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利用者:ワーナー成増/キネマ旬報バックナンバー1983

1月上旬号[編集]

1月下旬号[編集]

2月上旬号[編集]

  • 「大学に合格 女優業を再開した薬師丸ひろ子」『キネマ旬報1983年昭和58年)2月上旬号、キネマ旬報社、1983年、42頁“復帰第一作は(中略)「探偵物語」(根岸吉太郎監督)に決定しており、2月クランクインの予定だが、(後略)” 

2月下旬号[編集]

  • 角川映画は『伊賀忍法帖』・『汚れた英雄』の劇場公開と同時にビデオ発売を行った[1]。この世界でも例のないビデオ発売に対し、全興連は映画の劇場公開に悪い影響が出ると抗議したが、角川春樹は、映画はテレビ放映・ビデオ販売・関連商品などの2次使用・3次使用をも含めて考えていく必要があると反論した[1]キネマ旬報も、〔1983年〕現在、映画が映画館産業から映画産業に変化していく過程で、莫大な製作資金の回収方法と是認している[1]
(前略)その一つは東映の正月番組「伊賀忍法帖」「汚れた英雄」の二作品が、劇場公開と同時にビデオで発売されたことだ。

これは世界にもあまり例のないことで、全興連は角川春樹氏に対し、劇場に多大な影響を与えると抗議文を送った。

— 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1983年昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社、1983年、119頁。 

3月上旬号[編集]

3月下旬号[編集]

注釈

出典

  1. ^ a b c 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1983年昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社、1983年、119頁。 
  2. ^ 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報1983年昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社、1983年、119頁。 

4月上旬号[編集]

4月下旬号[編集]

5月下旬号[編集]

6月下旬号[編集]

7月上旬号[編集]

7月下旬号[編集]

8月上旬号[編集]

8月下旬号[編集]

ねらわれた学園[編集]

劇場で販売されたパンフレットやポスターの売り上げは、ひろ子の方に分があった。たのきん3人にひろ子ひとりのパワーが拮抗していることを、興行関係者たちは見逃さなかった。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、45頁。 


翔んだカップル[編集]

最初、「翔んだカップル」は、山口百恵引退記念映画「古都」の併映作として企画されたのだが、諸々の事情から、80年夏アニメ作品「まことちゃん」と同時上映という形で公開された。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、45頁。 
配給収入8億円のヒットは、興行関係者たちにとっては予想しえぬものだったし、なぜかと言えば当時の彼らにとっては、 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、45頁。 
(前略)いら立つファンの間を埋めたのが来生たかお作曲によるその主題歌であり、TBSテレビ(五十四年一月放送)の「装いの街」と「セーラー服と機関銃・完璧版」の装いを改めた再公開であり、「翔んだカップル・完全版」と「うる星やつら」のセット公開であった。 — 竹入栄二郎「アイドル映画 データ分析」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、40頁。 

野性の証明[編集]

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公開オーディションで選ばれ、(中略)最終候補者の中では、ひろ子が最年長、当時13歳だった。(中略)時に78年2月28日のことである。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、44頁。 
(前略)2年後には高校受験を控えていた。彼女自身の意志も女優を継続していくというより、「いい思い出ができました」というものだった。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、44頁。 


(前略)ひろ子は、その点ズブの素人だったし、家庭の躾がしっかりしており、大人の挨拶の仕方もきちんと出来たし、自分の立場もよくわきまえていたので、映画の撮影中から現場のスタッフや共演者から可愛がられていた。女優としても、これから伸びる素質があるという声が高まった。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、44頁。 

女性ファン[編集]

薬師丸ひろ子のファンには、女の子が多い。なぜか。彼女は学校に通い、芸能界の仕事をしながら、あやつり人形ではなく、高校から大学に行きたい、こういう仕事をしたいという自らの意志を持ち実現化させてきたからではないか。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、46頁。 
(前略)薬師丸ひろ子はサインをするときにいわゆる芸能人らしい崩した書き方をせずに、あくまで試験の答案に記入するような、きちんとした楷書(決して旨い字ではない)で書くことに拘る”普通の”女の子だった。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、46頁。 

ユニークさ[編集]

こういう具合に年齢に即した成長を見ることのできる女優の存在はユニークといっていい。 — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、46頁。 
(前略)アイドル・スターの宿命を担いながらも、薬師丸ひろ子が、かつて吉永小百合が「キューポラのある街」で女優としてのリアリティーを一足早く獲得したのと同じように、地に足をつけた女の子として、自らのその成長過程を、スクリーンのヒロインとともに生きねばならないという、もうひとつの宿命を担ってしまったことに、誰が気づいたであろう(後略) — 高橋聰「今、スリリング…… アイドルから女優へ 薬師丸ひろ子」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、34頁。 


プロマイド[編集]

デビュー以来プロマイドの売上はベスト10以下に落ちたことがなかったが、休業宣言明け(『セーラー服と機関銃』公開時である)の82年1月にトップになって以来、(後略) — 野村正昭「ドキュメント アイドル誕生 -薬師丸ひろ子の場合 -」『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社、1983年、46頁。 

注釈

出典

9月上旬号[編集]

9月下旬号[編集]

10月上旬号[編集]

10月下旬号[編集]

11月上旬号[編集]

11月下旬号[編集]