コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:バレロン/sandbox/5

キャッシュを破棄

石原良浩(いしはらよしひろ[1]、1961年 - [1][2] )は鳥羽水族館の飼育員。飼育研究部次長を務める[3]

いしはら よしひろ

石原 良浩
生誕 1961年
職業 水族館の飼育員
雇用者 鳥羽水族館
肩書き 飼育研究部次長
テンプレートを表示


メモ

[編集]

1981年、株式会社鳥羽水族館に入社した[2]。最初にスナメリの飼育を担当し、次いでバイカルアザラシの担当になった[4]

1983年に、ラッコシアトル水族館英語版から初めて鳥羽水族館に来たとき、ラッコの担当者に選ばれた[4][5][注釈 1]。その時に初めてラッコを見た[4]

当時日本でラッコを飼育していた施設は伊豆・三津シーパラダイスのみで、飼育方法は手探りだった[注釈 2]。飼育員たちは、ラッコ水槽の気温、水温、塩分濃度を何種類も組み合わせ、表情や反応を繰り返し観察した[2]。石原は、英語と闘いながら、米国の論文も読み込んだ[2]。一日三回の「食事タイム」は健康管理の一環で生まれた[2]。あえて様々な動きをさせることで、筋肉や関節の動きを確認するのだ[2]

1984年2月23日の朝、石原が観客側から水槽を覗くと、メスのラッコ「プック」が赤ちゃんを抱いていた[6]。それは、国内の水族館で初めて生まれたラッコだった[6]。プックは到着時に体調を崩しており、抗生剤等を注射をしていた[7]。その注射はとても強く、獣医から「もしプックが妊娠していた場合、ほぼ確実に流産する」と告げられていたため、プックの出産は予想外だった[6]。「これから何をしていけばいいのか……。」石原の頭の中は真っ白だった[5]

その日から58日間、二十四時間体制が敷かれた[6]。同僚の古田正美は体調を崩して震えていた[7]。人間たちの混乱と裏腹に、ラッコたちは普段通りだった[6]。赤ちゃんは元気に育ち、「チャチャ」と名付けられた[5]

ラッコを担当して20年が経った頃には、最初にラッコが来た時からいる担当者は石原だけになった[4]。その頃、アメリカからのラッコの輸入が途絶え、日本国内でのラッコ飼育数は減少傾向にあった[5]


2004年5月9日、飼育していたラッコの「ポテト」が赤ちゃんを産んだ[5]。ポテトは2002年に閉館したオホーツク水族館から鳥羽に移ってきたラッコだった[8]。同時にやってきたオスの「コタロウ(元リンクス)」と仲がよく繁殖が期待されていたが、今まで生まれた3匹の子供は皆死産だった[5][8]

石原はこんなに嬉しいのは久しぶりなぐらい喜んだ[5]。赤ちゃんは元気に育ち、生後7週間程でプールの底まで潜るようになった[5]。赤ちゃんは一般公募によって「メイ」と名付けられた[5]


メイは鳥羽水族館から移動することがなかった。


ネット上でメイとの仲睦まじい姿が癒されると評判になり、娘のように愛でる姿やじゃれ合う様子に、「ラッコも可愛いが、おじさんも可愛い!」「何この通じあってます感…」「相棒感がたまんない」などのコメントが寄せられるようになった[9][10]。2022年には「ラッコに並ぶアイドル」とも称され[10]、石原見たさに水族館にやってくる人がいたり、街中で声をかけられることがあるようになった[10][注釈 3]


野生下でのラッコの寿命は10年程度とされている。飼育するラッコたちは15歳を超え、高齢である。残された時間は長くなく「より良い状態で過ごさせてあげたい」と試行錯誤が続いている[2]


飼育員として

[編集]
  • 観察を大切にしており、何よりも健康状態に気を配っている。出勤後や退社前には、観客側の窓からラッコの様子を覗いて観察することを欠かさない[6][9]
  • 後輩からは「ラッコの知識が豊富で、ラッコに対する愛情が深い」と慕われている[10]
  • エサのイカミミを手裏剣のように投げ、ガラスに貼り付いたイカミミをめがけてラッコがジャンプする『イカミミジャンプ』。ラッコが大ジャンプすれば取れる高さに貼り付けられるのは2022年時点で石原だけである[10]

石原とラッコ

[編集]

今まで担当した動物とラッコの決定的な違いとして「ラッコと飼育員はなんらかの関係が持てること」を挙げている[11]。他の動物はエサを持っていないと殆ど興味を示さないが、ラッコは積極的にヒトとも関係を持とうとする意識が感じられ、「お互いの目つきや仕草、(飼育員の)話し方で精神状態がわかる」と話す[11][9]

北海道のラッコ

[編集]
  • 2022年現在、北海道大学や京都大学と共同調査している[1]
  • 北海道に再来したラッコについて「保護すべきラッコが現れた時のため、何らかの対応ができる体制は整えておきたいと考えている。そのためには、アメリカのようなシステムを確立しなくてはならないなど、たくさんの課題がある。」とコメントしている[1]




  • 榊原郁恵の大ファンで、アイドル時代にはファンクラブに入っていた[10]。ファンクラブのバッジを今でも大切に持っている[10]
  • 榊原郁恵がデビュー当時ラッコの飼育体験をしたときに対応した[10]。その時のファンクラブバッジを胸につけた写真が残っている[10]

その他メモ

[編集]

古田正美

[編集]
    • 鳥羽水族館でラッコの飼育責任者となった[4]
    • 鯨類のエキスパートで伊勢湾に住むスナメリの繁殖を世界で初めて成功させた[4]

ラッコ

[編集]
  • 一年中換毛している[1]
  • 環境の変化によるストレスにも弱い[12]
  • 施設間の輸送が難しい[12]。体温を保つために食べ続けるため、飼育員が付き添って少しずつ給餌しながら運ぶため、誤飲により窒息したり、肺炎になったりするリスクがある[12]

参考文献

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 中村元曰く、「石原は動物に対する細かい気配りに天性のものがあり、どんな動物も彼に安心して身をあずけるため、担当者の一人として選ばれた[4]
  2. ^ 「飼育方法がよく分からない動物を入れるなんて」と観客増を優先する上層部に不満はあった[2]
  3. ^ 石原自身は、ラッコよりも石原が話題になることについて「私たちは(ラッコの)引き立て役ですので、困惑してます。」とコメントしている[9]


出典

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

Category:日本の動物園職員 Category:存命人物の伝記 Category:存命人物