利用者:ワーナー成増/キネマ旬報バックナンバー
1973年
[編集]配給会社 | 配給本数 | 年間配給収入 | 前年対比 | 概要 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
新作 | 再映 | 洋画 | ||||
松竹 | 48 | 28億7016万円 | — | 製作本数を極端に減らしたことで、製作・配給面で十数年ぶりに黒字になった。前年1971年の『ある愛の詩』や『エルビス・オン・ステージ』のような大ヒット作はなかったが、正月の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』、8月の『男はつらいよ 柴又慕情』、東映から借りた加藤泰監督の『人生劇場』の3番組が記録的大ヒット、そして、リバイバルの「男はつらいよ」シリーズも好稼動。松竹は「男はつらいよ」を4 - 6週間というロングで上映する修正ブロックブッキング体制だが、懸念材料は「男はつらいよ」シリーズ以外にレパートリーがないこと。意欲作『あゝ声なき友』(今井正監督)、『故郷』(山田洋次監督)/『旅の重さ』(斎藤耕一監督)は不発。東京劇場を改築し総合ビルに衣替えすることも話題となった。 | ||
29 | 15 | 4 | ||||
東宝 | 51 | 31億1010万円 | — | 自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、東宝の苦しさを露呈している。監督との再契約問題や外部監督起用問題でトラブルも発生。収入源は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配も。 | ||
46 | 5 | - | ||||
東映 | 68 | 62億6253万円 | — | 東宝・松竹を大きく引き離してのナンバーワン。3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、後任探しに苦労している。その中で日活から移籍した梶芽衣子主演『女囚701号/さそり』は成功し、新しいシリーズが誕生。高倉健との間で再契約問題があるため、高倉主演作が少なくなり、鶴田浩二作品は興行力が落ちているので、鶴田主演作も減少。 | ||
62 | 6 | - | ||||
日活 | 72 | — | — | 1年を経過した低予算のロマンポルノは、1月の日活ロマンポルノ事件で世論があおられ、興行成績も尻上がり。映画賞でベストテン入りするような内容の作品も出てきたことで、1972年の学園祭で大モテとなった。しかし、日活の累積赤字が巨額なため、不動産売却益などで、どうにか経営を維持している状態。 | ||
71 | 1 | - |
- 東宝
- 自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、未だ苦境の真っ只中。収入は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配。
- 東映
- 3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、未だにポスト藤は育っていない。
- 松竹
- 日活
- 不動産売却益などで、どうにか経営を維持。
- 1年を経過したロマン・ポルノは内容・成績も好調。
1974年
[編集]1975年
[編集]1976年
[編集]- 「1975年度日本映画/外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1976年(昭和51年)2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、111 - 118頁。
- 「1975年度日本映画/外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1976年(昭和51年)2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、118頁。「入場料金は(中略)七六年の正月には松竹、東映がそれぞれ百 - 二百円の値上げを行ったが」
- 「1975年度日本映画/外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1976年(昭和51年)2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、111頁。
- 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月。ISBN 978-4873767550。
注釈
出典
1977年
[編集]注釈
出典
1978年
[編集]2月下旬号
[編集]- 「1977年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)2月下旬号、キネマ旬報社、1978年、118 - 125頁。
- 「1977年邦画四社<封切配収>ベスト5」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)2月下旬号、キネマ旬報社、1978年、124頁。「全国配収ではありません!!」
注釈
出典
9月上旬号
[編集]- 冷泉さとし「「野性の証明」アメリカ・ロケ 体験ルポ」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)9月上旬号、キネマ旬報社、1978年、102 - 105頁。
- アメリカ合衆国カリフォルニア州パソ・ロブレス
- 米軍演習場キャンプ・ロバーツ、連日40度超炎天下
- 1978年7月18日、19日にラストシーンの撮影
- 日本側スタッフ16名+アメリカ側スタッフ40名
- 戦車9台、ジェットヘリ5台、本物の銃火器
- 特殊工作隊員役の20名
野性軍団
[編集]自衛隊員役のエキストラ(「野性軍団」と呼ばれた)を一般から募集した[1]。100メートルのウサギ跳びやフィールドアスレチック競技などによる選考を行い、全国から200人が選ばれた[1]。合格者には、アメリカへの旅費と小遣い10万円が支給された[1]。頭を五分刈りにした野性軍団は、千葉県にある陸上自衛隊・第1空挺団への体験入隊を経てた後渡米し、キャンプ・ロバーツでの撮影に臨んだ[1]。
キャンプ・ロバーツ
[編集]注釈
1979年
[編集]- 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、118 - 125頁。
- 「1978年邦画四社<封切配収ベスト5>」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、124頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト4」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、123頁。「註・〔1978年〕12月末現在。最終配収ではありません。」
注釈
出典
1980年
[編集]- 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、118 - 125頁。
- 「1979年邦画四社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、124頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、123頁。「註・〔1979年〕12月末現在。最終配収ではありません。」
注釈
出典
1981年
[編集]2月下旬号
[編集]- 「1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、112 - 119頁。
- 「1980年邦画四社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、118頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト10作品」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、117頁。「註・〔1980年〕12月末現在。最終配収ではありません。」
注釈
出典
10月下旬号
[編集]田中陽造
[編集]
注釈
出典
1982年
[編集]1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
上旬号 | ○ | ○ | ○ | ○ | ● | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
下旬号 | ○ | ● | ○ | ● | ● | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
2月下旬号
[編集]- 「1981年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、124頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト9作品」『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、123頁。
- 「1981年度日本映画・外国映画業界総決算 外国映画」『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、130頁。
- 「1981年映画物故人リスト」『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、115頁。
- 「81年映画界10大ニュース選出」『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、116 - 117頁。
- 入場者数 1億4945万人[1] - 1億5000万人を下回るワースト記録[2]。〔ただし、1987年にはワースト記録を更新する。〕 キネマ旬報は、レジャーの多様化や慢性化する構造不況、また、一般大衆が映画に対する興味を失い、映画の観客が若者中心となったことを原因に挙げている[2]。
4月下旬号
[編集]5月上旬号
[編集]5月下旬号
[編集]注釈
出典
1983年
[編集]1984年
[編集]- 「1983年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、116頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、115頁。
- 「1983年 映画物故人リスト」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、210 - 211頁。
注釈
出典
1985年
[編集]- 「1984年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、120頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、119頁。
注釈
出典
1986年
[編集]- 「1985年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、128頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、127頁。
注釈
出典
1987年
[編集]- 「1986年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、130頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、129頁。
注釈
出典
1988年
[編集]- 「1987年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1988年(昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、192頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1988年(昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、191頁。
- 入場者数 1億4394万人[1] - 1981年(昭和56年)の1億4945万人を下回る〔1988年までの〕ワースト記録[2]。レンタルを含むビデオソフトの影響が、特にヤング層の劇場離れを生じさせたとキネマ旬報は分析している[2]。
注釈
出典
1989年
[編集]- 「1988年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1989年(平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、172頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1989年(平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、171頁。
注釈
1990年
[編集]- 「1989年邦画3社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1990年(平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、176頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1990年(平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、175頁。
- 入場者数 1億4357万人[1] - 1987年(昭和62年)の1億4393万人を下回る〔1990年までの〕ワースト記録[2]。レンタルビデオの影響が大きく、また、前年からの昭和天皇のご闘病での自粛ムード、消費税導入など、映画が一般の話題になる余地がなかった[2]。ただし、入場料金の値上げがあったため興行収入は約3パーセントのアップ[2]。
注釈
出典
1991年
[編集]- 「1990年邦画3社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1991年(平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、144頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1991年(平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、143頁。
1992年
[編集]- 「1991年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。
- 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、143頁。
1989年の年間入場者数(1億4357万人)を下回る戦後最低記録となった[1]。〔ただし、翌1992年にワースト記録を更新する。〕キネマ旬報によれば、洋画が配給収入を大きく減少させたことが原因で、米国映画興行が低調だったことと連動していると分析している[2]。米国内のメディアの多様化と米映画界が大作連打主義から低予算映画へ転換したことを理由として挙げている[2]。
注釈
出典
1993年
[編集]- 「1992年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、148頁。
- 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147頁。
- 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147 - 148頁。
戦後最低を記録した前年(1億3833万人)よりも273万人減(9.2%減)となり、2年連続戦後最低となった[1]。〔ただし、1994年にワースト記録を更新する。〕邦画が281億3400万円と前年比1.1%増の配給収入となったのに対し、洋画は前年比11.5%減の342億2700万円となった[1]。洋画の中で大きなシェアを持つ米国映画が、高騰する製作費を抑えるために大作連打主義から低予算映画中心の製作体制に変更したことが影響している[1]。
注釈
1994年
[編集]- 「1993年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1994年(平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、156頁。
- 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1994年(平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、155頁。
- 2,000円(『ジュラシック・パーク』、設備の良い映画館のみ) - それ以外の映画館は1,800円[1]。
- 7月1日
注釈
1995年
[編集]- 「1994年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1995年(平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、156頁。
- 「1994年日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1995年(平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、155頁。
1992年(平成4年)の1億2560万人を下回るワースト記録。〔ただし、1996年にはワースト記録を更新する。〕
1996年
[編集]1997年
[編集]1994年(平成6年)の1億2299万人を下回るワースト記録。
- 入場者数 1億1958万人[1] - 1994年の年間入場者数(1億2299万人)を下回る戦後最低記録となった[2]。減少した入場者数に反比例するように、映画館数は、外資も含めたシネマコンプレックスの展開に伴い、前年比52館増となった[3]。
- 興行収入 1488億7000万円[1]
注釈
出典
1998年
[編集]1999年
[編集]2000年
[編集]2001年
[編集]- 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、150頁。
- 「映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、221- 131頁。
- 「2000年 映画界物故人」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、232 - 233頁。
大店立地法
[編集]2001年1月末までの開業なら適用外となるのでショッピング・センターやスーパーマーケットの駆け込み出店が相次ぎ、併設のシネマコンプレックスも急増した[1]。前年比303スクリーン増加は新記録[1]。
興行収入
[編集]日本においては、1999年までは映画の興行成績発表には配給収入が使われていたが、2000年から興行収入の発表に切り替えられた[2]。配給収入と興行収入を誤解しているケースが多かったこと、映画産業データが分かりやすくなること、配給収入での発表は日本映画界の閉鎖性と不透明さの象徴だったこと、また、世界の映画界では興行収入でデータ発表をしていることを関係者は変更理由に挙げている[2]。大ヒットの基準である配給収入10億円以上の作品の発表も廃止された[2]。
キネマ旬報によれば、1999年までは配給収入10億円以上が大ヒットの基準だった[3]。
できごと
[編集]- 1月 - 米メジャー5社、東宝東和、日本ヘラルド映画、ギャガ・コミュニケーションズ、松竹が配給収入発表から興行収入発表に切り換える[4]。
- 1月9日 - 第5回東宝シンデレラ決戦大会が開かれ、長澤まさみがグランプリ、審査員特別賞に大塚ちひろ[5]。
- 3月11日 - 日劇プラザで封切られた『トイ・ストーリー2』が日本初のDLPプロジェクターによるデジタルシネマとして上映[6]。
- 3月24日 - 松竹の経営再建3か年計画の一環で行われた希望退職募集に80名が応募[4]。
- 4月22日 - 都内初のシネマコンプレックス「シネマ・メディアージュ」がオープン[7]。
- 5月16日 - 東映が「ティ・ジョイ」の設立を発表する[7]。
- 6月30日 - 64年の歴史を持つ松竹大船撮影所が閉鎖[8][9]。
- 9月 - 東宝、東映も興行収入発表に切り換える[4]。
- 9月20日 - 中国を舞台にした『未完の対局』・『敦煌』や『風の谷のナウシカ』から『もののけ姫』までのジブリ作品の製作総指揮、また、東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務めた徳間康快(78歳)が肝不全で死去[10][11]。
- 9月22日 - 第7回平壌国際映画祭に『十五才 学校IV』で特別招待された山田洋次監督が帰国報告会見[11]。
- 9月27日 - 正月映画に予定されていた『チキン・チキン・ラン・ラン』の日本配給権が、公開予定していたUIPではなく韓国のCJエンターテイメントにあることが判明し、『チキン・チキン・ラン・ラン』は『チキンラン』に改名され、CJエンターテイメント、シネカノン、アミューズ・ピクチャーズの共同配給で2001年春に公開されると発表[11]。
- 10月5日 - 10月7日から公開予定だった『エクソシスト <ディレクターズ・カット版>』が観客に見せるクオリティに達していないとのウィリアム・フリードキン監督の意向で公開延期になる[12]。ついに11月23日に封切られ正月シーズンまで続くロングランヒットとなる[13]。
- 11月17日 - 衆議院文教委員会で民主党の石井紘基により『バトル・ロワイアル』(小説・映画)の暴力描写が青少年に与える影響を懸念する問題提起がなされる[14]。その後、政治家や大臣、深作欣二監督、東映、映倫を巻き込んだ論争となり、映画『バトル・ロワイアル』は大ヒットする[14]。
参考文献
[編集]- 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。
- 「コラムでふりかえる2000年映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。
- 「2000年映画界の出来事」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。
注釈
出典
- ^ a b 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、143頁。
- ^ a b c 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。
- ^ 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。
- ^ a b c 業界総決算 2001, p. 144.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 222.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 224.
- ^ a b 映画界の出来事 2001, p. 225.
- ^ 10大ニュース 2001, p. 222.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 226.
- ^ 10大ニュース 2001, p. 226.
- ^ a b c 映画界の出来事 2001, p. 228.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 229.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 231.
- ^ a b 10大ニュース 2001, p. 228.
2002年
[編集]- 「2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、138頁。
- 「2001年 映画界物故人」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、188 - 189頁。
できごと
[編集]- 3月31日 - 大阪市にテーマパークのユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープン[1]。
- 6月26日 - 映倫は再審要求が出ていたフランス映画『ロマンスX』を配給するプレノンアッシュに対し、改めて性行為や出産シーンに修正を加えることを要求[2]。
- 7月20日 - 『千と千尋の神隠し』が全国336館で封切られ、オープニングの週末成績は『もののけ姫』の184%[3]。
- 9月9日 - 相米慎二監督(53歳)が肺がんのため死去、遺作は1月公開の『風花』[4][5]。
- 9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件が発生[6]。
- 事件を連想させる内容のため公開が延期されたり(『コラテラル・ダメージ』・『ビッグ・トラブル』・『ブラックホーク・ダウン』)、ニューヨークで撮影中だったため日米で公開延期(『ギャング・オブ・ニューヨーク』)、世界貿易センタービルが見えるシーンがカットされたり(『ズーランダー』など)、撮影が延期され内容の見直しが行われた映画もあった[6][7]。
- ハリウッド映画人の来日中止が相次ぐ[7]。
- 米国の空港閉鎖のため、『トゥームレイダー』の宣伝で初来日したアンジェリーナ・ジョリーが日本に足止めになる[8]。
- 9月21日 - 『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督、1979年)のDVDが発売される[7]。
- 9月26日 - マイカルが民事再生法の適用申請したことについて、ワーナー・マイカル・シネマズが自社の業務継続に何の支障もないと声明発表[7]。
- 10月1日 - 三鷹市にスタジオジブリの「三鷹の森ジブリ美術館」がオープン[7]。
- 11月10日 - 『千と千尋の神隠し』が『タイタニック』の260億円を抜いて興行収入新記録を達成[9]。
- 12月1日 - 全国645館で『ハリー・ポッターと賢者の石』が封切られ、『A.I.』の週末2日間の観客動員記録と『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の週末2日間の興行収入記録を抜いて新記録を達成[10]。
周年
[編集]- 創業10周年
- ワーナー・マイカル・シネマズ - 入場料金を1,000円とする「CINEMA EXPO10」を開催[1]。
カリオストロの城
[編集]第54回キネマ旬報ベスト・テン54位、映画評論家の深沢哲也のみが投票している[11]。読者選出ベスト・テンは15位[11]。
入場料金
[編集]一般入場料金は10年間据え置かれている[12]。
東京ロケーションボックス
[編集]- 4月20日 - 映画・テレビドラマ等の都内での円滑なロケ撮影をサポートする「東京ロケーションボックス」が都庁内に開設される[13]。外国映画の利用第1号はリュック・ベッソン監督の『WASABI』[3]。
参考文献
[編集]- 「2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。
- 「コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。
- 「2001年映画界の出来事」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。
注釈
出典
- ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 179.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 182.
- ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 183.
- ^ 10大ニュース 2002, pp. 179–180.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 184.
- ^ a b 10大ニュース 2002, pp. 176–177.
- ^ a b c d e 映画界の出来事 2002, p. 185.
- ^ 映画界の出来事 2002, pp. 184–185.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 186.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 187.
- ^ a b 「コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、181頁。
- ^ 業界総決算 2002, p. 131.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 180.
2003年
[編集]修正前
2002年の『ロード・オブ・ザ・リング』に抜かれるまで松竹の興行成績の記録を保持していた[1]。
修正後
2002年の『ロード・オブ・ザ・リング』に抜かれるまで松竹の歴代興行収入(配給収入)1位だった[1][2]。
- 「映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2003年(平成15年)2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、179 - 189頁。
- 4月30日 - 新宿昭和館が70年の歴史の幕を閉じた[3]。
- 5月 - 東宝は高井英幸、東映は岡田祐介が社長に就任する[4]。
- 9月 - 大映が角川書店に買収され、角川大映映画として再出発することになった[5]。
注釈
出典
2004年
[編集]2005年
[編集]興行成績
[編集]ALWAYS
[編集]- “昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。
西岸良平の人気コミック「三丁目の夕日」(小学館・週刊ビッグコミックオリジナルにて連載中)が「ALWAYS 三丁目の夕日」として映画化される事が決定。12月2日、撮影が進む東宝スタジオ(東京・成城)にて会見が開かれ(後略) — “昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。
会見終了後に、主人公たちが暮らす街並のセットが公開されたが、総工費4億円をかけて建築されたという精巧ぶりに、詰め掛けたマスコミから感嘆の声が上がった。 — “昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。
注釈
出典
映画評論家
[編集]封切
[編集]- 掛尾良夫「BOX OFFICE REPORT 日本 「ALWAYS 三丁目の夕日」という野心的作品の成功」『キネマ旬報』2005年(平成17年)12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、172 - 173頁。
- “吉岡、小雪も大感激! D-51が目前でライブ【第18回東京国際映画祭】”. シネマトゥデイ (2005年10月25日). 2017年3月27日閲覧。
- “国内映画ランキング(2005年11月5日〜2005年11月6日)”. 映画.com (2017年11月8日). 2017年3月27日閲覧。
- “国内映画ランキング(2005年11月12日〜2005年11月13日)”. 映画.com (2017年11月15日). 2017年3月27日閲覧。
- “国内映画ランキング(2005年11月19日〜2005年11月20日)”. 映画.com (2017年11月22日). 2017年3月27日閲覧。
泣ける、と評判の「ALWAYS 三丁目の夕日」が見事首位デビュー。公開2日間の成績は、動員が16万4023人、興収で2億1418万円というもの。東宝のリサーチによると、40代の観客が37%でもっとも多いという。これはちょっとした驚きだ(以下、50代22%、20代15.6%、30代14.5%)。 — “国内映画ランキング(2005年11月5日〜2005年11月6日)”. 映画.com (2017年11月8日). 2017年3月27日閲覧。
「ALWAYS 三丁目の夕日」が今週も強い。この週末は、2日間で2億1600万円と前週末以上の興収を記録するなど、予想以上のハイ・パフォーマンスを見せている。このまま行けば、1週先に公開された「春の雪」を上回るのは確実で、最終的に興収20億円に達する可能性も十分ある。 — “国内映画ランキング(2005年11月12日〜2005年11月13日)”. 映画.com (2017年11月15日). 2017年3月27日閲覧。
続映作品では、「三丁目の夕日」「消しゴム」「ブラザーズ・グリム」の上位陣がトップ3の座をキープした。 — “国内映画ランキング(2005年11月19日〜2005年11月20日)”. 映画.com (2017年11月22日). 2017年3月27日閲覧。
外部リンク
[編集]- “『ALWAYS 三丁目の夕日』特集:『ALWAYS 三丁目の夕日』3部作で見る昭和と人情ドラマ”. シネマトゥデイ (2014年5月23日). 2017年3月27日閲覧。
できごと
[編集]- 3月17日 - 角川ホールディングスが日本ヘラルド映画の完全子会社化を発表する[1]。
- 9月7日 - インデックスが日活を買収することを発表する[2]。
- 12月10日 - 丸の内ルーブルがネーミングライツを久光製薬に売却し、サロンパス ルーブル丸の内に改称された[3]。
- 11月26日 - 大型新人女優発掘オーディション「松竹STAR GATE」で海老瀬花子がグランプリ[4]。
- 12月4日 - 角川映画とソニー・ミュージックエンタテインメントの共同企画「スーパー・ヒロイン・オーディション ミス・フェニックス」で蓮佛美沙子がグランプリ[4]。
- 12月9日 - 新藤兼人賞の授賞式が行われた。金賞は『真夜中の弥次さん喜多さん』の宮藤官九郎[5]。
注釈
出典
2006年
[編集]- 掛尾良夫「BOX OFFICE REPORT 日本 2006年正月興行、前半戦の状況」『キネマ旬報』2006年(平成18年)1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、188頁。
- 「2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2006年(平成18年)2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、178頁。
- 「コラムでふりかえる2005年映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2006年(平成18年)2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、215 - 225頁。
- シネコンを展開するヘラルド・エンタープライズを傘下に収めたことで、角川グループが製作・配給・興行まで行う邦画第4のメジャーとなった[1]。
- 7月24日、豊田利晃監督が覚せい剤取締法違反(所持)で現行犯逮捕される[2]。豊田監督の映画『空中庭園』は公開延期、または、お蔵入りの可能性もあったが、公開を望む声に応えて10月に公開された[2]。
- 東京日比谷の東宝本社ビルの改築のため、下記2館が閉館する。
2006年3月、シネマヴェーラ渋谷で「女優 薬師丸ひろ子の軌跡」と題する特集上映が行われた[4]。
イラストレーターの安西水丸は『ホテル・ルワンダ』が満員だったので仕方なく鑑賞した[5]。役者達の演技は皆よかったが、鈴木一平役の小清水一輝と母親役の薬師丸ひろ子が印象的だったと書いている[5]。
2007年
[編集]2008年
[編集]2009年
[編集]2010年
[編集]- 一般入場料金は18年間据え置かれている[6]。
注釈
出典
- ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 217.
- ^ a b 映画界10大ニュース 2005, p. 221.
- ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 224.
- ^ 「WORLD NEWS 日本」『キネマ旬報』2006年(平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、19頁。
- ^ a b 安西水丸「安西水丸の4コマ映画館 (125)懐しき昭和三十三年の頃 「ALWAYS 三丁目の夕日」」『キネマ旬報』2006年(平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、124頁。
- ^ 「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2010年(平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、174頁。
2011年
[編集]- 一般入場料金は19年間据え置かれている[1]。
注釈
2012年
[編集]2013年
[編集]2014年
[編集]2015年
[編集]2016年
[編集]- 「2015年 日本映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2016年(平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、44頁。
- 「各社2015年の動向を見る」『キネマ旬報』2016年(平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、70 - 74頁。
2017年
[編集]2月下旬号
[編集]3月下旬号
[編集]- 「2016年日本映画・外国映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2017年(平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、42 - 43頁。
- 「各社2016年の動向を見る」『キネマ旬報』2017年(平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、66 - 70頁。
注釈
出典
2018年
[編集]3月下旬号
[編集]注釈
7月下旬号
[編集]8月上旬号
[編集]8月 - 前年8月に公開された『宇宙戦艦ヤマト』が 『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の宣伝を兼ねて、フジテレビ系のゴールデン洋画劇場で放送される[1]。これは、劇場公開から最低でも2年の間隔をあけてからテレビ放送〔地上波放送〕するという業界ルールが無視された形[1]。同様に、10月には角川映画『人間の証明』が同じゴールデン洋画劇場で放送された[1]。
注釈
1月上旬号
[編集]2019年
[編集]3月下旬号
[編集]注釈
2020年
[編集]3月下旬特別号
[編集]- 「2019年映画業界総決算」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、46 - 59頁。
- 「日本映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、48 - 49頁。
- 「外国映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、48頁。
- 「26年ぶりに映画鑑賞料金値上げ、その影響は?」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、96頁。
注釈
出典
6月下旬号
[編集]周年
[編集]1985年
[編集]1986年
[編集]2003年
[編集]- 生誕100周年
- 小津安二郎
- 東京国立近代美術館フィルムセンターで回顧上映された。
- 小津安二郎
2005年
[編集]- 創業110周年
- 松竹創業110周年記念イベント - 「松竹110年祭」(2005年11月 - 12月、シネスイッチ銀座)、「松竹映画探索 1960-70年代」(2006年1月 - 3月、東京国立近代美術館フィルムセンター)で特集上映が行われた[3]。
- 生誕100周年
2015年
[編集]2016年
[編集]- 創始40周年
- 角川映画 - 角川シネマ新宿では角川映画祭(7月30日 - 9月2日)と銘打たれた特集上映が行われ[6]、東京国立近代美術館フィルムセンターでは展示会「角川映画の40年」(2006年7月26日 - 10月30日)が行われた[7]。
2017年
[編集]2019年
[編集]- 50周年
- 男はつらいよ50周年プロジェクト - 全作品を4Kデジタル修復し特集上映、全作セットのブルーレイディスクの発売、シリーズ50作目『男はつらいよ お帰り 寅さん』公開。
2020年
[編集]注釈
出典
- ^ 「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、123頁。「誤算だったのは創業九十周年を迎えた松竹で」
- ^ 「1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、124頁。「山田洋次監督「キネマの天地」を50周年記念映画として公開したが、所期の目標に達せず」
- ^ “松竹創業110周年記念”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 2017年4月3日閲覧。
- ^ 「トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』2005年(平成17年)12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、170頁。
- ^ “伝統と革新の120年を振り返る特集上映 松竹120周年祭”. 松竹 (2015年8月12日). 2017年4月6日閲覧。
- ^ “40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?(前編)”. シネマズ. 松竹 (2016年7月23日). 2017年4月5日閲覧。
- ^ “角川映画の40年展で“三人娘”薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の資料を紹介 - 映画ナタリー”. ナタリー (2016年7月24日). 2017年4月5日閲覧。
- ^ “『おとなの大映祭』に21作品 若尾文子、京マチ子、関根恵子らの主演作も - 映画・映像ニュース”. CINRA.NET (2017年4月27日). 2017年4月28日閲覧。
- ^ “大映の名優たちの出演作が目白押し!「大映男優祭・女優祭」17年秋開催 : 映画ニュース”. 映画.com (2016年12月23日). 2017年4月28日閲覧。