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利用者:三三五五/sandbox

大神宮
所在地 茨城県那珂郡東海村村松1
位置 北緯36度27分1.63秒 東経140度35分59.69秒 / 北緯36.4504528度 東経140.5999139度 / 36.4504528; 140.5999139 (三三五五/sandbox)座標: 北緯36度27分1.63秒 東経140度35分59.69秒 / 北緯36.4504528度 東経140.5999139度 / 36.4504528; 140.5999139 (三三五五/sandbox)
主祭神 天照皇大神
天手力男命
萬幡豊秋津姫命
社格郷社
創建 (伝)和銅年中(諸説あり)
本殿の様式 神明造
別名 村松五所大明神
村松大神宮
例祭 4月7日
地図
大神宮の位置(茨城県内)
大神宮
大神宮
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大神宮(だいじんぐう)[注釈 1]は、茨城県那珂郡東海村村松にある神社。旧社格は郷社。村松大神宮とも呼ばれる。

祭神

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祭神は次の3柱[1]

主祭神
  • 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
相殿神
  • 天手力男命(あまのたぢからおのみこと)
  • 萬幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)

祭神は伊勢神宮内宮と同じである。元禄9年(1696年)、第2代水戸藩徳川光圀によって祭神が奉遷された。

それ以前は村松五所大明神として、伊勢、加茂祇園稲荷春日の5つの神社の祭神を祀っていた[3][注釈 2]

歴史

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創建時期

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平磯海岸の清浄石

創建時期については諸説ある。

最も古いものは和銅年中の創建とするものである。神社明細帳の記載によれば、和銅元年(708年4月7日平磯前浦にあった巨岩が光りその光が真崎浦にとどまった。それを住民が畏れ占ったところ伊勢の神によるものだと分かった[6]。その垂示に従い真崎浦のほとりに祠を建て、伊勢神宮の内宮から来た荒木田神主が奉仕したことを始まりとする[7]

その後、桓武天皇の御宇に奉幣があった[7]

大同元年(806年)に平城天皇より村松五所大明神の勅号を賜る[7]。鎮守開基帳ではこの年に創建されたとする。平城天皇の御宇に奇瑞があり、託宣も得ていた。それによると村松を社に望んでいたため、大同元年に平城天皇によって創建された[8]

大同2年(807年)、神宮寺である村松山虚空蔵堂(創建時の名前は村松山神宮寺)が創建される。

康平3年(1060年)、源頼義源頼家奥州征伐へ向かう際に戦勝祈願を行い、社殿の造営と神領の寄進がされる[1]。水戸藩神社録ではこの年に創建されたとする[3]

中世

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中世神仏習合が進んだことで祭祀が荒廃し、戦乱によって神領が侵犯された[6]

永享7年(1435年)、戦乱によって神殿が燃えたため神体を奥州名取郡藤塚に奉遷し、平定後に村松に戻された[7][注釈 3]。奉遷された神社は、五柱神社として残っている[9]

文明17年(1485年)、岩城常隆によって焼失する[3]。その後、長享元年(1487年)に僧である頭白によって再建される[3][注釈 4]

江戸時代

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照沼八龍神社

時期は不明だが、33石1斗9升の朱印地と24町の神地の寄進があった[1]

元禄7年(1694年)、水戸藩主徳川光圀の命により、社殿が造営された[6][注釈 5]元禄9年(1696年)、祭神が奉遷され、大神宮と尊称されるようになった。この他、神宝神器の奉納や、虚空蔵堂の奉務廃止、廃れていた祭事の復興も行われた[6]。以降、毎年正月15日に水戸藩主が参拝することが恒例となる[6]

天保4年(1833年5月2日徳川斉昭の参拝があった[6]

安政4年(1857年)、神殿の造営が起工し[1]安政7年(1860年)1月に社殿が造営された[6]

近代以降

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明治初期に社名が大神宮に改められる[3]

明治5年(1872年4月25日、郷社に列格する[6]

明治33年(1900年)3月、鳥居前からの失火によって起こった村松村大火によって社殿を消失するが[12]、翌34年(1901年)に社殿が再建される[3]。現在の社殿はこの時に再建したものとなる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 村松大神宮という表記も見られるが[1]、宗教法人の名称としては大神宮が正しい[2]
  2. ^ 「五所」は、氏子区域である照沼、長砂、横道、足崎、高野からとする説[4]や、地神五代からとする説[5]もある。
  3. ^ 戦乱は『那珂郡郷土史』では「足利佐竹の戦乱」[7]、『茨城の神社覚書 2』では「佐竹義憲(後、義仁と改名)が足利持氏と戦った時」[3]、五柱神社の由緒では「宍戸、佐竹、野口、永倉合戦」[9]となっている。
  4. ^ 同じ内容の出来事が村松山虚空蔵堂でもあった[10][11]
  5. ^ 『茨城の神社覚書 2』では元禄9年(1696年)、水戸藩の命により、それまで社殿のあった照沼(現在の照沼八龍神社の位置)から現在の位置に新たな社殿が造営されたとしている[3]

出典

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  1. ^ a b c d e 大神宮の由緒”. 2021年1月9日閲覧。
  2. ^ 国税庁法人番号公表サイト『大神宮の情報』”. 2021年1月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 鎌田啓司『茨城の神社覚書 2』1993年、52-53頁。 
  4. ^ 東海村史編さん委員会『東海村史 民俗編』東海村、1992年、792頁。 
  5. ^ 志田諄一『寺社の縁起と伝説』崙書房出版茨城営業所、2005年、41頁。 
  6. ^ a b c d e f g h 茨城県神社誌編纂委員会『茨城県神社誌』茨城県神社庁、1973年、920-921頁。 
  7. ^ a b c d e 那珂郡郷土史』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 東海村史編さん委員会『村の歴史と群像』東海村、1991年、84頁。 
  9. ^ a b 宮城県神社庁『五柱神社』”. 2021年1月10日閲覧。
  10. ^ 村松山虚空蔵堂創建千二百年記念実行委員会『村松山虚空蔵堂縁起:村松虚空蔵堂創建千二百年記念』村松山虚空蔵堂、2007年、32頁。 
  11. ^ 茨城の民話Webアーカイブ『頭白上人伝説:生まれ変わって敵を倒す』”. 2021年1月11日閲覧。
  12. ^ 東海村教育委員会『東海村誌』東海村教育委員会、1958年、152頁。