利用者:工業都市のため息/記事修正用
佐野元春 | |
---|---|
別名 | Lion、Moto、棟梁 |
生誕 | 1956年3月13日(68歳) |
出身地 | 日本東京都千代田区 |
学歴 | 立教大学社会学部 |
ジャンル |
ロック フォークロック ポップ スポークン・ワード |
職業 |
歌手 ソングライター ラジオDJ 詩人 |
担当楽器 |
ギター ピアノ |
活動期間 | 1980年 〜 |
共同作業者 |
佐藤奈々子 伊藤銀次 ザ・ハートランド 大滝詠一 松本隆 ザ・ホーボー・キング・バンド ジョン・サイモン |
公式サイト | Moto's Web Server |
佐野 元春 (さの もとはる、1956年3月13日 - )は、日本のロックミュージシャン・ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー・ラジオDJ・詩人。
1980年にエピック・ソニーレコードよりシングル曲「アンジェリーナ」でメジャーデビュー。日本語でのロックは可能かが真剣に議論されていた時代に、全く新しい歌詞と歌唱法のスタイルを創造し、疾走感にあふれたビートに言葉を詰め込んだ曲作りは当時の音楽シーンに衝撃を与えた。
その後も優れた詩人としてのメッセージを内包した歌詞の鋭さ、多様なリズムと洗練されたアレンジ、社会的メッセージを込めた曲作り、ラップやスポークン・ワードなどの新しい手法を実践。さまざまなジャンルの音楽を折衷させた斬新なロック、ポップ・ソングの数々によって、音楽界に大きな影響を与え続けている。現在は独立系レーベル「デイジーミュージック」を主催し、インターネットを通じた音楽活動などでも先駆的な試みを続けている。
経歴
[編集]デビューまで
[編集]中学生時代から、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ランディ・ニューマン、トム・ウェイツなどを愛好。音楽のみならず、彼らの歌詞の内容からも大きな影響をうける。1974年、「バックレイン元春セクション」として出演。「バイバイCボーイ」でヤマハのポプコンの関東・甲信越地区代表に。間奏にホルン二重奏を配した斬新なアレンジだったが「つま恋本選会」は入賞せず。1977年、佐藤奈々子のアルバム「Funny Walkin'」、「Sweet Swingin'」に作曲家として参加。これらの作品で佐野は、奈々子とともに、ランディ・ニューマン、マリア・マルダーやダン・ヒックスらの音楽を髣髴とさせるような、ジャジーでドリーミーなグッド・オールド・タイム・ミュージックの世界観を作り上げている。1978年ヤマハのポプコンに出場。「Do What You Like ─ 勝手にしなよ」で最優秀作詞賞を受賞。大学卒業後は東宝系列の広告会社で、ラジオ番組のディレクターを勤める。
都市に暮らす少年少女を描いた初期三部作
[編集]1980年3月21日、当時のエピック・ソニーレコードのレーベルプロデューサー小坂洋二に才能を見出され、シングル『アンジェリーナ』でレコードデビュー。疾走感に溢れたビート、斬新な言語感覚など「日本語によるロック」の新しい方向性を提示した曲。4月21日、1stアルバム「バック・トゥ・ザ・ストリート」を発表。ロックンロール、バラッド、ジャズなど様々な音楽ジャンルを網羅し、その後の多彩な音楽性の片鱗がすでに現れている。8月から約1年間、新宿ルイードを拠点に活動を行う[1]。「日本語によるロック」の新たな提示は、日本のロック音楽の転換期であった当時、まだ一部のファンと業界関係者にしか受け入れられなかった。所属事務所がヤングジャパン(フォークミュージック系の大手事務所)だったため、アリス、岸田智史等のオープニングアクト(前座)をつとめるなど、苦労を重ねる。最初のライヴはこの年、東京・名古屋・大阪を廻ったクリストファー・クロスのツアーの前座だった[2]。
初期の代表作である「ガラスのジェネレーション」「ハートビート」や、現在でもライブの定番曲となっている「君をさがしている」を収録した2ndアルバム『ハートビート』を1981年2月25日に発表。レコーディングやライブにおいて伊藤銀次とのゴールデンコンビが生まれ、同年5月には念願だった自身のバンド「ザ・ハートランド」(第一期のメンバーは、ドラムス:古田たかし、ベース:小野田清文、ギター:伊藤銀次、オルガン:阿部吉剛、ピアノ:西本明、サックス:ダディ柴田)を結成し、ホールクラス級の全国ツアーを行うなど、佐野元春の音楽的基盤が整うことになる。
「サムデイ」の誕生
[編集]1981年6月25日、日本のロック史における代表曲となるシングル「サムデイ」をリリース。1982年1月から半年におよぶ全国ツアー「Welcome To The Heartland Tour」(全41公演)を開始。時を同じくした3月、大瀧詠一の呼びかけによって実現した『ナイアガラトライアングルVOL2』に杉真理と共に参加。シングルカットされた「A面で恋をして」は化粧品のCMに使用されスマッシュヒットとなった。
それまでの活動において、ライブでは確実に動員数を増やしていたが、セールスという形にはなかなか結びつかなかった。そこで背水の陣で挑んだ初のセルフプロデュースのアルバム『サムデイ』を1982年5月21日にリリース。前2作に対してアンサンブルはより重層的になり、サウンドも詩の面でも、都市がもつ陰と陽、その中で葛藤する20代の男女の様子が表現された初期佐野元春サウンドの決定版となる。また、サウンド・エンジニアに吉野金次を迎えたことで、フィル・スペクターやビートルズなど50年代から70年代の良質なポップサウンドへのオマージュが、80年代のサウンドとしてより具現化したことも特筆すべき点である。
リリース後はオリコンアルバムチャートで4位を記録。商業的にも成功したこのアルバムで、都市に暮らす少年少女の「喜怒哀楽」をポップミュージックで描くという初期のスタイルを完成させる。前ツアーからほとんど間を開けず、1982年9月から1983年3月までコンサートツアー『Rock & Roll Night Tour』を全40ヶ所で行い全国的にブレイク。初のホールクラス級のロック・コンサートとして、のきなみソールドアウトを記録、大きな反響を起こした。このツアーを観た吉川晃司や尾崎豊など、多くのミュージシャンが感銘を受けたと語っている[3]。そしてツアーの最終公演である東京・中野サンプラザのステージで、突然のニューヨーク行きを発表した。
単身ニューヨークへ -日本語によるヒップホップ表現を実践
[編集]1983年単身ニューヨークへ。この時はそもそも、「音楽業界をまるごと革命するために、ビジネスマンたちと同じ能力、スキルを見につけないと」という考えからの渡米であった[4]。ニューヨークでアパート生活をしながらクラブシーンなどに交遊関係を築き、ちょうどこの時期にニューヨークで巻き起こったラップ・ミュージックやヒップホップ・サウンドの誕生を間近で目撃することになった。こうしたニューヨークでの生活の様子は、当時のラジオ番組「元春レイディオショー In New York」でよく語られていた。なお渡米中に編集盤『ノー・ダメージ』がオリコンで1位を記録。本人不在ながらも日本国内では、いわゆる「佐野元春文体」を模した商品コピーが氾濫するなどの佐野元春ブームが起き、ロックファン以外にもその名が浸透する。
そうしたブームを知ることなく、1年に及ぶニューヨークでの生活を続けていた本人の中では、それまでの日本での生活とはまったく違う価値観を芽生えさせるものであったという。その意識はニューアルバム制作にも当然反映され、渡米当初に持っていた「サムデイの延長線上にある既存のポップ作品」という青写真をすべて捨てて、現地のミュージシャンとともに新しいサウンドで新曲をレコーディング。混乱と自己破壊、生への祝福、そして次代への連なりを、強力なラップスタイルのボーカルとヒップホップに裏打ちされた斬新なサウンド、エレクトリックとアコースティックの融合という新しいアプローチで奏でられたアルバム『ヴィジターズ』が完成する。
1984年帰国。渡米中に制作したアルバム『ヴィジターズ』を5月21日にリリース。オリコンで1位を記録する。冒頭の「コンプリケーション・シェイクダウン」を含む数曲で強力なラップを取り入れたことで、当時の音楽業界に大きな衝撃を与え、ファンの間でも賛否両論が巻き起こった。これはメジャーレーベル系ミュージシャンとしては初の日本語ラップと言われており、現在も国内ラップミュージシャンから大いにリスペクトを受けている。全国70カ所におよぶコンサートツアー『VISITORS TOUR '84〜'85』では、TVモニターを何十台も積み重ねて不規則な映像を流すなど、アバンギャルドなステージセットを展開。国内のロックコンサートの形態に新たな時代が訪れたことを告げた。同時にこの年、松田聖子の「ハートのイアリング」を作曲。
初のトップ10ヒット「ヤングブラッズ」
[編集]1985年2月に国際青年年のテーマ曲として「ヤングブラッズ」を発表。佐野自身初のトップ10ヒットとなり、印税をアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付するなどで話題を呼んだ。また、渡米期間中におこったMTVの隆盛を受け、プロモーション・ビデオも制作している。5月にはエレクトリックサウンドに載せた自作詩の朗読(スポークン・ワード)と詩集・写真集・ストリートアートなどが複合的にミックスされたカセットブック作品『ELECTRIC GARDEN』を小学館から発表。続く7月には、ライヴエイドに日本代表として参加。アフリカの飢餓状況を映した映像とライブでの演奏シーンをミックスした「シェイム─君を汚したのは誰」が、歌詞の英語訳テロップと共に世界に発信された。
1986年、それまで培ってきた音楽制作やビジネスのノウハウを元にして自由な表現フィールドを獲得するために、自身によるプライベートレーベル「M's Factory」を立ち上げる。責任編集の季刊誌「THIS」を扶桑社より発刊するなど多岐にわたるメディア活動を展開。またライブ活動においても、東京・日本青年館で月に一度のペースで定期ライブを行う「Tokyo Monthly」を開催。チケット申し込みの電話回線がパンクする事件がおきるほどの人気を博す。ちょうど次作アルバムの制作中ということもあり、レコーディング前の未発表曲を演奏するなどのアクションも頻繁に行われた。
UKムーブメントへの接近
[編集]1986年12月には、先に発表されていた「ヤングブラッズ」「クリスマスタイム・イン・ブルー」を含むアルバム『カフェ・ボヘミア』を発売。アルバムに先駆けてシングル発売され、チャートトップ10入りを果たしていた「冒険者たち(Wild Hearts)」「奇妙な日々(Strange days)」なども収録。アルバムの特徴としては、イギリスやフランスを旅しながら作られた楽曲群はその世界観をさらに広げ、音楽面でもリズム指向をさらに多様化させ、ジャズ、ソウル、スカ/レゲエなどの多彩なリズムが採り入れられている。これは当時イギリスでムーブメントとなっていた、ブラックミュージックやサードワールドの音楽をUKポップ音楽に融合させるというアプローチであり、この流れを主導していたロンドンのサウンド・エンジニア、アラン・ウインスタンレイの起用が、当時のUKムーブメントとリンクさせた大きな要因となっている。
『カフェ・ボヘミア』のリリースと前後して、10月から翌年9月までの約1年間で約80公演にも及ぶ「カフェ・ボヘミア・ミーティング」と題された全国ツアーを決行。ストレートなロックンロールから、複雑なポリリズムによるダンスサウンド、ソウルフルな演奏などが披露され、ザ・ハートランドの演奏力が確立することになる。その様子は、1987年9月に初の単独スタジアムライブが横浜スタジアムで行われ、この日の演奏を収録したライブアルバム「Heartland」(オリコン1位を記録)が発表された。
この頃、国内で大きな議論となった原子力発電所の建設問題について、ジャーナルな視点をもった歌詞を鋭角的なビートロックに乗せたシングル「警告どおり計画どおり」を発売。一方、自身のラジオ番組「AJIスーパーミクスチャー」において、レーベルの主催者として後進のアーティストのプロデュース活動も開始。後にCDとして発売された「mf ヴァリアス・アーティスツ Vol.1」では、それぞれに個性を持った11アーティストの魅力をうまく引き出し、控えめ、かつ的確にプロデューサーする腕前を発揮している。
1988年、次作のアルバム制作をスタートさせる。初期段階ではザ・ハートランドとのレコーディング作業を重ね、大胆かつラディカルなロックサウンドが最終形に近い形で完成していった。しかし、より明快かつポップなロックサウンドを求め、それまでのセッションを白紙に戻して単身ロンドンへ渡英。プロデューサーであるコリン・フェアリーを陣頭指揮とし、ブリンズレー・シュウォーツ、ピート・トーマス等、UKパブロック周辺のミュージシャンとレコーディングセッションを開始する。
こうしたEast meets west的なセッションを経て、先行シングル「約束の橋」を代表に、その後のライブ演奏でも欠かせない「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」「ジュジュ」「新しい航海」などを収録したアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』が完成。1989年6月にリリースされる。サウンド面では、伝統的なUKロックのテイストと、東洋的なオリエンタリズムが結実。60年代のF-Beatサウンド的な疾走感をもつタイトル曲から始まり、アフリカンビートやスキッフル、シャッフル、ロックンロールといった様々なリズムがアルバム内で調和している。詩の面においてはサウンド以上に研ぎ澄まされており、それまでの英語やカタカナ語でビートにアクセントをつけていく、いわゆる「佐野元春文体」とは一線を画すものとなっている。啓示的な内容をもつ現代詩を元に、極力カタカナ語を廃し、語数も少ない。抽象的かつ象徴的な言葉の組み合わせによってイメージを聞き手に喚起させる手法は、その後の佐野元春作品群と照らし合わせてみたときに、ひとつの大きなターニングポイントと捉えることができる。
本作のプロモーションツアーである「ナポレオンフィッシュ・ツアー」を1989年6月から12月まで決行。ステージ背景には荒涼とした砂漠の写真がマルチメディア的に映し出され、そうした映像を背にして、これまでのキャリアの中でもっとも攻撃的な演奏を全国で展開した。二度目となる横浜スタジアムでのライブを間に挟み、年末まで続けられた本ツアーの最終公演では、時は平成に変わり、1980年代的な価値観が急激に変わり始めていくことを予見したかのようにステージ背景には「Good by 80's, so don't look back」と記されていた。
デビューから10年目となった1990年。今までのシングル曲とカップリング曲一部を収録した「MOTO SINGLES」を5月に発売と並行して新作アルバムの制作をスタートさせ、佐野元春 with The Heartland名義としては『カフェ・ボヘミア』に続く2枚目となる『タイム・アウト!』を11月にリリースした。アルバムタイトルが示すとおり、過去作品に見られる大上段から振りかざすような音楽のダイナミズムは一旦休憩となり、全面アナログレコーディングと、少数編成のバンドサウンドを核とした素朴な音作りの曲が並んだ。詩の世界観も「街に暮らす少年少女」が成長した様子を平易な言葉を選んで描きながらも、時代が狂乱のあとで疲弊していく様子を見つめながら「家に帰ろう」(収録曲「空よりも高く」)と歌うその視点は、以前よりも深淵なものになっている。
『タイム・アウト!』のプロモーションツアーの最終公演である大阪フェスティバルホールでは、ステージにオノ・ヨーコと子息のショーン・レノンが登場。ジョン・レノンの生誕50周年を記念したイベント『グリーニング・オブ・ザ・ワールド(G・O・W)』の趣旨に賛同して、佐野が作詞作曲し、三人でレコーディングした「エイジアン・フラワーズ」をステージで披露した。なお、東京ドームで開催された『グリーニング・オブ・ザ・ワールド』でも共演を果たしている。
1991年、過去のバラードの再アレンジも含めたアルバム『スロー・ソングス』発売。その一方で、佐野本人が「空白の一年」と呼ぶように、この時期はしばらく音楽活動から離れている。その後、新作レコーディングをスタートする前に、ノンプロモーショナルな全国ツアーとして「シー・ファー・マイルズ・ツアー パートI」を1月から4月まで決行。オーディエンスとのコール&レスポンスを通じて、創作的な悩みやスランプを断ち切ったという。
10代のイノセンスとその円環を描いた2作品
[編集]1992年には、2年ぶりのオリジナルアルバム『スウィート 16』を発売。活気に満ちた明快なロック/ポップ曲が詰まったこのアルバムは、ロック音楽の大きなテーマである10代のイノセンスが持つ高揚感と孤独感が、佐野本人の中で対象化されたことでより密度の濃い表現として結実している。一般的な評価も高く、第34回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を受賞。また『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に収録の「約束の橋」がドラマ主題歌に選ばれたことから、カップリングに「スウィート 16」を伴って再リリース、オリコン4位を記録。急遽、「VISITORS」以降「約束の橋」を含むヒット曲の詰まった「No Damage 2」もリリースされる。『スウィート 16』を携えての全国ツアー「シー・ファー・マイルズ・ツアー パートII」が1992年9月から翌年1月まで行われ、各地で精力的なパフォーマンスを展開し見事な復活を遂げた。
さらに1993年11月には、佐野元春としては異例の短いインターバルでアルバム『サークル』がリリースされる。これは前作『スウィート 16』と、音楽的にも感情的にも表裏一体となるもので、ソウルやゴスペル、リズム&ブルース色が色濃い作品となっている。詩の内容も、各曲の底辺には慈悲の思いが流れており、『スウィート 16』で歌った10代のイノセンスが、経験と成長を経ながら大きな円環を描いて受け継がれていく「circle of innocence」という考えが、作品のテーマとなっている。なお、収録曲「レインガール」はトヨタ・カルディナのCMソングに起用され、佐野自身もCMに登場した。シングル「彼女の隣人」もコンビニのCMに使用された。
ザ・ハートランドの解散〜新たな可能性の追求
[編集]1993年12月から1994年4月まで「ザ・サークル・ツアー」が行われる。このツアーに先立ち、1993年10月には東京・渋谷公園通りで突然のシークレットライブを決行。その後も学園祭でのライブや「アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against Aids '93」でのステージアクトをこなすなど、さまざまな規模のライブ活動が精力的に行われた。このツアーの中で、ザ・ハートランドの演奏も成熟の極みを迎え、バンドの一体感もピークを迎えた1994年4月、バンドの解散が発表された。同年9月に解散ライブ「Land Ho !」を、所縁の地である横浜スタジアムで行う。
1995年3月、バンド解散後の初のアピアランスとして、神戸震災の被災者チャリティ・コンサートに出演。3月13日にはインターネット時代の本格到来に先駆けて国内初のアーティスト・公式サイト「Moto's Web Server」を開設。ファン有志によって作られたこのWebサイトは、佐野元春が権利を有する音楽・映像・写真などの使用が認められたオフィシャル・ファンサイトとして、現在もボランティアスタッフにより運営。インターネットを通じて音楽流通やプロモーションの新しい形を提示している。
1996年には、新しいバンドやアーティストとのコラボレーション活動も積極的に展開している。8月には佐野が主催するロック・イベント「THIS!」を東京・赤坂BLITZで開催。1996年から1998年まで3回開催されたこのイベントは、優秀な新人のショーケース・ライブとして、山崎まさよし、Dragon Ash、TRICERATOPS、Coccoなど後に第一線で活躍することになるアーティストが多数出演した。また、トリビュートアルバム・ブームの先駆けとも言うべき佐野のトリビュートアルバム「BORDER」が制作・発売された。これは佐藤奈々子が企画したもので、彼女の呼びかけに応えたザ・グルーヴァーズ、川村かおり、GREAT3、ヒートウェイヴ、プレイグスらが参加。それぞれ佐野楽曲の新解釈を披露し、単なるカバーアルバムを超えた質の高い内容になっている。
The Hobo King Bandの結成
[編集]新作のレコーディング作業を続けていたこの時期、レコーディングセッションを通じて集まったメンバーのよる新バンド「INTERNATIONAL HOBO KING BAND」(その後何度か改名の後「The Hobo King Band」という名称に落ち着く)が結成される。1996年1月に「INTERNATIONAL HOBO KING TOUR」が行われ、7月にはハートランド解散後初のアルバムとなる『フルーツ』をリリース。それまでのオリジナルアルバムの中でもっとも多い収録曲数となる全17曲は、もともと指向が広い佐野の音楽性が全面に出され、自由な音楽スタイルに彩られながら、いずれも2分から3分のポップソングとして結実。ザ・ハートランド解散後の新しいスタイルが早くも提示された。また、このアルバムはミュージック・マガジン誌で年間ベストアルバムNo.1に選出されるなど、現在も評価の高い作品である。
1996年9月から年末にかけて、The Hobo King Bandとともに全国ツアー「Fruits Tour」を行う。さらに12月には日本武道館、大阪城ホール、横浜アリーナというアリーナクラスの会場で「Fruits Punch」を敢行。中でも特筆すべき点として、日本武道館では国内初のインターネット・ライブ中継をボランティアスタッフが手持ちの機材で実施した。
「フルーツ」プロジェクトを終えた佐野とThe Hobo King Bandは、さらにバンドとしての音楽的結束を固めるため、メンバー全員の共通項と言える、ウッドストック周辺のアメリカンロックに軸足を置き、1997年夏に渡米。ザ・バンドやジャニス・ジョプリンの出世作を手かげた伝説のプロデューサーであるジョン・サイモンを迎え、ウッドストックにてアルバム『ザ・バーン』を製作。1997年12月にリリースした。
アルバムタイトルである「Barn(納屋)」が示すとおり、アルバム制作はウッドストックのベアズビルにある納屋を改造したスタジオに住み込み状態でレコーディング進められるという、ウッドストック産のマナーに沿ったものであった。近くに住むガース・ハドソン(ザ・バンド)、ジョン・セバスチャン(The Lovin' Spoonful)、エリック・ワイズバーグらがスタジオに訪れてはセッションに参加するなど、贅沢な環境で作られた。アルバムは、その完成度もさることながら、アメリカン・ロックに対するリスペクトの念に溢れたものであり、また1990年代後半に台頭してきたオルタナティブカントリーという新しい流れに呼応した姿勢は、音楽評論家筋から高く評価されることになった。
翌年初頭である1998年1月から4月にかけて「The Barn Tour」を行う。中でも3月29日に行われた大阪フェスティバルホールでのライブでは、この日のためにジョン・サイモンとガース・ハドソンが来日。ジョン・サイモンはタンバリンで、ガース・ハドソンはアコーディオンで演奏に参加するというサプライズがあった。また、ステージ袖で佐野のパフォーマンスを見ていたジョン・サイモンが、ステージ上にあるプロンプター(歌詞などを映す画面)に「Elvis loves you」というメッセージを演奏中の佐野に贈ったというエピソードもある。
デビュー20周年
[編集]デビュー20周年を目前とした1999年、佐野は「どうしても20周年前に一枚アルバムを作っておきたかった」という思いから、プライベートスタジオを作り、MacとPro Toolsを核としたデジタルレコーディングシステムを構築。そこでさまざまな楽曲のレコーディングを始める。これは、ウッドストックで経験したホームメイドレコーディングを個人で実践するというテーマでもあった。
こうして出来上がっていった作品群が結実したアルバム「ストーンズ・アンド・エッグス」を1999年8月にリリース。ほぼすべての楽器演奏やプログラミングを自身が行っただけあり、いわゆる“佐野元春流ポップミュージック”の集大成的サウンドとなった。一方、詩の面では、次第に混乱していくこの国の現実と、その中でサバイバルする人々をスケッチした作風が増えてきており、この視点は後の「ザ・サン」「コヨーテ」に脈々と繋がっていく。また、「GO4 Impact」ではDragon Ashの降谷建志とのコラボレーションも話題となった。
1999年8月には、国内初の有料インターネットライブ「The Underground Live」を開催。続く12月には、ファンへの感謝を込めたメッセージ曲「イノセント」がソニー・ミュージックエンタテインメントより国内初の有料音楽ダウンロードとして販売。数年後に活発化する音楽のネット販売を見据えたアクションとして注目を集めた。
デビュー20周年となる2000年は、それまでの活動を総括する作品が多くリリースされた。まず1月には、それまでの代表曲32曲をリミキシングとリマスタリングしたアルバム「The 20th Anniversary Edition 1980-1999 his words and music」がリリースされ、1月から3月までは20周年記念の「The 20th Anniversary Tour」を全国で9公演行う。9月には主要なクラブミックス、ダンスミックス・ヴァージョンを集めたコンピレーション・アルバム「Club Mix Cllection 1984-1999」をリリース。続く11月には、佐野元春ミュージックとしてはサブストリーム作品でありながら佐野元春の本質を現した曲群を集めたコンピレーション・アルバム「GRASS」をリリース。さらに12月にはスポークン・ワーズ作品を集めた編集版「Spoken Words Collected Poems 1985-2000」を発売。20年間の活動は、分かりやすくひとつの形に収めることができない多岐に渡る活動だったことが、これらの作品群を通してようやく明示されたといえる。
また、初期の主要作品を発表してから20周年にあたる年に、20周年記念盤をリリースするというアクションも行われている。2002年5月にはアルバム『サムデイ』の発売20周年を記念した「Someday Collector's Edition」を発売。デモトラックなど未発表音源と当時の詳細な資料がパッケージされた。その後も80年代に発表した重要なアルバムである『ヴィジターズ』『カフェ・ボヘミア』『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』がそれぞれ20周年記念盤としてリリースされ、ニューヨークで制作された「コンプリケーション・シェイクダウン」の未発表PVや、『カフェ・ボヘミア』制作時に訪れたパリでのプライベートフィルム、横浜スタジアムで行われた「ナポレオンフィッシュツアー」の模様など、その時々の貴重な映像がDVDの形で収録されている。
20年の活動を経て迎えた、新たな変革期
[編集]2001年、21世紀最初の作品となるべく新作のレコーディングをThe Hobo King Bandとスタートする。バンドにはザ・ハートランド時代からの旧友、古田たかしがドラムで参加。サックスに山本拓夫が参加。レコーディングの模様は逐一「Moto's Web Server」でレポートされていった。
2001年3月、坂本龍一の呼びかけの元、地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加し、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。坂本龍一氏による地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」の制作にも参加する。
9月11日、世界の衝撃を与えたアメリカ同時多発テロを受け、すぐさま「光 - The Light」を書き下ろす。祈りと慈悲と癒しが交差するこの曲は、プライベートスタジオで多重録音され、ラフミックス後すぐにMoto's Web ServerからMP3無料ダウンロードでネット配信された(現在はiTunes Storeで販売)。この動きに異を唱えた所属レコード会社との交渉の末、9月18日〜30日までの期間限定配信となったが、一週間で10万件近くがダウンロードされることとなった。9月21・22日には、井上鑑らとスポークンワーズライブ「In Motion 2001-植民地の夜は更けて」を鎌倉芸術館で行う。ライブの趣旨は、それまでのスポークンワーズ作品をライブで演奏するというものであったが、10日前に起こった悲劇はライブにも影響し、佐野のパフォーマンスは研ぎ澄まされたものとなっていた。また、オーディエンスを前に「光」を演奏している。
自主レーベル「デイジーミュージック」設立へ
[編集]2003年には、デビュー以来所属していたレーベル、エピックレコードジャパンの25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」に参加するも、当時大きな話題となったCCCD問題などでレーベルの決定と意見の対立が発生。翌年2004年6月にはエピックレコードを離れ、自主レーベル「デイジーミュージック」を発足する。原盤制作および管理は自主レーベルで行い、宣伝と流通はメジャーレコード会社に委託するという、世界的に進むアーティスト主体のメジャーインディペンデントな考えを実践したレーベル形態となっている。
2004年7月21日にはデイジーミュージックからの第一弾アルバムとなる『ザ・サン』が、4年半ぶりの新譜としてリリースされる。これから家庭を持とうとしている男や、独り身で子供を育てる女性、新しい世代に対して新しい指針を残そうとする立場、毎日の仕事や生活の中で自分を見失いそうになる人など、曲毎にさまざまな人物の視点で描かれた短編集のような作りになっている。そしてそれらはすべて「2004年の日本」を生きる人々の歌であり、自由の追求、「連帯」がもつ陰と陽の部分、そして夢を見る力をもつことの尊さが、巧みなロック表現でもって歌われている。
2004年10月から2005年にかけて全国30公演で行われた「THE SUN TOUR 2004-2005」を行う。二部構成のステージとなったこのツアーは、The Hobo King Bandに古田たかし(Dr.)と山本拓夫(Sax)が加わったことで、一部の佐野元春クラシックではThe Heartland時代からお馴染みのライブアレンジが次々と再現され、続く第二部ではアルバム『The Sun』がディテールを含めて完璧にライブで再現された。巧みにスィングしながら縦横無尽に演奏を繰り広げるジャムバンド的な側面も色濃くなり、現在まで続くThe Hobo King Bandのバンドサウンドが確立されたツアーとなった。
2005年夏には、ap bank主催による「ap bank fes '05」や埼玉県狭山市で開催された「ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル2005」など音楽フェスティバルに意欲的に参加。また、この年に日本上陸となったiTunes Music Store(現iTunes Store)へ、インディペンデントレーベルとして最初の参加表明をするなど、インターネット時代のレーベルとしてその基盤を着実に整備していった。
『COYOTE(コヨーテ)』の誕生
[編集]2005年9月から新作のレコーディング作業を開始する。バンドは盟友The Hobo King Bandではなく、ノーナ・リーヴスの小松シゲル(Dr.)、GREAT3の高桑 圭(Bass)、Mellowheadの深沼元昭(G.)という、佐野元春の音楽を聴き続けてきた若い世代のミュージシャンとのレコーディングセッションが続けられた。その最初の成果として2005年12月に3トラックEP「星の下 路の上」がリリースされる。こうした世代を超えたミュージシャンやソングライター同士の連帯は、翌年のポッドキャスト番組「MUSIC UNITED」を経て、深沼元昭、山口 洋(ヒートウェイヴ)、藤井一彦(ザ・グルーヴァーズ)の三人がボーカルとして参加した音楽プロジェクト「MusicUnited.」にまで発展していく。
新作レコーディングを続ける一方、全国ツアーも精力的に展開。The Hobo King Bandに女性コーラスグループ「T.T.Sisters」を加え、2006年1月から4月まで全国ツアー「星の下 路の上」を全13公演行う。千秋楽となった東京国際フォーラムの公演では3時間以上に及ぶステージを披露し、その模様は2枚組DVD「TOUR2006 星の下 路の上」でノーカット完全版として発表された。また、同年11月には「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2006」に出演し、ザ・ビートルズの「Come Together」を演奏。また、年末には音楽雑誌「ロッキング・オン」のイベント、「COUNTDOWN JAPAN 06/07」に出演した。続く2007年も新作レコーディングと並行して「札幌市民会館 最後の日」や東京・新宿コマ劇場での「サンボマスター vs 佐野元春」で演奏するなど、精力的な活動が続けられた。
続く6月には新レーベル体制になってから2作目となるフルアルバム『COYOTE(コヨーテ)』が発表される。前作『ザ・サン』で見せた、さまざまな登場人物の喜怒哀楽をスケッチする手法から大きく転換し、「コヨーテ」と呼ばれるアウトロー的な男の視点で描かれた「架空のロードムービーのサウンドトラック」というコンセプトが貫かれている。収録された全12曲はいずれも、言葉が折り重なりながら強力な世界観を紡ぎ出すビート詩をもち、サウンドの面でも今までの佐野元春作品とは違った形のコンテンポラリーなデザインとなっている。特にタイトルトラックである「コヨーテ、海へ」という7分にも及ぶロックバラッドは、シンガーソングライター佐野元春がひとつの到達点に達したと大きな評価を得た。
この「コヨーテ」というコンセプトはアルバムだけに留まらず、それまでのスポークン・ワーズ作品をすべて集めたボックスセット『BEATITUDE』、佐野元春の言葉と音楽について纏めた書籍「ビートニクス - コヨーテ、荒れ地を往く」でも根底に流れる共通のコンセプトとなっている。
デビュー30周年に向けた動き
[編集]新作アルバムを発表した直後には必ずアルバムプロモーションのツアーを行っていたが、『コヨーテ』リリース後に同作品を主体にしたツアーは行われず、2008年1月から3月までThe Hobo King Bandと共に全国22カ所を回るツアー「Sweet Soul Blue Beat」が行われた。最近では演奏されなくなっていた80年代のレア曲やライブ定番曲、そしてThe Hobo King Band結成以降の楽曲から構成され、いずれの公演も3時間にも及ぶステージが展開された。
一方、母校である立教大学の文学部客員講師として、詩作などのクリエイティブライティングに関する講義「文学講義412〜詩創作論2〜」を受け持つ。この活動は現在も形を変えて続けられており、70年代から活躍する国内のソングライターを招いて、それぞれの創作の核心に迫るというオープン講座が定期的に開催されている。
2009年3月31日には、佐野元春の主たる活動のひとつであるラジオDJが古巣のNHK-FMで復活。かつての「サウンドストリート」時代のサブタイトルであった「元春レイディオ・ショー」と銘打たれた音楽番組は、「サウンドストリート」時代から数えて実に22年ぶりとなる。
人物像
[編集]- 誕生日は、エルビス・プレスリーのデビューアルバム「ELVIS PRESLEY」の発売日と同じ日である。
- ボソボソとした口調で淡々と平板な、それでいてリズミカルな独特の語り口で、若手ミュージシャンにものまねされることが多い。インタビューなどで『.....そうだね...』と答えるのが口癖。一方で、「個性を全面に出して無理に盛り上げる」口調のミュージシャンが多い中、佐野の「テンションが低くて聞きやすい」話しぶりは、ラジオDJとしては、最適でもある。
- 現代においてビート詩とロック音楽の融合を実践する数少ない存在。生前の諏訪優と交流を持ち、アレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コルソー、ゲイリー・スナイダーにインタビューを行うなど、ビートニクスへの造詣も深い。2007年の著書『ビートニクス』は、ビート派の作家・詩人たちについての本であり、ジャック・ケルアックが旅した地を再訪した文章や前述したインタビュー等が収録されている。
- インターネットに対する意識が高く、1995年には早くもオフィシャルサイトを開設。日本では最も早くウェブサイトを持ったアーティストの一人となった。ネット経由での作品販売などに関しても先駆的な取り組みを見せている。
- 株式会社ロッキング・オン社長の渋谷陽一は、ROCKIN'ON JAPANを刊行する際「第一号の表紙は絶対に佐野元春しかいないと思っていた」と語っている。一方で渋谷は、デビュー前の佐野に評論家の見地から苦言を呈してもいる(『ロックは語れない』新潮文庫)。
- 少年時代は、夢と現実の区別があまりはっきりしない情緒不安定な子供だった。
- 高校時代、家出をし横浜でパントマイマーと共に暮らしていたことがある。
- 他者に楽曲を提供する際に「Holland Rose」というペンネームを使うときがある。この名前は、佐野がDJを務めるラジオ番組に小学生リスナーが送ってきたリクエストハガキで「ホール&オーツ」を間違えてホーランドローズと書いていた微笑ましいエピソードをヒントに付けたという。
- 「クリスマス・タイム・イン・ブルー」の、自ら書いたライナーノートでは「クリスマスといえば、パーティでピアノを弾いて演奏するだけで、楽しい思い出はない」とある。
- 『スウィート16』は、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。しかし、本人がこのことを知ったのは、受賞から2年後。マネジメント事務所の隅にひっそりと置いてあったトロフィーを見てはじめてその事実に気づいたという。
- エピックレコードの全盛期、同レーベルの大ボスとして、同所属歌手(渡辺美里や大江千里など)から敬意を表されている。渡辺美里は自身のインタビューが編集者によって編集されて、自身の発言とまったく違った言葉が雑誌に載っていたことを悲しみ、佐野にその事を告げると、「あっ、そういう事がこれからあったら僕に言って」と渡辺美里に話したと言う。後輩のよき相談相手でもあったようだ。
- スポーツ界にも佐野を支持する人が多く、松井秀喜、野茂英雄、吉井理人、武豊は佐野のファンであることを公言している。
- 「霧の中のダライラマ」の曲名が示すとおり「チベット自由と人権の集い」に賛同者として名を連ねており、中国によるチベット侵略に抗議しチベット民族に対する人権侵害に反対している。
- 基本的にテレビに出演することは少ないが、そこで繰り出される独自の視点でのトークは非常に印象的でHEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMPに出演した時はダウンタウンの松本人志に(トークについていけないので)「佐野さんホンマ勘弁してくださいよ」と泣きを入れられた。
- この時、海岸を散策していた時に佐野を遠くから見つめる野生動物に向かって「こっちへ来いよ」と呼びかけたことをダウンタウンに激しく突っ込まれ、年末の特番では「動物愛護賞」を授与されていた。
- 再度同番組に出演した際には「時々、何突っ込まれているのかわからない時がある」と言い放ち、松本・浜田をコケさせた。
- 2006年から2007年9月まで、DonDokoDonの山口智充が司会を務める「MusiG」(よみうりテレビ製作・日本テレビ系)にて、レギュラー出演をしている。2007年、佐野と山口、山本耕史の3人によるユニットThe Whey-hey-hey Brothersを結成し、1枚のシングルを出した。
- 「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」に出演したときに肺活量を量ったところ5.27ℓであった。(ちなみに、50歳代男性の平均は3.7ℓ。)
- レンコンチップが大好物。「死ぬほど食べてみたい」(元春)
楽曲解説
[編集]SOMEDAY
[編集]1981年発売のシングル。発売当時チャート84位とセールス的に振るわなかったが、後に同名のアルバムがヒットしたこともあり代表作の一つとなった。90年代には『CREA』誌の音楽特集で歴代2位にランクされ、21世紀に入ってもCMや映画の挿入歌で使用されるなど息の長い人気曲となっている。 ライブの定番曲でもあり、佐野の思うところから一時期封印したこともあったが後に復活。「THE SUN」ツアーの最終公演では、アンコールでこの曲を披露する前に「10代には10代、20代には20代、…50代には50代の『いつかきっと』があるんじゃないかって、最近思い始めている」と目に涙を浮かべながら語り、発表から時間を経て広く愛された曲が、自身と聴き手にとって新たな意味を持つに至った事実を噛みしめた。佐野の父親が初めて『いい曲だな』と褒めた曲である。
『行列のできる法律相談所』において「東野幸治石垣島トライアスロン」プロジェクトのイメージソングとなっている[5]。
Young Bloods
[編集]1985年発表のシングル。国際青年年のテーマソングに選ばれてNHKで繰り返しスポットが流されたこともあり、最高位7位と佐野にとって初のトップ10入り作品となった。また、印税をアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付するなど話題を呼んだ。渡米期間中におこったMTVの人気に影響を受け、モノクロのビデオクリップ(プロモーションビデオ)を制作。早朝の代々木公園で演奏するこのビデオクリップは、佐野作品の中でも人気が高い。
約束の橋
[編集]1989年発表のシングル。当時スランプに陥っていた自身を励ますために書かれた。92年にTVドラマ「二十歳の約束」の主題歌となったためボーカルなどをレコーディングし直して再リリースされ、最高位4位を記録。トップ3には入らなかったものの、佐野にとって最大のヒット曲となり、同年に発表されたアルバム「sweet16」「No Damage II」とともに新規ファンの獲得に大いに貢献した。そのようなこともあってか、世間では「SOMEDAY」と並ぶ代表曲として認知されている。89年リリースのシングルはアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」に収録されたバージョンと基本的に同じだが、曲冒頭のカウントがカットされている。
ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
[編集]1989年発表のシングル。同年に先行して発表されたアルバムの表題曲であり、結果として佐野元春が発表したアルバムとしては初めて日本語を含む表題を用いることとなった。同タイトルのライブツアー以降も幾度もライブで演奏されており、THE HOBO KING BAND 結成以降は編曲を大幅に見直した新たなバージョンが披露されている。オリジナルとなるシングル・バージョンは、強烈なドラムと派手なホーンが織り成すイントロと、抽象的な言葉をラップに類似した歌唱でビートに乗せる中間部分が強い印象を与えるポップチューン。なお、シングル盤[6]の歌詞カードで「奇妙なゼスチャー」、2008年発表の限定編集版[7]の歌詞カードで「奇妙なジェスチャー」となっている部分が、佐野元春公式サイトが公開している歌詞[8]では「奇妙なフェスタ」となっており、公的と言えるそれぞれの文書で明らかな違いが生じる状態となっている。
ジャスミンガール
[編集]1990年発表のシングル。このタイトルについて佐野は「当時著名なアーティストの中で『~ガール』という曲に素敵な曲がいっぱいあったんだ。山下達郎さんの『高気圧ガール』のようにね。だから僕も、『~ガール』という曲を作りたいと思ってね。でも、最初『ジャスミンガール』を作った時の仮タイトルは、『クレソンガール』というタイトルだったんだよ(笑)」と懐述している。
ディスコグラフィ
[編集]オリジナル・アルバム
[編集]- バック・トゥ・ザ・ストリート(1980年4月21日・ESCB-1320)
- ハートビート(1981年2月25日・ESCB-1321)
- サムデイ(1982年5月21日・ESCB-1322)
- ヴィジターズ(1984年5月21日・ESCB-1324)
- カフェ・ボヘミア(1986年12月1日・ESCB-1325)
- ナポレオンフィッシュと泳ぐ日(1989年6月1日・ESCB-1326)
- タイム・アウト!(1990年11月9日・ESCB-1111)
- スウィート 16(1992年7月22日・ESCB-1308)
- サークル(1993年11月10日・ESCB-1456)
- フルーツ(1996年7月1日・ESCB-1741)
- ザ・バーン(1997年12月1日・ESCB-1849)
- ストーンズ・アンド・エッグス(1999年8月25日・ESCB-2022)
- ザ・サン(2004年7月21日・POCE-9380)
- コヨーテ(2007年6月13日・POCE-9381)
シングル
[編集]- アンジェリーナ C/Wさよならベイブ(1980年3月21日・06.5H-31)
- ガラスのジェネレーション C/W IT'S ALIRIGHT(1980年10月21日・07.5H-53)
- NIGHT LIFE C/W GOOD VIBRATION(1981年2月25日・07.5H-67)
- SOMEDAY C/W BYE BYE HANDY LOVE(1981年6月25日・07.5H-84)
- ダウンタウンボーイ C/W スターダストキッズ(1981年10月21日・07.5H-101)
- 彼女はデリケート C/W こんな素敵な日には(On The Special Day)(1982年3月21日・07.5H-110)
- SUGARTIME C/W WONDERLAND(WALKMANのテーマ)(1982年5月21日・07.5H-115)
- HAPPY MAN C/W マンハッタンブリッジにたたずんで(1982年8月25日・07.5H-133)
- スターダストキッズ C/W SO YOUNG(1982年11月21日・07・5H-140)
- グッドバイからはじめよう C/W モリスンは朝、空港で(1983年3月5日・07.5H-150)
- TONIGHT C/W Shame君を汚したのは誰(1984年4月21日・07.5H-197)
- TONIGHT(Special Extended Club Mix) C/W TONIGHT(Instrumental Version)(1984年4月21日・12.3H-118)
- COMPLICATION SHAKE DOWN C/W WILD ON THE STREET(1984年6月21日・07.5H-205)
- COMPLICATION SHAKE DOWN(Special Dance Mix) C/W WILD ON THE STREET(Special Club Mix)(1984年6月21日・12.3H-130)
- VISITORS C/W SUNDAY MORNING BLUE(1984年9月21日・07.5H-214)
- NEW AGE C/W COME SHINING(1984年11月21日・07.5H-230)
- Young Bloods C/W YOUNG BLOODS(Hello Goodbye Version)(1985年2月1日・07.5H-231)
- YOUNG BLOODS(Speacial Extended Club Mix) C/W YOUNG BLOODS(7inch Version N.Y.Mix) / YOUNG BLOODS(Instrumental)(1985年3月21日・12.3H-158)
- リアルな現実 本気の現実 C/W DOVANNA(1985年6月21日・07.5H-252)
- Christmas Time In Blue-聖なる夜に口笛吹いて- C/W Christmas Time In Blue(Vocal Original Version) / Christmas Time In Blue(Instrumental Orchestra Version)(1985年11月21日・12.3H-200)
- STRANGE DAYS-奇妙な日々 C/W アンジェリーナ(SLOW VERSION)(1986年5月21日・08.5H-300)
- SEASON IN THE SUN-夏草の誘い C/W LOOKING FOR A FIGHT-ひとりぼっちの反乱(1986年7月21日・08.5H-302)
- WILD HEARTS-冒険者たち C/W SHADOWS OF THE STREET(1986年9月21日・08.5H-304)
- 99ブルース(Extended Mix) C/W 月と専制君主(Extended Mix)(1987年6月3日・12.3H-290)
- インディビジュアリスト(Extended Mix) C/W インディビジュアリスト(Dub Mix) / インディビジュアリスト(Live Version)(1987年11月21日・12.3H-320)
- ガラスのジェネレーション(LIVE) C/W ダウンタウンボーイ(LIVE)(1988年2月26日・10.8H-3014)
- 警告どおり計画どおり C/W 風の中の友達(1988年8月18日・10.5H-3046)
- 約束の橋 C/W 君が訪れる日(1989年4月21日・07.5H-3107)
- ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 C/W ジュジュ / 愛することってむずかしい(1989年8月21日・12.8H-3134)
- シティチャイルド C/W 雨の日のバタフライ / 水の中のグラジオラス(1989年10月8日・ESDB-3001)
- 雪-あぁ世界は美しい C/W クリスマス・タイム・イン・ブルー-聖なる夜に口笛吹いて / ふたりの理由(1989年12月9日・ESDB-3056)
- Home Planet-地球こそ私の家 C/W Home Planetのテーマ(1990年8月22日・ESDB-3131)渡辺美里とのデュエット
- ジャスミンガール C/W空よりも高く(CD Single Version)(1990年10月21日・ESDB-3155)
- ぼくは大人になった C/W Sugartime(Live Version)(1991年4月10日・ESDB-3201)
- また明日… C/W ナポレオンフィッシュと泳ぐ日(Studio Live Mix) / ジュジュ (Studio Live Mix)(1992年1月22日・ESCB-1276)
- 誰かが君のドアを叩いている(Original Version) C/W 愛のシステム(Studio Live Mix) / 誰かが君のドアを叩いている('Let It Roll' Version)(1992年4月8日・ESCB-1291)
- 約束の橋 C/W Sweet16(1992年10月28日・ESDB-3339)
- 彼女の隣人 C/W レインボー・イン・マイ・ソウル(1992年10月28日・ESDB-3339)
- 十代の潜水生活-Teenage Submarine C/W経験の唄(1995年11月1日・ESCB-1680)
- 楽しい時-Fun Time C/W 楽しい時 Fun Time(千客万来バージョン)(1996年1月21日・ESCB-1715)
- ヤァ!ソウルボーイ(Original Version) C/W ダンスが終わる前に / ヤァ!ソウルボーイ(Up-Soul Version)(1996年5月22日)
- ヤング・フォーエバー-Young Forever- C/W フリーダム -Freedom-(1997年11月1日・ESDB-3791)
- ドクター C/W 誰も気にしちゃいない / ヤング・フォーエバー(アコースティック バージョン)(1998年4月22日・ESDB-3833)
- 僕は愚かな人類の子供だった(Original version) C/W 僕は愚かな人類の子供った(CMJK version) / 僕は愚かな人類の子供だった(DJ CELORY version)(1999年3月1日・ESCB-1945)
- だいじょうぶ、と彼女は言った Don't think twice it's over C/W No Surprise at all 驚くに値しない(Audio Active remixed version)(1999年7月23日・ESCB-2001)
- INNOCENT C/W INNOCENT(Remix)(1999年12月20日・ESCB-1923)
- Tonight(Live) C/W New Age(Live)(2003年2月10日・GO4CDS-1)
- 君の魂 大事な魂 C/W ナポレオンフィッシュと泳ぐ日(H.K.B.Version)(2003年12月17日・ESCL-2334)
- 月夜を往け C/W 99ブルース (H.K.B.Version)(2004年5月19日・ESCL-2507)
- 光―The Light(2005年8月17日)
- 星の下 路の上(収録曲:ヒナギク月に照らされて- DaisyMoon・裸の瞳-Blossom・星の下 路の上-Boy's Life)(2005年12月17日・POCE-3801)
コンピレーションおよび企画盤
[編集]- No Damage 14のありふれたチャイム達(1983年4月21日・ESCB-1323)
- Heartland(1988年4月21日・ESCB-1131)
- Moto Singles 1980-1989(1990年5月12日・ESCB-1064/5)
- Slow Songs(1991年8月28日・ESCB-1230)
- No Damage II(Greatest Hits 84-92)(1992年12月9日・ESCB-1342)
- The Golden Ring(1994年11月1日・ESCB-1516/8)
- The 20th Anniversary Edition(2000年1月21日・ESCB-2080/1)
- GRASS(2000年11月22日・ESCB-2190)
- In motion 2001 - 植民地の夜は更けて(2001年12月・GO4CD-2)
- SOMEDAY Collector's Edition(2002年5月22日・ESCL 2314/5)
- THE LEGEND - Early days of Motoharu Sano(2003年1月1日・ESCL-2363)
- VISITORS 20th Anniversary Edition(2004年2月25日・ESCL 2504/5)
- in motion 2003 - 増幅(2004年5月28日・GO4CD-4)
- THE SUN STUDIO EDITION(2005年8月17日・POCE-3802)
- THE SUN LIVE AT NHK HALL(2005年8月31日・POCE-3803)
- THE SINGLES EPIC YEARS 1980-2004(2006年7月12日・MHCL836/7)
- The Essential Cafe Bohemia(2006年12月6日・MHCL971-3)
- ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 限定編集版(2008年6月4日・MHCL-1325~7)
映像(ビデオ・LD・DVD)
[編集]- Truth '80~'84(VHS、LD、DVD)
- Visitors Tour '84~'85(VHS、LD、DVD)
- Cafe Bohemia Live! 1986-1987(VHS、LD、DVD)
- THE OUT TAKES(VHS、LD)
- MOTO CLIP VOL.1(VHS、LD、DVD)
- NAPOLEONFISH TOUR '89 自由への新しい航海(VHS、LD、DVD)
- LIVE TIME OUT! '90(VHS、LD、DVD)
- 1992 See Far Miles Tour part I(VHS、LD、DVD)
- 1992-1993 See Far Miles Tour part II(VHS、LD、DVD)
- Visual Expression of THE CIRCLE(VHS、LD)
- They called the band "THE HEARTLAND"(VHS、LD、DVD)
- FRUITS(VHS、LD、DVD)
- THE INTERNATIONAL HOBO KING BAND FEATURING MOTOHARU SANO IN FRUITS TOUR '96(VHS、DVD)
- THE BARN TOUR '98-LIVE IN OSAKA(VHS、DVD)
- THE 20th Anniversary Tour(VHS、DVD)
- MOTOHARU SANO LIVE ANTHOLOGY 1980-2000(VHS、DVD)
- In Motion 2001-植民地の夜は更けて(VHS、DVD)
- PLUG & PLAY '02(DVD)
- THE SUN LIVE and RECORDINGS(DVD)
- THE VIDEOS EPIC YEARS 1980-2004(DVD)
- TOUR2006「星の下 路の上」(DVD)
ラジオ番組
[編集]- サウンドストリート「元春 Radio Show」(NHK-FM 毎週月曜PM10:00~ 1980年 - 1986年)
- Heartland Hour(FM横浜 毎週日曜日AM10:00-11:00 1985年 - 1987年)
- AJI FMスーパーミクスチャー(TOKYO FM 毎週日曜日PM3:00-3:55 1987年 - 1989年)
- Asahi Beer Tasty Music Time(TOKYO FM 月曜~金曜PM11:00-11:20 1990年 - 1991年)
- Toyota Radio Fish(TOKYO FM 毎週土曜日PM8:00-8:55 2002年10月-2005年3月)
- 元春レイディオ・ショー(NHK-FM 毎週火曜PM11:00~AM0:00 2009年3月31日 - )
CM出演
[編集]他アーティストへの提供曲
[編集]- 松田聖子 - 「ハートのイアリング」(作曲のみ、「Holland Rose」名義)
- 松田聖子 - 「今夜はソフィスケート」(作曲のみ、「Holland Rose」名義)
- 松原みき - 「スーヴェニール」(作曲のみ)
- 伊藤つかさ - 「ストロベリーフィールド」(作曲のみ、「Holland Rose」名義)
- Romy - 「California」(作曲のみ、「Holland Rose」名義)
- BaBe - 「Silent Dancer」(作詞のみ、「Holland Rose」名義 アルバム「Fight!」に収録)
- 片岡鶴太郎 -「Looking For A Fight」(作詞・作曲)
- 吉川晃司 - 「I'm In Blue」(作詞・作曲)(カバー)
- 吉川晃司 - 「すべてはこの夜に」(作詞・作曲)(カバー)
- 山下久美子 - 「So Young」(作詞・作曲)
- 山下久美子 - 「Silver Girl」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「Vanity Factory」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「Why Oh Why」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「彼女はデリケート」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「Bye Bye Handy Love」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「I'm In Blue」(作詞・作曲)
- 沢田研二-「すべてはこの夜に」(作詞・作曲)
- バブルガム・ブラザーズ-「SOUL SPIRIT Part II」(作詞・作曲)
- ANDY's-「Freedom」(作詞・作曲・プロデュース 「MOTO」名義)
- 猿岩石-「昨日までの君を抱きしめて」(作詞・作曲 「シーズンズ」と同曲)
- 渡辺満里奈-「ダンスが終わる前に」(作詞・作曲)
- 永井真理子-「White Communication~新しい絆~」(作詞・作曲)
- 矢野顕子-「Un Jour」(作詞のみ)
- 伊藤銀次-「恋のソルジャー」(作詞・作曲)
- 金子マリ-「最後のレイディオ・ショー―Radio Days」(作詞・作曲)
- 小坂忠- 「ふたりの理由、その後」 (作詞・作曲)
共作・コラボレーション
[編集]- 「A面で恋をして」(大瀧詠一・杉真理と、「ナイアガラ・トライアングルvol.2」収録)
- 「Home Planet ~地球こそ私の家~」(渡辺美里とのデュエット。作曲は佐野元春。)
- 「また明日」(矢野顕子と、シングル。アルバム『Sweet16』収録)
- 「エイジアン・フラワーズ」(オノ・ヨーコ、ショーン・レノンとの競演。『Sweet16』収録)
- 「Angel」(ジョージー・フェイムと競演。「The Circle」収録)
- 「GO4 Impact」(降谷建志と、「Stones and Eggs」収録)
- 「石と卵」(Bonnie Pinkと、「GRASS」収録)
- 「じぶんの詩」(山口智充・山本耕史とのユニット「The Whey-hey-hey Brothers」)
- 「自転車でおいで」(矢野顕子とのデュエット。矢野顕子のアルバム「GRANOLA」収録)
- 「So Goes The Song (Love Planets) 」(ジョン・サイモンに詞を提供。ジョン・サイモンのアルバム「Home」収録)
参加作品
[編集]- 「イエロー・サブマリン音頭」(金沢明子)
- エンディングの「All Together Now NO.9」のセリフで参加。
- 「Key Station」(杉真理)
- 「I wanna be with you tonight, baby」のセリフで参加。また「佐野元春」という固有名詞が歌詞に登場する。
- 「夜を駆けぬけて」(伊藤銀次)
- 掛け合いのコーラスで参加。
- 「エンプティ・ハンズ」「Better days」(Mellowhead)
- ボーカルとして参加。
関連書籍
[編集]- 路上のイノセンス 下村誠 JICC出版局, 1986.8 文庫版 シンコーミュージック1993.6
- Scratch 伊島薫写真 CBS・ソニー出版, 1983.10
- AS 10 YEARS GO BY 渋谷陽一編 ※インタビュー集 ロッキングオンジャパン, 1990.12
- 月刊カドカワ 5月号 「総力特集・佐野元春新しい夜明け」 角川書店, 1991.
- TheCircle of Innocence 佐野元春をめぐるいくつかの輪のなかで ぴあ, 1999.3
- 時代をノックする音 佐野元春が疾走した社会 山下柚実著 毎日新聞社, 1999.3
- 佐野元春語録 1980-1999 城山隆編 メディアファクトリー, 1999.9
- 地球音楽ライブラリー佐野元春 吉原聖洋編 ※EPIC時代までのデータを網羅した解説本 TOKYOFM出版, 2004.8
- ロック画報 20 「特集・Individualist 佐野元春 」 ブルース・インターアクションズ, 2005.6
- Mostly Motoharu we will be with you ロックンロールとセンチメンタリズムの間に 25th anniversary/from 1980
岩本晃市郎 企画編集 ストレンジ・デイズ, 2006.12
著書
[編集]- ハートランドからの手紙 スイッチ・コーポレイション書籍出版部, 1990.11 文庫版/角川書店
- Diary-studio days making of“Fruits" レコーディング日誌 PARCO出版, 1996.9
- ビートニクス コヨーテ、荒地を往く 幻冬舎, 2007.9
雑誌編集
[編集]THIS …佐野元春による責任編集マガジン。発行時期や発行元、編集コンセプトの違いにより、3期に分かれる。
- 第一期 1983.4〜1984.2 全4冊 CBSソニー出版
- 第二期 1986.4〜1987.1 全4冊 扶桑社
- 第三期 1994.9〜1997.5 全12冊 扶桑社
佐野元春ファンの有名人
[編集]- 江口寿史(漫画家)……「ストップ!! ひばりくん!」に「佐野君」という当時の元春に酷似したキャラクターが数度登場。作中に「Happy man」など楽曲が用いられてもいた。
- 村上龍(作家)……「SOMEDAY」をモチーフにした「サムデイ」という作品を書いている(「トパーズ」収録)。自らホスト役を務めたトーク番組「Ryu's Bar 気ままにいい夜」にも佐野元春をゲストとして招き、対談した。
- 小川洋子(作家)……タイトルを佐野作品から採った長編「シュガータイム」、佐野元春の楽曲を下敷きにした連作短編集「アンジェリーナ」を出版している。
- 山本容子(版画家)……アルバム「Slow songs」のライナーノーツに作品が用いられた。
- 野茂英雄(プロ野球選手)……渡米後、入場テーマソングに「Wild Hearts」を用いていた。吉井理人と3人で、正月番組で対談を行ったこともある。住友生命のCM出演時には野茂自身のリクエストもあり、佐野の「経験の唄」がCMソングとして起用された。
- 松本人志(お笑い芸人)……ダウンタウンがブレイクする切っ掛けとなった関西ローカルのTV番組「4時ですよーだ」で「Young Bloods」を歌唱。また自身のラジオ番組で「(日本の音楽界への貢献を)もっと評価されていい人」と発言。ちなみにコンビ創成期(「ダウンタウン」に改名以降)の舞台での出囃子には「ダウンタウンボーイ」が用いられていた。「ダウンタウンのごっつええ感じ」では「アンジェリーナ」をカラオケで歌ったことがある。
- 沢田研二(歌手)……初期より佐野元春に注目しており、自ら曲の提供を依頼。「Vanity Factory」を提供されるとともに、本人も佐野元春のアルバムに参加。
- 爆笑問題(お笑い芸人)……大学時代の二人の共通の話題はビートたけし、サザンオールスターズ、そして佐野元春であった。佐野は彼らのラジオ番組「爆笑問題カーボーイ」にもゲストで2回出演している。「僕らの音楽」でも対談を行った。
- 尾崎豊(歌手)……元春のレコーディングスタジオに遊びに来たこともあった。88年5月1日のNHKホールで行われた元春のライブを観覧。ライブ後の楽屋へ来て花束とアンティークのラジオを元春にプレゼントした。そして尾崎の日比谷野外音楽堂でのライブ中のMCで「学校在学中は佐野元春や浜田省吾」を聴いて育ったんだ」と尾崎が影響を受けたアーティストのひとりとして佐野の名前を出していた。
- 石橋貴明(お笑い芸人)……日本テレビ「とんねるずの生でダラダラいかせて」の企画で元春に「Freedom」を書いてもらったことも。
- TAKURO(GLAY)(歌手)……1998年5月23日放送の「LOVE LOVEあいしてる」に出演した際、影響を受けたアーティストとして佐野元春を紹介。ファンクラブのイベントやライブでもカバーしてきたという『SOMEDAY』を番組内で共演。
- 堂島孝平(歌手)……2005年に中野サンプラザで行われたライブに佐野元春をゲストとして迎え、全国ツアーでも競演した。
- 小森まなみ(DJ・歌手)……自身のラジオで影響を受けた事を公言している他、愛犬に佐野の楽曲から「ハートビート」と名付ける。
脚注・出典
[編集]- ^ CUT1994年2月増刊号、bridge、68ページ
- ^ CUT1994年2月増刊号、bridge、68ページ、ロッキング・オン
- ^ CUT1994年2月増刊号、bridge、72ページ
- ^ 山口隆対談集『叱り叱られ』P.229
- ^ 元々「東野が勝手に決めた応援ソング」として起用されたが、この放送がきっかけとなり、佐野自身も後日事務所を通じてビデオで出演、最終的に清正公で使用許可を出した。このレース当日、「SAMEDAY」を沿道のBGMに起用され、更に地元のラジオ局のリクエストに最も多く寄せられた。
- ^ ナポレオンフィッシュと泳ぐ日(シングル、1989年8月21日発売、Epic、12.8H-3134)
- ^ ナポレオンフィッシュと泳ぐ日・限定編集版(アルバム、2008年6月4日発売、Sony Music Direct、MHCL 1325-6)
- ^ 佐野元春:オフィシャル・ファンサイト - Moto's Web Server >言葉・音楽 >ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 >歌詞(2008年9月20日閲覧)