号は養仙院殿了栄妙護日立大姉、墓所は桑名市の光徳山円妙寺[3][4]または東京都台東区の慈雲山瑞輪寺[3]
    • 養父:松平定良(寛永9年(1632年) - 明暦3年7月18日(1657年)) - 桑名藩先代藩主。詳しくはリンク先を参照。
  • 兄弟
    • 長姉:真修院( - 天和2年11月7日(1682年)) - 母は養仙院。島津綱久正室。法号は真修院殿妙栄日長大姉、墓所は鹿児島市の玉龍山福昌寺跡[5]
    • 次姉:慶雲院( - 元禄12年2月13日(1699年)) - 母は養仙院。酒井忠直正室。法号は慶雲院殿光栄日通大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺[6]
    • 長兄:松平定盛(寛永15年(1638年) - 延宝2年9月19日(1674年)) - 母は養仙院。嫡男だったが病弱のため廃嫡された。詳しくはリンク先を参照。
    • 三姉:光雲院(寛永16年(1639年) - 宝永元年6月1日(1704年)) - 母は養仙院。阿部定高正室。定高死去後、黒田之勝正室として婚約するが婚姻前に之勝が死去する。法号は光雲院殿秀栄日珠大姉、墓所は松山市の妙向山玄通院法華寺
    • 四姉:鏡智院( - 享保元年10月8日(1716年)) - 養姉。酒井忠朝四女、実母は松平定行長女龍光院[7][8][9]松平直明正室。法号は鏡智院殿、墓所は東京都港区の長祐山承教寺[10]
    • 次兄:松平定長(寛永17年6月17日(1640年) - 延宝2年2月12日(1674年)) - 伊予松山藩主。詳しくはリンク先を参照。
    • 五姉:仙寿院( - 寛文4年12月27日(1665年)) - 母は養仙院。山内豊昌正室。法号は仙寿院殿久栄日成大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺。
    • 正室:松(陽春院)(慶安元年10月23日(1648年) - 寛文6年1月18日(1666年)) - 前田利常七女、母は仏光寺18代宗主経海娘五条局。戒名は陽春院殿雪窓宗白大禅定尼、墓所は東京都練馬区の円満山広徳寺[11]または東京都江東区の道本山東海院霊巌寺[12]
    • 継室:類(松久院)( - 享保2年1月23日(1717年)) - 駒井氏。五男定逵の母。法号は松久院殿妙月日盛大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺。
    • 側室:繁(見聖院)( - 元禄4年閏8月23日(1691年)) - 片岡氏。四男定富の母。戒名は見聖院殿光誉徹心栄玉大姉、墓所は桑名市の東海山泥垣院照源寺
    • 側室:本地院( - 延宝8年3月5日(1680年)) - 笹尾小兵衛女。六男定儀の母。法号は本地院殿妙観日進大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺。
    • 側室:真如院( - 享保12年7月2日(1727年))- 井上氏。九男水野忠定の母。戒名は真如院殿妙照日護大姉、墓所は東京都台東区の円住山妙円寺。
    • 側室:廓生院( - 元禄8年1月18日(1695年)) - 六女亀の母[11][13]。戒名は廓生院殿然誉自忍大信女、墓所は東京都江東区の道本山東海院霊巌寺。
    • 側室:叡寿院( - 寛延3年8月8日(1750年))- 鈴木氏。十男定弘の母[14]、もしくは十一男柳生俊平の母[15]。法号は叡寿院殿妙円日量大姉、墓所は東京都港区の松栄山妙経寺。
  • 子女
    • 長男:松平定政(寛文6年(1666年) - 寛文8年4月5日(1668年)) - 母は不詳。早世。幼名は万吉。戒名は法光院殿休岳電影大童子、墓所は桑名市の東海山泥垣院照源寺[16]
    • 次男:松平大次郎( - 寛文11年7月2日(1671年)) - 母は不詳。早世。戒名は涼秋院殿月峯英玉大童子、墓所は東京都江東区の道本山東海院霊巌寺[16]
    • 三男:松平勝次郎(寛文8年6月8日(1668年) - 寛文9年10月25日(1669年)) - 母は不詳。早世。戒名は玉輪院殿照岩智光大童子、墓所は桑名市の松岳山長寿院[16]
    • 四男:松平定富(寛文11年4月10日(1671年) - 貞享2年10月10日(1685年)) - 母は見聖院、通称は主税介、主殿、内膳。病弱なため嫡男とされなかった。戒名は了照院殿覚樹玄徹大居士、墓所は桑名市の東海山泥垣院照源寺[16]
    • 五男:松平定逵(延宝5年2月8日(1677年) - 享保3年9月10日(1718年)) - 母は松久院、幼名は豊松、後に豊五郎。定重の跡を継いで越後高田藩主となる。詳しくはリンク先を参照。
    • 長女:富(霊龍院)(延宝6年2月6日(1678年) - 元文4年8月5日(1739年)) - 母は不詳。元禄7年4月21日(1694年)、島津吉貴正室となる。法号は霊龍院殿潜顕妙能日渕大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺[17]
    • 六男:松平定儀(延宝8年(1680年) - 享保12年9月25日(1727年)) - 母は本地院。幼名は三郎助。甥の定輝の跡を継いで越後高田藩主となる。詳しくはリンク先を参照。
    • 七男:松平元助( - 貞享元年5月12日(1684年)) - 母は不詳。早世。法号は高岳院殿夏円日涼大童子、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺。
    • 八男:松平政七(天和3年10月2日(1683年) - 貞享2年7月21日(1685年)) - 母は不詳。早世。法号は真利貞順日光大童子、墓所は桑名市の光徳山円妙寺。
    • 九男:水野忠定(貞享2年4月29日(1685年) - 延亨5年6月26日(1748年)) - 母は真如院。幼名は吉之助。水野忠位養子となり、安房北条藩主となる。詳しくはリンク先を参照。
    • 十男:松平定弘(貞享3年閏3月13日(1686年) - 元禄15年8月21日(1702年)) - 母は不詳、幼名は恒之丞。法号は清涼院殿秋岳日静大居士、墓所は桑名市の光徳山円妙寺。
    • 次女:春(慈敬院)(貞享4年1月30日(1687年) - 元禄12年5月22日(1699年)) - 母は不詳。松平忠雅正室として婚約するが婚姻前に死去する。戒名は慈敬院殿誠諦自真大信女、墓所は東京都江東区の道本山東海院霊巌寺。
    • 三女:伊与(桂光院)( - 元禄12年9月17日(1699年)) - 養女、実家は南條氏で松久院の姪。五島盛暢継室のち本多助芳正室となる。法号は桂光院殿妙栄日長大姉、墓所は東京都台東区の慈雲山瑞輪寺。
    • 十一男:柳生俊平(貞享5年9月4日(1688年) - 明和5年3月18日(1768年)) - 母は不詳。幼名は六彌、後に靱負。柳生俊方養子となり、大和柳生藩主となる。詳しくはリンク先を参照。
    • 四女:智源院(元禄元年9月30日(1688年) - 元禄元年10月12日(1688年)) - 母は不詳。早世。戒名は智源院殿幼空妙泡大童女、墓所は桑名市の松岳山長寿院。
    • 五女:亀(照光院)(元禄6年12月6日(1694年) - 享保14年6月4日(1729年)) - 母は廓生院。松平宗弥正室として婚約するが婚姻前に宗弥が死去する。後に京極高栄継室となる。戒名は照光院殿、墓所は東京都文京区の桂芳山護念院瑞泰寺。
    • 十二男:松平定利(元禄8年3月23日(1695年) - 宝永2年8月19日(1705年)) - 母は不詳。幼名は竹次郎。松平定玄養子となるが早世。清浄院殿涼月寿円大童子、墓所は桑名市の東海山泥垣院照源寺。

ああ。[注 1] わわわ。[7] さてさて。[18]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ あーいえばこういう。

出典

[編集]
  1. ^ 『寛政重脩諸家譜』第3輯,pp. 176-177
  2. ^ 『寛政重脩諸家譜』第2輯,pp. 403-406
  3. ^ a b 『御法號帳』,p. 27
  4. ^ 近藤杢、平岡潤 『桑名市史』補編,pp. 385-389
  5. ^ 『御法號帳』,p. 20
  6. ^ 『御法號帳』,p. 25
  7. ^ a b 『寛政重脩諸家譜』第1輯,pp. 287-288
  8. ^ 『寛政重脩諸家譜』第1輯,p. 335
  9. ^ 『御法號帳』,p. 20
  10. ^ 『御法號帳』,p. 23
  11. ^ a b 『御法號帳』,p. 11
  12. ^ 石川県 『石川県史』第貳編,pp. 1485-1486
  13. ^ 『御當家御代々御名前并御法号』,p. 11
  14. ^ 『御家譜』,p. 82
  15. ^ 『御法號帳』,p. 4
  16. ^ a b c d 『御家譜』,p. 75
  17. ^ 『御家譜』,p. 81
  18. ^ 『寛政重脩諸家譜』第1輯,pp. 295-296

参考文献

[編集]
  • 『寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年(原著1812年)、287-288,295-296頁。 
  • 『寛政重脩諸家譜』 第2輯、國民圖書、1923年(原著1812年)、406頁。 
  • 『寛政重脩諸家譜』 第3輯、國民圖書、1923年(原著1812年)、176-177頁。 
  • 『御家譜』 全、(桑名市立中央図書館蔵)。 
  • 『御法號帳』(桑名市立中央図書館蔵)。 
  • 『御當家御代々御名前并御法号』(桑名市立中央図書館蔵)。 
  • 行田市・桑名市・白河市友好都市締結15周年記念合同企画展実行委員会『部門の縁-忍・桑名・白河、幕末への軌跡-』2013年8月10日、82頁。 
  • 近藤杢、平岡潤『桑名市史』 補編、桑名市教育委員会、1960年8月31日。 
  • 石川県『石川県史』 第貳編、石川県、1928年3月28日。 

{{桑名藩主|久松松平氏||1657年 - 1710年} {{高田藩主|久松松平氏||1710年 - 1712年}

{{DEFAULTSORT:まつたいら さたしけ} [[Category:久松松平氏|さたしけ] [[Category:親藩] [[Category:桑名藩主|205] [[Category:高田藩主] [[Category:1644年生] [[Category:1717年没]