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前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の大人慕容皝によって建てられた国。正式な国号は大燕だが、同時代に燕を国号とする国が複数存在するため、最初期に建てられたこの国を前燕と呼称して区別している。独立国として成立したのは慕容儁が帝位に即いた352年であるが、本記事中では慕容皝が燕王を自称した337年を建国年とする(詳細は後述)。また、事実上前燕の基盤を築いたのは慕容廆であるため、彼の時代より詳述する。
歴史
[編集]前史
[編集]慕容部の始祖は、鮮卑族の有力な大人(たいじん:部族長)の一人であった莫護跋という人物である。彼は三国時代の魏が成立して間もない頃(220年頃)、自らの傘下にあった勢力を率いて遼西地方へ移住した。彼は魏に対して一貫して従属の姿勢を取り、238年の司馬懿の公孫淵討伐にも協力した事で朝廷より率義王に封じられ、昌黎郡の棘城(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の北部一帯に住まう事を正式に認可された。
彼の死後は慕容木延・慕容渉帰と代を経たが、彼らもまた魏晋朝廷に対しては従属を続け、幾度も戦功を挙げた事で鮮卑大単于[1]の称号を与えられた。慕容渉帰の時代には遼東の北部へ拠点を移し、次第に部内の風習を漢人に合わせるようになった(漢化政策)。ただその一方、281年には突如として西晋に背いて昌黎郡へ侵攻し、これ以後も度々侵略を繰り返すようになった。その為、283年には西晋の安北将軍厳詢より討伐を受け、1万以上の民が殺害されたという。
そのような情勢下の283年に慕容渉帰が没すると、その弟の慕容耐は嫡男の慕容廆(慕容渉帰の子)を放逐して大人の位を簒奪したが、285年[2]に慕容部の民は政変を起こして慕容耐を殺害し、慕容廆を迎え入れて位を継がせた。
黎明期
[編集]夫余へ攻め入る
[編集]慕容廆もまた父同様に西晋と対立し、遼西地方を荒らし回って多数の人民を殺傷した。これにより幽州軍より討伐を受けて大敗を喫したが、懲りずに連年に渡り昌黎郡へ襲来しては略奪を繰り返し、286年には遼東へも進出した。
さらには夫余の領土へも攻め入り、その国都を滅ぼして夫余王依慮を自害に追いやり、1万人余りを鹵獲した。これを受け、西晋の東夷校尉何龕は督護賈沈を救援の為に差し向け、沃沮の領土へ亡命していた夫余の王太子依羅を保護して故地へ送り届けさせた。慕容廆はこれを阻止する為、配下の孫丁に賈沈を攻撃させたが、返り討ちに遭って孫丁は戦死した。こうして夫余は復興されたものの、慕容廆はその後もたびたび夫余へ侵入してはその民衆を捕らえ、奴隷として中国へ売り捌いたという。その為、武帝は国の資産で夫余の奴隷を買い戻すよう命じ、さらに司州・冀州では夫余人の売買を禁止させた。
西晋に従属
[編集]289年、慕容廆は方針を転換して西晋への帰順を決断し、朝廷へ使者を派遣した。武帝はその到来を大いに喜び、帰順を認めて彼を鮮卑都督[3]に任じた。また、慕容廆は遼東が僻地であった事から、本拠地を徒河の青山(現在の遼寧省錦州市義県付近)に移し、次いで294年にはかつての本拠地である棘城へ移った。さらに農業と養蚕に力を入れ、西晋と同じ法律や制度を整え、社会の安定と勢力の拡充に努めた。301年7月に燕の地方(幽州一帯)で大洪水が起こると、食糧庫を開放して人民へ食糧を支給して救済に努め、恵帝より称賛を受けて命服(官僚がその等級に応じて着用する礼服)を下賜された。
当時、遼東・遼西地方には宇文部・段部・高句麗を始めとした諸勢力が勢力基盤を築いており、特に宇文部とは慕容渉帰の時代より対立関係にあった。晋朝の庇護を得た事で慕容廆の威徳は大いに広まっていたが、これにより他部族とのさらなる軋轢を生んでおり、絶えず侵攻略奪を受けるようになった。その為、慕容廆は彼らの使者が往来した際には礼儀正しく謙虚に振る舞うと共に、贈り物を厚くする事で融和に努めた。また、段部単于の娘を娶って正室として迎え入れ、姻戚関係を結ぶ事で段部との関係を強化した。妻の段氏との間には慕容皝・慕容仁・慕容昭の三子をもうけた。また、雲中(現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯)において勢力を拡大していた拓跋部の大人拓跋猗盧とも使者を取り交わし、修好を深めた。
302年、宇文部の宗族である宇文屈雲や宇文素延[4]が慕容部へ襲来したが、慕容廆は自ら迎撃して返り討ちにした。時を経ずして宇文素延は再び10万の兵を率いて襲来し、本拠地の棘城を包囲したが、慕容廆はまたもこれを返り討ちにして1万人を捕縛するか討ち取った。遼東の豪族孟暉は元々宇文部に従っていたが、今回の敗戦を契機に離反し、自らの傘下にある数千家を引き連れて慕容廆に帰順した。
支配体制の構築
[編集]307年、慕容廆は鮮卑大単于を自称し、鮮卑諸部族の中でも自らが頂点であると標榜した。これは西晋朝廷の許可を得ておらず独断によるものであったが、既に八王の乱を経て朝廷の権威は衰えており、また全国規模で乱が多発していた事で、遼西地方までその影響力は及ばなくなっていた。
309年、遼東の辺境に割拠していた鮮卑族の素喜連・木丸津が挙兵し、西晋に対して反旗を翻した。州郡の兵はこれを鎮圧しようと試みるも度々敗北してしまい、民百姓はまともに生活する事が出来なくなった。その為、慕容廆の領内には日を追う毎に多くの流民が避難して来たが、慕容廆はその流民達へ備品や食料を支給し、郷里に帰る事を望む者は送り届けてやるなどし、彼らの慰撫に努めた。その後も素喜連らは連年に渡り遼東の諸県を侵略して殺害と略奪の限りを尽くしたが、311年に慕容廆は討伐軍を興して庶長子の慕容翰を前鋒に据え、素喜連・木丸津を討ち取って乱を鎮圧した。こうしてその部族の民3千家余りを吸収して棘城に移住させると共に、新たに遼東郡を設置した(この時既に漢(後の前趙)の攻勢により洛陽は陥落して懐帝は捕虜となっており、西晋の支配体制は完全に崩壊して行政区画も機能しなくなっていたので、改めて設置し直したのだと思われる。但しその領域が西晋と同一かどうかは不明)。かつて移住してきた民の大半は遼東郡から来ていた者だったので、その治安を回復させた慕容廆は遼東でも大いに慕われるようになった。
西晋の支配体制が崩壊して以降、幽州を実効支配していた司空王浚は自らの独断で承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行うようになっており、事実上独立勢力となっていた。慕容廆もまた彼から散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于に任じられたが、彼は王浚を正統とは見做していなかったので受け入れなかった。その一方、313年4月に王浚から段部討伐を持ち掛けられると、慕容廆は利害が一致していた事から申し出に応じて慕容翰を出撃させた。慕容翰は徒河・新城を攻略して陽楽まで進出したが、同じく王浚の呼びかけに応じて段部へ侵攻していた拓跋部が返り討ちに遭ったと聞き、進軍を中止して撤兵した。
建興年間(313年から317年)、長安で即位した愍帝より使者が到来し、慕容廆は鎮軍将軍に任じられ、昌黎・遼東の二国公に封じられ、遼西・遼東地方の統治を認められた。
当時、中原は相次ぐ乱により荒廃しており、多くの民が幽州を治める王浚を頼っていたが、王浚は彼らをうまく慰撫出来ず、政法も整っていなかったので、多くの者が離反した。段部にもまた多くの民が帰順したが、彼らは武勇を有していたものの士大夫を礼遇しなかった。ただ、その中にあって慕容廆の政事は公正であり、人物を重んじたので、士民の多くが彼の下へ身を寄せるようになった。慕容廆はその中から俊才な者を抜擢し、その才能に適した職務を与えた。この中には後に国家の中枢を担う漢人の有力貴族の面々も含まれており、慕容廆は裴嶷・陽耽・黄泓・魯昌を謀主(外交・内政・軍略に関わる役職)に、游邃・逄羨・宋奭・西方虔・封抽・裴開を股肱(謀主に次ぐ側近)に任じ、宋該・皇甫岌・皇甫真・繆愷・劉斌・封奕・封裕には枢要(国家機密)を主管させた。こうして国家としての基盤を次第に整え、統治体制を強固なものにした。
同時期、楽浪と帯方の2郡に勢力を築いていた張統・王遵が慕容廆へ帰順した。これにより慕容廆は楽浪を勢力下に入れ、楽浪郡を設置した。また314年4月には前趙の征東大将軍石勒が王浚の本拠地薊城を攻め落とし、王浚を処刑してその勢力を滅亡させた。これにより王浚配下の朱左車・孔纂・胡毋翼が昌黎へ逃走して来ると、慕容廆は彼らを迎え入れて傘下に加えた。
この時、中国流民で慕容廆に帰順する者は数万家を超えており、慕容廆は冀陽郡を設置して冀州からの流民を住まわせ、成周郡を設置して豫州からの流民を住まわせ、営丘郡を設置して青州からの流民を住まわせ、唐国郡を設置して并州からの流民を住まわせた。
東晋より冊封
[編集]317年3月に司馬睿(後の元帝)が江南の地で晋王を名乗ると、彼は承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行い、遼西へも使者を派遣して慕容廆を仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流人諸軍事・龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じる旨を伝えた。慕容廆は司馬睿の事を軽んじていたので当初これに応じなかったが、魯昌や高詡は司馬睿を奉じてその後ろ盾を得るよう進言すると、慕容廆はこれに同意して使者を建康へ派遣した。318年3月、司馬睿は皇帝に即位すると、再び慕容廆へ使者を派遣し、改めて龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じる旨を伝えた。慕容廆は昌黎公については辞退し、その他の任官については受け入れた。
こうして東晋の地方政府としての地位を認められると、龍驤長史游邃・主薄劉翔に府朝の儀法(地方政府としての儀礼や法律)を制定させ、長史裴嶷に軍務と国政の謀略については一任した。裴嶷はその期待に応え、遼東・遼西に割拠する弱小の部族から順を追って勢力下に引き入れ、少しずつ慕容廆の勢力を拡大させていった。
王浚がまだ存命で幽州を支配していた頃、彼は妻の兄弟にあたる崔毖を平州刺史(平州とは遼寧省一帯を指す)・東夷校尉に抜擢し、東方異民族の管轄と遼西・遼東の統治を命じていた。崔毖は王浚が敗亡した後も遼東において一定の勢力を保っており、流亡の民を招聘して纏め上げる事で平州に確固たる基盤を築こうと目論んでいたが、多くの民は崔毖に靡かずに慕容廆の下に集っていたので、かねてより慕容廆の人望を妬んでいた。
319年、崔毖は同じく慕容廆の勢力拡大を危惧していた高句麗・宇文部・段部と密かに連携し、慕容部討伐の兵を挙げた。三国連合軍が到来すると、慕容廆は籠城を図ると共に離間工作を行い、連合軍の間に不和を生じさせて高句麗・段部の二国を退却させた。だが、宇文部の大人の宇文遜昵延だけは攻勢を継続して棘城へ迫り、その勢力は数10万ともいわれた。さらに数千騎の別動隊に徒河を守備する慕容翰を襲撃させたが、慕容翰は伏兵を用いて返り討ちにすると、勢いのままに棘城へ迫っていた宇文部軍本隊へ向けて進撃した。慕容廆は慕容皝・裴嶷と共に城から出撃すると、慕容翰に呼応して宇文部軍を挟撃し、大勝を挙げた。これにより敵兵の尽くを捕虜とし、更に宇文部に代々伝わる皇帝の玉璽三紐を手に入れた。崔毖は大いに恐れて城を放棄して高句麗へ亡命し、慕容廆はその配下の兵を尽く吸収した。こうして遼東を完全に支配下に入れると、子の慕容仁を征虜将軍に任じて崔毖の治めていた土地を鎮守させ、官府や村落には手出しをせず、民衆の生活をこれまで通り保証した。また、宇文部から奪った玉璽を携えて建康へ使者を派遣し、戦勝報告を行った。
高句麗の将軍如奴子は一連の戦役に乗じて遼東に進出し、河城(現在の遼寧省遼陽市の北東)を占拠していたが、慕容廆は将軍張統を派遣してこれを陥落させ、如奴子をはじめ千家余りを捕虜にした。この中には崔毖の旧臣である崔燾・高瞻・韓恒・石琮らも含まれており、慕容廆は彼らを棘城に迎え入れて傘下に加えた。これ以降、高句麗の美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃するようになり、慕容廆は慕容翰と慕容仁にこれを阻ませたが、やがて美川王の申し出により講和した。
この年、西晋の東萊郡太守であった鞠彭が慕容廆に帰順した。慕容廆は鞠彭を龍驤参軍に任じた。
322年12月、段部は長年の権力争いを経て段末波により統一されたが、相次ぐ内部抗争の影響で防備が未だ整っていなかった。慕容廆はこれを好機とみて慕容皝を令支(段部の本拠地)に侵攻させ、千家余りの民と名馬や宝物を略奪した。だが、翌年に段末波が病没して弟の段牙が後を継ぐと、慕容廆は方針を改めて段部と修好を結ぶようになった。
323年4月、後趙の君主石勒が慕容廆へ同盟を求めるも、慕容廆は東晋を奉じていた事からこれを拒絶し、後趙の使者を捕らえて東晋朝廷に送った。石勒はこれに激怒し、324年1月に従属関係にあった宇文部に命じて慕容部へ侵攻させた。慕容廆は慕容皝・裴嶷・慕容仁に迎撃を命じると、彼らは澆洛水に布陣していた宇文部の大人宇文乞得亀に大勝し、兄の宇文悉跋堆を討ち取った。これにより宇文部軍は崩壊し、宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容仁は慕容皝と共に追撃を掛けて宇文部の都城へ侵入した。これにより大量の重宝や畜産を鹵獲し、数万の人民を連行してから帰還した。
こうして段部・宇文部と攻勢を繰り広げる中、慕容廆は東晋の臣下として昇進を重ね、320年3月には監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じられ、2千戸を加増された[5]。さらに321年12月には持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任じられ、遼東公に冊封された。食邑は1万戸とされ、侍中[6]・単于の位についてはこれまで通りとされた。また、丹書鉄券の印綬を下賜され、遼東地方における承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)の権限を与えられ、官司を備えて平州守宰(郡太守や県令)を置く事を許された。こうして正式に官僚を置くことを許された慕容廆は改めて官僚の配置を行い、裴嶷・游邃を長史に、裴開を司馬に、韓寿を別駕に、陽耽を軍諮祭酒に、崔燾を主簿に、黄泓・鄭林を参軍事に任じた。また、嫡男の慕容皝を世子に立て、慕容翰には遼東を、慕容仁には平郭を統治させた。また、儒学に精通する劉賛を東庠祭酒(東庠とは東の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢し、世子の慕容皝のみならず重臣の子弟にも束脩して講義を受けさせ、自身も政務の暇を見つけては講義に臨んだ。326年には侍中を加えられて位は特進となり、330年には開府儀同三司を加えられたが、これについては固辞した。
こうしてその地位を強固にしていく中、慕容廆は次第に諸侯王の爵位を欲するようになり、331年には東晋の太尉陶侃へ使者を派遣し、自らを燕王に封じて大将軍に任じるよう朝廷に働きかける様に要請した。陶侃は朝議でこの件を議題に上げる事を約束したが、皇族ではなくましてや民族も異なる者に対して王位を授ける事に朝廷は難色を示し、結局議決される事は無かった。333年5月、慕容廆は王位を得られぬまま病没した。
慕容仁の反乱
[編集]333年6月、嫡男の慕容皝は父の爵位である遼東公を継ぐ事を宣言し(但しこの時点では東晋からの承認は得られておらず、あくまで自称である)、平北将軍・平州刺史の地位をもって部内の統治に当たった。また、長史裴開を軍諮祭酒に、郎中令高詡を玄菟郡太守に、陽騖を左長史に、王誕を右長史に任命し、使者を建康へ派遣して東晋朝廷へ父の喪を報告した。
だが、慕容皝は庶兄の慕容翰と弟の慕容仁・慕容昭とかねてより不和を生じており、10月に慕容翰は禍を恐れて段部へ亡命してしまった。さらに11月、平郭にいる慕容仁は慕容皝の誅殺を目論んで密かに兵を挙げ、棘城内にいる慕容昭もまたこれに協力し、内から呼応する手はずとなった。だが、この謀略は事前に慕容皝に漏れ、慕容皝は慕容昭に自害を命じると共に、玄菟郡太守高詡・建武将軍慕容幼・慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗らに兵5千を与えて慕容仁討伐を命じた。だが、討伐軍は汶城の北で慕容仁に敗れ、慕容幼・慕容稚・慕容軍らは捕らえられた。さらに、遼東では前の大司農孫機・襄平県令王永らが遼東城を挙げて慕容仁に呼応したので、慕容仁は遼東のほとんどを領有するようになり、慕容皝と遼西・遼東の覇権を争っていた段部や宇文部は慕容仁に味方した。さらには元々慕容皝に従属していた鮮卑の諸部族もみな慕容皝を見限り、慕容仁側に付いてしまった。334年4月には慕容仁は車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称した。
334年8月、東晋朝廷は慕容皝の下へ使者を派遣し、鎮軍大将軍・平州刺史・大単于に任じて遼東公に封じ、持節・都督・承制封拝(百官の任用と爵位の授与の権限)は父の慕容廆と同一とする旨を告げようとしたが、派遣された使者は向かう途上で慕容仁に拘束されてしまい、慕容皝の下に至るのは1年後となった。
同年11月、慕容皝は遼東討伐の兵を挙げ、自ら軍を率いて襄平を陥落させた。居就県令劉程は降伏して城を明け渡し、新昌出身の張衡は県令を捕えて降伏した。こうして遼東を攻略すると、慕容仁が任じた守将を処断し、遼東の豪族を棘城に移住させ、和陽・武次・西楽の三県を設置してから帰還した。
336年1月、慕容皝は慕容仁の本拠地である平郭征伐に向かうと、高詡の勧めにより凍結した海を進んで平郭城を奇襲した。慕容仁はその襲来を全く予想しておらず、大いに動揺した。慕容皝はこれを撃破してその身柄を捕らえ、慕容仁を殺した後、軍を帰還させた。こうして2年以上に渡って続いた反乱は鎮圧された。
段部・宇文部を圧倒
[編集]慕容皝は慕容仁と争っている最中も、宇文部・段部を始めとした諸部族との抗争に明け暮れていた。
333年8月、宇文部の大人の宇文乞得亀が内乱により追放され、その傍系である宇文逸豆帰が位を簒奪した。慕容皝はこの混乱を征伐の好機とみて軍を出撃させ、広安まで進んだ。宇文逸豆帰は恐れて講和を求めると、慕容皝はこれに同意し、宇文部の本拠とより近い場所に楡陰・安晋の2城を築いてから軍を帰還させた。
334年1月、白狼には鮮卑族の木堤が、平岡山には烏桓の悉羅侯が割拠していたが、司馬封奕・揚威将軍淑虞に討伐させた。さらに、材官将軍劉佩に乙連に割拠する段部を攻めさせたが、これは失敗した。2月には段部は反攻に転じ、首領の段遼が自ら徒河に襲来したが、慕容皝は張萌に迎撃させてこれを破った。段遼は再び軍を派遣して弟の段蘭と慕容翰を柳城へ侵攻させると、都尉石琮がこれを撃退した。だが、10日余りすると段蘭と慕容翰はまたも侵攻し、柳城を包囲した。慕容皝は寧遠将軍慕容汗と封奕らに千騎余りを与えて救援を命じたが、慕容汗は軽率に軍を進めてしまい、柳城の北にある牛尾谷で段蘭軍に大敗を喫した。柳城はこの間も攻撃に晒され、段蘭は20日に渡って四方から昼夜問わず柳城を攻めたが、石琮は機を見て出撃して敵軍を大破し、首級千五百を挙げて段蘭を退却させた。
335年、封奕に命じて宇文別部の渉夜干を強襲させた。封奕は多くの資産を鹵獲し、さらに追撃を掛けて来た宇文部軍を返り討ちにした。
336年6月、段遼配下の李詠が武興に夜襲を掛けたが、雨だったので途中で中止した。都尉張萌は退却中の李詠軍に追撃を掛けてこれを生け捕った。段蘭が数万を率いて曲水亭まで進出して柳城攻撃の準備を始めると、宇文部大人の宇文逸豆帰もまた安晋へ侵攻し、段蘭に呼応した。慕容皝が5万の兵を率いて柳城に進軍すると、段蘭も宇文逸豆帰も退却した。慕容皝は封奕に軽騎兵でもって追撃させ、兵糧や軍需物資を回収した。7月、段遼はまたも騎兵を率いて襲来すると、慕容皝はこれを予期して予め封奕を馬兜山に伏兵として配しており、共に段遼軍を挟撃して大いに撃ち破り。将軍栄保を討ち取った。9月、世子の慕容儁に段部の諸城を、封奕に宇文別部を攻めさせ、いずれも大勝を収めた。
337年3月、段部の本拠地である乙連城の東に好城を築き、将軍蘭勃を派遣して段部を威圧した。また、曲水にも城を築き、蘭勃を援護させた。乙連では飢饉が深刻となり、段遼は穀物を輸送しようとしたが、蘭勃はこれを奪い取った。段遼は将軍段屈雲に興国城を攻めさせると、慕容皝の子である慕容遵は五官水上でこれを撃ち破り、敗残兵を尽く捕虜とした。
建国期
[編集]前燕樹立
[編集]337年10月、封奕を始めとした群臣の勧めに従い、慕容皝は燕王に即位して領内に恩赦を下した。これが前燕の建国とされる。封奕を相国、韓寿を司馬に、裴開を奉常に、陽騖を司隷校尉に、王寓を太僕に、李洪を大理に、杜群を納言令に、宋該・劉瞻・石琮を常伯に、皇甫真・陽協を冗騎常侍に、宋晃・平熙・張泓を将軍に、封裕を記室監にそれぞれ任じ、他の文武の官僚についても能力に応じて格差をつけて任官を行い、多数を列卿・将帥の地位に取り立てた。また、文昌殿(道教の神仙である文昌帝君を祀る宮殿)を建立し、外出の際には金根車(皇帝の乗る車駕の一種)を六頭の馬で牽引させ、さらに警蹕(声を挙げて人払いをさせる事)を行わせるようになった。また、父の慕容廆を追尊して武宣王に封じ、母の段氏を武宣王后に、妻の段氏を王后に、世子の慕容儁を太子に立てた。これらは全て曹操が魏王に、また司馬昭が晋王に封じられた際に行ったものを踏襲したのだという。多くの史書はこれを前燕の成立としているが、異説も多い(詳細は建国年についてを参照)。
後趙との抗争
[編集]337年10月、慕容皝は後趙へ使者を派遣し、称藩する(後趙を宗主国と認める事)代わりに共同で段部を討伐するよう持ち掛け、庶弟の寧遠将軍慕容汗を人質として送った。後趙の君主石虎はこの申し出を大いに喜び、厚く返礼の言葉を送ると共に慕容汗を本国へ還してやり、翌年に共同で挙兵する事を約束し合った。
338年1月、石虎は征伐を決行し、水路より兵10万、陸路より兵7万を段部征伐に向かわせた。3月、慕容皝もまた兵を挙げて令支以北の諸城を攻撃すると、迎撃に出た段部の将軍段蘭に奇襲を仕掛けて大勝し、数千の首級を挙げて5千戸余りを捕獲した。だが、そのまま後趙軍とは合流せずに軍を帰還させた。
後趙軍もまた侵攻を続けて段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代郡を相継いで攻略し、瞬く間に49を超える城を下した。さらに進軍を続けて徐無まで到達すると、段遼は抗戦を諦めて本拠地の令支を放棄し、密雲山へと逃亡した。石虎はそのまま令支を占拠した。こうして段部の勢力を散亡させる事に成功したが、石虎は慕容皝が軍を合流させる約束を反故にし、単独で段部へ侵攻してその利益を独占した事に憤り、今度は前燕へ侵攻を開始した。5月、慕容皝は石虎襲来を知ると、兵や物資を整備すると共に、六卿・納言・常伯・冗騎常侍などの権限を一時的に停止し、戒厳令を布いた。石虎襲来により郡県の諸部は多数が寝返り、36の城が降伏した。本拠地の棘城にも数十万の兵が四方から襲来すると、慕容皝は一度は城を捨てて退却しようと考えたが、高詡・慕輿根・劉佩・封奕の諫めにより籠城を決断した。後趙軍は10日余りに渡って威圧を掛けたが、慕輿根・劉佩・鞠彭らは奮戦して決死の防戦を続け、遂に後趙軍を退却させた。これを見た慕容皝は子の盪寇将軍慕容恪らに騎兵2千を与えて夜明けと共に出撃させると、後趙の諸軍はこれに大いに驚いて遁走してしまった。慕容恪はこれに乗じて追撃を掛け、後趙軍を大敗させて3万を超える兵を斬獲した。
後趙軍が全面撤退すると、慕容皝は兵を分けて後趙に寝返った諸々の城砦へ進撃させ、これらを全て降すと共に、その国境を凡城(現在の河北省承徳市平泉市の南)まで押し広げた。その後、慕容皝は凡城に新たな城を築いて守備兵を配置してから軍を帰還させた。
12月、密雲山に逃れていた段遼が後趙へ降伏の使者を派遣すると、石虎は征東将軍麻秋に3万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、段遼は密かに慕容皝とも通じており、慕容皝は麻秋を攻撃するため慕容恪を派遣した。慕容恪は七千の精鋭を率いて麻秋軍を奇襲し、大いに破って司馬陽裕・将軍鮮于亮を生け捕りにした。後趙軍は兵卒の六・七割方が戦死し、麻秋は馬を棄てて逃走し、慕容恪は段遼とその民を連れて帰還した。以後、段遼は前燕に仕えたが、後に謀叛を起こそうとしたので、慕容皝は配下の数十人と共に誅殺して首を後趙へと送った。
339年4月、前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥は後趙の石成らが守る遼西を攻め、千家余りを引き連れて帰還した。石成らは追撃を掛けるも、慕容評は撃ち破り、呼延晃・張支の首級を挙げた。その後、石成は前燕領の凡城を攻めたが失敗し、進路を変えて広城を攻め落とした。
11月、慕容皝は高句麗征伐に向かって新城まで軍を進めたが、故国原王が和平を請うと聞き入れて帰還させた。340年2月、故国原王の世子が人質として前燕へ入朝した。
10月、慕容皝は騎兵2万を率いて後趙へ侵攻し、西に進んで薊城を落とし、さらに高陽まで至った。進軍の途上で穀物を焼き払い、幽州・冀州から3万戸余りを引き連れてから帰還した。
東晋より追認
[編集]慕容皝は燕王を称してはいたものの、あくまで自称であり、東晋朝廷からは承認を得られていなかった。338年4月には東晋より使者が到来し、慕容皝は征北大将軍・幽州牧・領平州刺史・散騎常侍となって1万戸を加増され、持節・都督・単于・遼東公は以前通りであったが、燕王の称号については何も述べられなかった。10月、慕容皝は長史劉翔を建康に派遣して後趙を破った事の戦勝報告を行い、また王を名乗った事について申し開きを行った。さらに、共に大軍を興して中原を平定しようと請うた。340年1月、慕容皝は東晋へ上表し、外戚の庾冰・庾翼を重用しないよう述べ、庾冰にも書を送って分を弁えるよう固く忠告した。庾冰は慕容皝の存在を大いに恐れ、何充らと共に燕王の称号を認める様に上奏した。
341年1月、慕容皝は陽裕・唐柱らに命じて柳城の北に城を築かせ、宗廟と宮殿を建てて龍城と名付けた。また、柳城県を龍城県と改めた。
2月、東晋朝廷は大鴻臚郭希に節を持たせて前燕へ派遣し、慕容皝を侍中・大都督・河北諸軍事・大将軍に任じ、燕王に封じた。こうして、自称であった燕王の地位は正式なものとなった。その他の官爵は以前通りとされた。また、功臣百人余りが爵位を下賜された。
342年10月、慕容皝は棘城から龍城に遷都した。
諸勢力併呑
[編集]かつて、庶兄の慕容翰は慕容皝と不和を生じて段部に亡命したが、段部が滅ぼされると宇文部に逃れていた。340年2月に慕容翰が前燕に帰還を果たすと、慕容皝は大いに喜び、以来彼を厚く恩遇するようになった。
342年11月、慕容翰と謀議し、高句麗征伐を決断した。慕容翰の献策に従い、慕容皝自らは四万の兵を率い、慕容翰・慕容覇(後の慕容垂)を先鋒として敢えて険阻である南道より奇襲を仕掛け、長史王寓には一万五千を与えて広い北道を進ませた。高句麗の故国原王は北道が主力軍であると思い込んでおり、弟へ五万の精鋭兵を与えて北道を防衛させ、自らは残った弱兵を率いて南道へ出た。前燕軍は慕容翰・鮮于亮らの奮戦により、南道の高句麗軍を大破し、勝ちに乗じて丸都へ突入した。故国原王は単騎で逃亡し、慕容皝は故国原王の父の美川王の墓を暴いて屍を奪い、さらに母妻や珍宝を奪った。さらに男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き払って丸都を破壊すると帰国した。343年2月、故国原王は弟を慕容皝の下へと派遣し、臣下となって貢物を献上することを約束した。これにより美川王の屍を返還してやったが、母の周氏は人質として留め置いた。
同月、宇文部の相莫浅渾が前燕を攻めたが、慕容皝は一切迎撃しなかったので、莫浅渾は敵が恐れていると思い、警備を全くしなくなった。慕容皝はこれを見て慕容翰へ出撃を命じ、慕容翰はこれを散々に打ち破り、兵卒の大半を捕らえた。
344年1月、慕容皝は宇文部討伐の兵を興し、慕容翰を前鋒将軍として副将を劉佩とした。さらに慕容軍・慕容恪・慕容覇・慕輿根にも兵を与え、三道より進軍させた。宇文部の首領宇文逸豆帰は南羅大の渉夜干に精鋭兵を与えて慕容翰を攻撃させたが、慕容翰は慕容覇と共にこれを破り、渉夜干を討ち取った。宇文部の兵はこれを大いに恐れ、戦わずして逃潰してしまった。前燕軍は勝ちに乗じて進撃し、遂に都城を攻略した。宇文逸豆帰は逃げ出し、漠北にて亡くなった。こうして、宇文部は滅亡し、慕容皝は五千戸を超える住民を昌黎へ強制移住させ、渉夜干の居城を威徳城と改名した。この戦勝で前燕は領土を千里以上広げ、中国の東北方面に確固たる地盤を築いた。
10月、慕容恪が高句麗の南蘇を攻め、これを陥落させた。その後、守備兵を置いてから帰還した。
346年1月、慕容皝は世子の慕容儁と慕容恪に騎兵一万七千を与えて、夫余の討伐に向かわせた。この戦いで夫余を滅ぼし、夫余王の玄王と部落5万人余りを捕虜として連行し、慕容皝の娘を玄王に娶らせた。
慕容皝の治世
[編集]345年、慕容皝は境内に大赦を下し、龍城に宮殿を新たに作ると、和龍と名付けた。この時期、旱魃が続いたので、百姓に租税を返還した。慕容皝は漢族の流民を積極的に受け入れ、前燕は人口が増えて大いに発展した。
かつての宮殿の東に学び舎を建てると、大臣の子弟を官学生とし、一般の者からも才覚有る者を取り立てた。慕容皝自身も書物を好んでいたので、自ら『太上章』を著して『急就篇』に取って代わらせ、さらに『典誡』十五篇を著して宗族諸子の教科書とした。また、自ら講義する事もあり、学生の試験にも自ら臨み、その中で経書に精通した者を近侍として抜擢した。次第に学生の数は多くなり、遂に千人余りに達した。
348年9月、慕容皝は狩猟の最中に馬から転倒して重傷を負い、乗輿に乗って宮殿に戻ると、嫡男の慕容儁を呼び寄せて後事を託した。その後、しばらくして亡くなった。
全盛期
[編集]中原へ進出
[編集]348年11月、慕容儁が燕王の位を継ぎ、元年と改元すると、境内に大赦を下した。
349年4月、東晋の穆帝は前燕へ使者を派遣し、慕容儁を使持節・侍中・大都督・河北諸軍事・幽冀并平四州牧・大将軍・大単于に任じ、燕王に封じ、慕容廆・慕容皝の後継として承認した。
350年2月、後趙の大将軍冉閔は後趙の皇族を虐殺すると、自ら鄴で帝位に即いて国号を「大魏」と定めた(冉魏)。この混乱を好機と見た慕容儁は三軍を率いて征伐を決行した。前鋒都督慕容覇が三径まで到達すると、安楽の守将鄧恒は逃亡して後趙の幽州刺史王午の守る薊城を頼ったので、慕容覇は安楽を占領して北平の兵糧を確保した。3月、慕容儁は無終へと軍を進めると、王午と鄧恒は魯口まで逃亡し、将軍王佗に数千の兵を与えて薊城を守らせた。慕容儁は薊城を攻め落として王佗を処断すると、薊城を攻略の拠点とした。これ以降、中原の民は次々と彼の下に集うようになった。前燕軍は次いで范陽を攻め落とすと、さらに魯口へ侵攻した。清梁まで進撃した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早より夜襲を受けたが、慕容覇は奮戦してこれを阻んだ。さらに、慕輿根は内史李洪と共に鹿勃早を撃破し、追撃を掛けて数千の兵をほぼ全滅させた。慕容儁は勝利を収めたものの、敵が未だ強勢であると判断し、薊まで一時撤退した。
9月、冀州へ進んで章武・河間を攻略した。また、慕容評を勃海へ派遣し、数千の兵を伴って高城を保っていた賈堅を降した。慕容儁は賈堅を楽陵郡太守に任じ、引き続き高城の統治を任せた。
当時、襄国では後趙の残党である石祗が帝位に即いて冉閔に対抗していたが、冉閔は10万の兵で襄国を包囲していた。351年2月、石祗は張挙に伝国璽を持たせて前燕へ派遣し、救援を求めた。慕容儁はこれを容れ、禦難将軍悦綰に兵3万を与えて救援に向かわせた。3月、悦綰は冉魏軍に迫ると、同じく救援に到来した姚弋仲の子の姚襄・後趙の汝陰王石琨と共に三方から攻撃し、さらに石祗は後方から撃った。これにより冉魏軍は大敗を喫し、戦死者は10万人を超えた。
4月、慕容儁は封奕に冉魏の勃海郡太守逄約討伐を命じ、昌黎郡太守高開に冉魏の幽州刺史劉準と豪族の封放討伐を命じた。封奕は使者を派遣して会見を求め、これに応じた逄約を不意打ちで捕らえた。高開は勃海へ到達すると、劉準・封放はいずれも降伏して彼を迎え入れた。慕容儁は封放を勃海郡太守に、劉準を左司馬に、逄約を参軍事に任じた。だが、逄約は勃海へ逃亡すると、11月にかつての部下をかき集めて再び前燕へ反旗を翻した。賈堅は使者を派遣して利害を説くと、彼の部下は次第に離散し、進退窮まった逄約は東晋へ亡命した。
8月、慕容恪は中山へ侵攻し、中山郡太守侯龕と趙郡太守李邽を降伏させた。慕容評は魯口の王午を攻め、迎撃に出てきた将軍鄭生を撃破し、その首級を挙げた。
冉魏を滅ぼす
[編集]352年1月、冉閔は襄国を攻略し、石祗を殺害して皇帝を称していた劉顕を討伐した。また、後趙の立義将軍であった段勤は冉閔の乱に乗じ、胡人数万を従えて繹幕に割拠すると、趙帝を称した。
4月、慕容儁は慕容覇らを繹幕に派遣して段勤を攻撃させ、さらに慕容恪・封奕・参軍高開らに冉魏討伐を命じた。慕容儁自らは中山に軍を進めて、両軍の後援となった。慕容恪は魏昌の廉台において冉閔と交戦すると、大いに苦しめられたものの、敢えて敗れた振りをして本陣に誘い込み、これを挟撃して大いに破った。これにより、冉閔を捕らえて皆、薊へ送った。その後、慕容恪は冉魏の将軍蘇彦より攻撃を受けたが、返り討ちにして配下の金光を討ち取り、蘇彦を并州へ敗走させた。やがて冉閔の身柄が薊に到着すると、慕容儁は境内に大赦を下した。慕容儁は冉閔を三百回に渡り鞭打ち、その後龍城へ送ると、翌月に処刑した。
同時期、慕容覇もまた繹幕へ進出すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。
同月、慕容評と中尉侯龕に精鋭騎兵1万を与え、冉魏の本拠地である鄴を包囲させた。冉魏の大将軍蒋幹・皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、窮した蒋幹は東晋に称藩して援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍戴施が救援に到来すると、蒋幹は精鋭五千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを撃破して4千の首級を挙げた。蒋幹は鄴城へ逃げ戻った。
8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は倉垣へ逃走した。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾・司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に薊へ送った。慕容儁は事業の神格化を図る為、董皇后が伝国璽を献上したと嘘の宣言を行い、董皇后を贈璽君に封じ、冉智を海賓候に封じ、申鍾を大将軍右長史に任じた。354年9月、黄門侍郎宋斌らが冉智を盟主として謀反を為そうとしているとある者が密告したので、慕容儁は彼らを誅殺した。
皇帝に即位
[編集]352年11月、前燕の群臣が再び慕容儁へ帝位に即くよう勧めると、慕容儁はこれに同意した。また、前燕の歴史で始めて百官を設置し、国相封奕を太尉に、慕容恪を侍中に、左長史陽騖を尚書令に、右司馬皇甫真を尚書左僕射に、典書令張希を右僕射に、宋活(宋晃)を中書監に、韓恒を中書令に任じ、他の官員も各々功績に応じて官爵を授けた。
その後、慕容儁は日を選んで皇帝位へ即くと、境内に大赦を下した。伝国璽を得た事を大義名分(実際には偽物であった)とし、年号を元璽と改元した。これにより、東晋との従属関係は終わりを告げた。
353年2月、夫人の可足渾氏を皇后に、世子の慕容曄を皇太子に立て、龍城から薊城へ正式に遷都した。354年4月、前燕の皇族を各々諸侯王に封じ、慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に、慕容評を司徒・驃騎将軍に、陽騖を司空・尚書令に任じた。
魯口攻略
[編集]352年8月、慕容恪・封奕・陽騖に兵を与え、安国王を称して魯口に割拠する王午の討伐に向かわせた。慕容恪らが王午軍を撃ち破ると、王午は籠城を図ると共に冉操を前燕軍へ送った。その為、慕容恪らは城外の食糧を略奪して兵糧攻めを取った。慕容恪らは安平に陣を布き、兵糧を蓄えて魯口攻略の準備を整えていたが、中山出身の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林討伐の為に魯口から引き返すと、慕容儁は慕輿根を援軍として派遣し、共に蘇林軍を攻撃させ、これを斬り殺した。同じ時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興も呂護に殺された。呂護は安国王と自称し魯口を守った。
353年3月、常山の李犢が数千の兵を集めると、前燕に反旗を翻して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は李犢の討伐を慕容恪に命じると、慕容恪はすぐさまこれを降伏させ、さらに東へ進んで魯口の呂護討伐に向かった。
354年2月、慕容恪は魯口を包囲した。3月、呂護は野王へと逃走を図ったが、前軍将軍悦綰が追撃してこれを捕らえた。呂護は弟を派遣して前燕に謝罪し、慕容儁はこれを許して河内郡太守に任じ、野王の統治を認めた。
広固攻略
[編集]段部の首領である段龕は冉閔の乱が起こった際、混乱に乗じて令支から兵を率いて南下を開始し、東の広固に拠点を構え、勢力を大きく広げていた。段龕は自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れて鎮北将軍に任じられていた。
354年10月、段龕は慕容儁に書簡を送り、皇帝に即位したことを強く非難した。11月、激怒した慕容儁は慕容恪に段龕討伐を命じ、陽騖・慕容塵を随行させた。356年1月、慕容恪が広固に逼迫すると、段龕は兵三万を率いて淄水で迎え撃ったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、兵のほとんどを捕虜とした。そのまま軍を進め、広固を包囲した。2月、慕容恪は長期戦の構えを取ると共に、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を任せ、陽都を鎮守させた。8月、段龕は東晋に救援を要請し、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で進軍を止めた。この時、王騰が鄄城に進攻していたが、荀羨はその隙を突いて陽都を攻め、長雨に乗じてこれを攻略し、王騰の首級を挙げた。慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出たが、慕容恪は囲里においてこれを破った。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配しており、散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。これにより城中の士気は激減した。11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭した。慕容儁は段龕を許して伏順将軍に任じ、斉の地に住まう鮮卑や羯族三千戸余りを薊に移住させた。荀羨は段龕の敗北を知ると下邳に撤退したが、汴城を守備していた前燕の将軍慕容蘭は荀羨を攻め、これを討ち取った。
後趙残党の掃討
[編集]357年5月、撫軍将軍慕容垂・中軍将軍慕輿虔・護軍将軍平熙に歩兵騎兵合わせて8万を与え、塞北に拠っている丁零討伐に向かわせた。慕容垂らはこれを大破し、討ち取るか捕らえた者は10万余りを数え、13万匹の馬を鹵獲し、牛羊は億万を数えた。
後趙の配下であった李歴・張平・高昌・馮鴦らは各々前燕に帰順していたが、同時に前秦・東晋にも称藩して爵位を授かっており、事実上自立していた。特に張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡を領有し、城砦は300を超え、10万戸余りを従えて前秦・前燕に匹敵する第3勢力となっていた。
358年2月、上党の馮鴦が前燕に反旗を翻すと、司徒慕容評に討伐を命じたが、慕容評はなかなか攻め下せずにいた。3月、慕容儁は領軍将軍慕輿根に慕容評の加勢を命じた。慕輿根が慕容評と共に急攻を決行すると、馮鴦はその配下との間に互いに疑いを生じ、上党を放棄して野王の呂護を頼り、その兵は皆降伏した。
9月、慕容儁は慕容評に并州の張平討伐を、司空陽騖に東燕の高昌討伐を、楽安王慕容臧に濮の李歴の討伐をそれぞれ命じた。陽騖は黎陽において高昌の別軍を攻めたが、攻略出来なかった。慕容臧は李歴を撃破し、李歴は滎陽に逃走してその配下はみな降伏した。慕容評が并州に進むと、100を超える城砦が降伏した。また、張平配下の征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らは138の城砦を明け渡して慕容儁に帰順した。慕容儁は大いに喜び、みな元の官爵のまま職務に当たらせた。また、尚書右僕射悦綰を安西将軍・領護匈奴中郎将・并州刺史に任じ、降伏した城砦の慰撫に当たらせた。張平は三千の兵を率いて平陽へ逃走した。
359年7月、高昌は遂に前燕の攻勢に抗しきれなくなり、城を棄てて白馬から滎陽へ逃走した。
361年9月、并州に割拠する張平が平陽を攻撃すると、前燕の将軍段剛・韓苞が討ち取られた。さらに雁門も攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。その後、張平は前秦から攻撃を受けると、前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容暐は張平が離反を繰り返していたので、救援を送らなかった。遂に、張平は敗れて殺された。
東晋との戦い
[編集]358年10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。慕容儁は慕容恪に迎撃を命じ、陽騖と慕容臧も従軍させた。慕容恪は諸葛攸を敗走させると、そのまま軍を進めて河南を攻略し、守宰を置いて帰還した。
359年、東晋の徐兗二州刺史荀羨が山茌を攻撃すると、泰山郡太守賈堅は奮戦するも生け捕りとなり、やがて憤死した。青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援に派遣し、荀羨を大敗させて山茌を奪還した。
8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の小島に駐屯した。慕容儁は傅顔と慕容評に5万の歩兵・騎兵を与えて迎撃を命じ、傅顔らは東阿において諸葛攸を大敗させた。
10月、東晋は下蔡にいる将軍謝万と高平にいる郗曇に前燕討伐を命じた。だが、郗曇は病を理由に彭城へ撤退してしまい、謝万もまた前燕軍の盛いを恐れ、守備を放棄して帰還してしまった。これにより許昌・潁川・譙・沛の諸城は尽く前燕が領有するようになった。
前秦・東晋征伐を目論む
[編集]357年2月、前年度に皇太子の慕容曄が早世した事に伴い、嫡次男の慕容暐を皇太子に立て、境内に恩赦を下し、光寿元年と改元した。
12月、鄴へ遷都を行い、境内に大赦を下した。また、宮殿を修繕し、銅雀台を修復させた。
358年12月、慕容儁は前秦・東晋の併呑を目論むようになり、歩兵を150万まで増員して来春には鄴に集結させようとした。だが、百姓の負担になるとして武邑出身の劉貴が固く諫めると、慕容儁は戦の準備期間を1年伸ばし、翌年の冬に鄴に集結させるようにした。
慕容儁は顕賢里に小学を建て、王侯貴族の子らに学問を学ばせた。そして、問老年で病気に苦しんでいる者や、身寄りが無く生活の苦しい者を調査させ、穀帛を下賜した。
この時期、各地で盗賊が蜂起し、連日に渡って朝夕問わずに断続的に攻勢に晒された。慕容儁は賦税を緩和し、特別に禁令を設け、賊の情報を密告した者には奉車都尉を下賜すると発布した。これにより賊の首領である木谷和ら百人余りを捕らえる事に成功し、その首を刎ねた。
360年1月、前年より徴兵していた郡国の兵は予定通り鄴都に集結すると、慕容儁は大々的に閲兵を行い、大司馬慕容恪・司空陽騖に命じて征伐を敢行させようとした。だが、慕容儁は昨年より病に罹っており、ここにきて病状が悪化してしまい、取りやめとなった。死期を悟った慕容儁は、慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らに輔政を委ねる遺詔を遺すと、やがて崩御した。嫡男の慕容暐が皇位を継承した。
慕輿根の乱
[編集]数日後、慕容暐は帝位に即くと、境内に大赦を下し、建熙と改元した。
2月、実母の可足渾氏を皇太后に立てた。また、慕容恪を太宰・録尚書事に任じて朝政を主管させ、慕容評を太傅に、陽騖を太保に、慕輿根を太師に任じて朝政を輔佐させた。可足渾氏もまた政治に参画した。
慕輿根は密かに政権掌握を目論んでおり、まずは国を乱そうと考えて慕容恪へ向け、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位に即くよう勧めたが、慕容恪は容れなかった。そのため、今度は慕容恪と慕容評の誅殺を考え、武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略を練り、慕容暐と可足渾氏へ、慕容恪らが謀反を企てていると言上した。可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容暐は慕輿根の発言を疑ったので取りやめとなった。慕容恪と慕容評は密かに慕輿根の罪を奏上すると、侍中皇甫真・護軍傅顔に命じて慕輿根とその妻子・郎党を捕らえさせ、禁中で処断した。その後、大赦を下した。
野王攻略
[編集]361年2月、野王に割拠している河内郡太守呂護は密かに東晋へ帰順して前将軍・冀州刺史に任じられ、東晋軍を招き入れて鄴の強襲を目論んだ。3月、このことが露見すると、慕容暐は慕容恪に5万の兵を与えて呂護討伐を命じ、皇甫真・傅顔も従軍させた。慕容恪は野王に到着すると、城を包囲して長期戦の構えを取った。
8月、数か月にわたる包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を掛けるも突破できず、慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛け、呂護を滎陽へ逃走させた。呂護の兵を鄴へ連行し、参軍梁琛を中書著作郎に抜擢した。
10月、呂護は再び前燕に帰順した。慕容暐はこれを認め、広州刺史に任じて以前通りに遇した。
洛陽制圧
[編集]362年1月、慕容暐は当時東晋の占領下にあった洛陽攻略を目論み、傅顔・呂護に兵を与えて河陰へ派遣した。傅顔らは勅勒を襲撃して大戦果を挙げた。2月、呂護は洛陽攻撃を開始した。3月、河南郡太守戴施は大いに恐れて宛へ逃走し、冠軍将軍陳祐は朝廷へ救援を要請した。5月、東晋の大司馬桓温は北中郎将庾希と竟陵郡太守鄧遐に3千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。
7月、救援軍の到来により、呂護は小平津まで軍を退いたが、流れ矢に当たって戦死した。
363年4月、慕容暐は寧東将軍慕容忠に滎陽攻略を命じ、慕容忠は滎陽郡太守劉遠を魯陽へ逃走させた。5月、前燕軍が密城を攻略すると、劉遠はさらに江陵まで逃れた。
364年2月、慕容評と龍驤将軍李洪を河南へ侵攻させた。4月、李洪らは許昌・汝南を攻めて東晋軍を幾度も破り、潁川郡太守李福を戦死させた。朱斌は寿春へ逃走し、陳郡太守朱輔は彭城まで退却した。桓温は袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とし、さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。
9月、洛陽の兵糧が尽きて援護も断たれると、陳祐は500人だけを冠軍長史沈勁に預けて洛陽を守らせ、逃走してしまった。これにより河南の諸々の砦は、全て前燕に降った。
365年2月、慕容恪は慕容垂と共に洛陽を攻撃した。3月、慕容恪は洛陽を陥落させ、沈勁の首級を挙げた。慕容恪は余勢を駆って西進して崤澠まで軍を進めると、前秦は大いに震え上がった。前秦君主苻堅は自ら陝城へ出向き、その侵攻に備えた。慕容暐は左中郎将慕容筑を仮節・征虜将軍・洛州刺史に任じて、洛陽を守らせた。また、慕容垂を都督荊揚洛徐豫雍益梁秦等十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じ、兵1万を与えて魯陽を鎮守させた。
366年10月、撫軍将軍慕容厲に東晋の泰山郡太守諸葛攸を攻撃させた。慕容厲は諸葛攸を淮南へ退却させ、兗州の諸郡を陥落させると、守宰を置いて帰還した。12月、東晋の南陽督護趙億が宛ごと前燕へ帰順し、太守桓澹は新野へ逃走した。これを受けて慕容暐は、南中郎将趙盤を魯陽から宛に移らせ、守備を命じた。367年2月、慕容厲は鎮北将軍慕容桓と共に漢南の勅勒を撃った。4月、慕容塵は竟陵へ侵攻したが、東晋の竟陵郡太守羅崇に撃ち破られた。東晋の右将軍桓豁は竟陵郡太守羅崇と共に宛に侵攻し、これを陥落させた。趙億は逃亡し、趙盤は魯陽へと退却した。桓豁は軽騎兵で趙盤を追撃させ、雉城で趙盤軍は追いつかれて潰滅させられた。趙盤は捕縛され、桓豁は宛に守備を配置してから帰還した。
衰退期
[編集]慕容評の執政
[編集]367年5月、慕容恪は病により亡くなった。これ以降、慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。慕容恪は賢人でよく慕容暐を補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大させて全盛期を築き上げたが、彼の死により前燕は急速に弱体化の一途をたどる事となる。
7月、慕容厲らは勅勒を撃ち破り、牛馬数万頭を鹵獲した。だが、慕容厲は勅勒を討つために代国の国境を通った際、農地を荒らしたので、拓跋什翼犍の怒りを買ってしまった。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた平北将軍慕輿泥を攻撃した。慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍慕輿賀辛は戦死した。
368年、前年より前秦の晋公苻柳が蒲坂で、趙公苻双が上邽で、魏公苻廋が陝城で、燕公苻武が安定で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こしており、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前秦は前燕の襲来を大いに警戒し、華陰に精兵を配した。前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして慕容暐へ出兵を請うたが、慕容評の猛反対に遭い果たせなかった。結局、反乱は王猛・鄧羌・張蚝・楊安・王鑒によって同年のうちに鎮圧された。
9月、太傅慕容評の執政以降、王侯貴族らが密かに多くの戸籍を隠し持つようになっていたので、慕容暐は僕射悦綰へこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、公民を20万戸増員することが出来たが、慕容評を始めとした朝士はこれに大いに憤り、11月に慕容評の派遣した賊によって悦綰は暗殺された。
桓温の北伐
[編集]369年4月、東晋の大司馬桓温が江州刺史・南中郎桓沖、豫州刺史・西中郎袁真らを従え、5万を率いて前燕へ侵攻した。
6月、桓温は建威将軍檀玄に湖陸を攻撃させ、これを陥落させて寧東将軍慕容忠を捕らえた。慕容暐は慕容厲に2万の兵を与えて迎撃させたが、慕容厲は黄墟で大敗を喫し、前燕の高平郡太守徐翻は郡ごと桓温に降伏した。さらに、桓温は鄧遐と朱序を林渚に派遣して前燕の将軍傅顔を破った。慕容暐はさらに楽安王慕容臧に迎撃させたが、桓温はこれも返り討ちにした。
7月、桓温は武陽に駐屯すると、前燕の元兗州刺史孫元が一族郎党を率いて桓温に呼応した。桓温はさらに枋頭まで進むと、慕容暐は慕容臧に代わって呉王慕容垂を総大将とし、征南将軍慕容徳・司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰を配下に付け、5万の兵を与えて桓温を防がせた。また、前秦へ虎牢以西の地を割譲する事を条件に、改めて援軍を要請した。8月、前秦は要請に応じ、将軍苟池・洛州刺史鄧羌へ2万の兵を与えて、洛陽から潁川へ派遣した。
悉羅騰は桓温配下の段思を攻撃して捕らえ、さらに虎賁中郎将染干津を派遣して、魏・趙方面へ侵攻していた李述を撃破して桓温の士気を削いだ。桓温は石門を開いて水運を通すため、袁真を譙梁攻略に向かわせたが、袁真はこれに失敗したので、次第に東晋軍の兵糧が底を突き始めた。
9月、慕容徳は蘭台治書侍御史劉当と共に1万5千の兵で石門に駐屯し、豫州刺史李邽は五千の兵で桓温の糧道を断った。また、慕容徳軍の先鋒慕容宙は東晋軍を誘き入れて伏兵を用いて大いに破った。
兵糧が不足しているのに加え、前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、桓温は舟を焼き払い、輜重や武具を放棄して陸路で退却を始めた。慕容垂は桓温軍に追撃を掛け、慕容徳と共に襄邑で挟撃して3万を討ち取った。前秦の将軍苟池も焦において桓温軍を攻撃し、桓温軍は1万の被害を受けた。こうして桓温の撃退に成功した。これ以降、前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が往来するようになった。
腐敗政治の展開
[編集]桓温を撃退した事により、慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は彼を忌避するようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っており、今回の戦功を不当に引き下げた。さらには慕容評と共に慕容垂誅殺を謀るようになった。その為、11月に慕容垂は難を避けて前秦に亡命した。
同月、前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還すると、梁琛は慕容暐と慕容評へ、洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様に上疎したが、慕容評は一切取り合わず、軍備を増強しなかった。
当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行うよう慕容暐へ上疏したが、聞き入れられなかった。
滅亡期
[編集]洛陽失陥
[編集]慕容暐は以前、虎牢以西の地を前秦へ割譲する約束をしたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しんで約束を反故にした。苻堅はこれに激怒し、輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、前燕へ侵攻させた。12月、前秦軍は洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。
370年1月、慕容暐は衛大将軍慕容臧に精鋭10万を与えて洛陽救援に向かわせたが、慕容筑は戦意喪失して洛陽を明け渡してしまった。慕容臧は石門において前秦軍を撃破して将軍楊猛を捕らえたが、王猛配下の梁成らの奇襲に遭い、滎陽において大敗を喫した。
慕容令の乱
[編集]慕容垂の子の慕容令は父と共に前秦に亡命していたが、単独で逃げ戻って来た。だが、慕容垂は未だに前秦で厚遇されていたので、慕容暐は彼を疑い、龍城の東北六百里にある沙城へ移させた。370年5月、誅殺を恐れた慕容令は数千の兵を擁して決起して牙門孟媯を殺害すると、城大の渉圭は大いに恐れて降伏し、慕容令はこれを側近とした。反乱軍はそのまま東方にある威徳城を襲撃し、城郎の慕容倉を殺害すると、威徳城を拠点とした。また、東西の諸砦へ檄文を発すると、大半がこれに呼応した。勢力を増大させた慕容令らは次いで龍城を襲撃すると、龍城の守将である勃海王慕容亮は城門を閉じて籠城した。ここで渉圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃したので、慕容令は単騎で逃げ、その配下は壊滅した。渉圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺した。
前秦に敗北
[編集]苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。
8月、王猛襲来の報が鄴に届くと、慕容暐は太傅慕容評に40万を超える兵を与えて救援を命じたが、慕容評は王猛を恐れ、潞川に軍を留めてそれ以上進まなかった。同月、王猛は壷関を陥落させ、前燕の上党郡太守慕容越を生け捕った。これにより、王猛軍が進んだ先の郡県は全て降伏し、前燕の民は震え上がった。9月、王猛は晋陽に進むと、張蚝に命じて地下道を掘らせて城内へ進入させ、城門を内から開いた。これを合図に王猛は楊安と共に城内に突入し、并州刺史慕容荘は捕えられた。10月、王猛は潞川に進軍して慕容評と対峙した。慕容評はこのような状況下でも山水資源を軍人へ売って銭を稼ぐ有様であり、王猛は游撃将軍郭慶に夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。さらに、王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗を喫して5万を超える将兵を1日で失った。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて王猛と合流し、鄴の攻撃を開始した。前燕の散騎侍郎余蔚は反旗を翻して夫余・高句麗及び上党の民五百人余りを率い、鄴の北門を開けて前秦兵を招き入れた。これを聞いた慕容暐は急ぎ城を飛び出し、慕容評・慕容臧・慕容淵・左衛将軍孟高・殿中将軍艾朗らもまた城から逃亡して龍城へ向かった。苻堅は郭慶に追撃を命じ、郭慶は高陽で慕容暐を捕らえ、苻堅の下へと護送した。
郭慶は残党の追撃を続けて龍城まで進み、慕容評を捕らえて慕容桓を討ち取った。これにより、諸州の牧・太守・六夷の軍などは尽く前秦へ降伏した。占領した領土は157郡、246万戸、999万人に及んだ。前燕の宮人や珍宝は褒賞として、前秦の将士に分け与えられた。
12月、慕容暐は前燕の后妃・王公・百官らと共に長安へ連行され、新興侯に封じられた。
その後、慕容暐は前秦に仕え、襄陽や寿春の攻略戦にも従軍したが、苻堅の暗殺を謀った事により、宗族と共に殺害された。間もなく、叔父の慕容垂は後燕を、弟の慕容泓・慕容沖は西燕を建国する事となる。
国家体制と国勢
[編集]前燕は、華北の争乱により発生した漢人の流民や在地の漢人を積極的に受け入れることで官僚機構を構築、さらに中原の進んだ農耕技術や文化を導入して独自の政権を形成した[7]。慕容儁が帝位に即いて以降は、太尉・大司馬・司徒・司空の四公を頂点とする中央の支配機構が構築され、以後名実共に中国王朝化していった。
人口に関しては次の統計がある。中華統一を目指した慕容儁は歩兵150万人の徴兵を図っている(ただし、慕容儁の急死で頓挫)[8]。また前秦が前燕を滅ぼした際に入手した前燕の戸籍によると、370年の前燕の人口は998万7935だったと記録されている[9]、これらの統計から、仮に王朝末期の争乱で多大の戦災者が出ていたとしても、前燕の全盛期における人口は1000万を猶に超えたであろうことは想像に難くない。
前燕の歴代君主
[編集]代 | 姓・諱 | 廟号 | 諡号 | 在位 | 続柄 | 陵墓 |
---|---|---|---|---|---|---|
慕容廆 | 高祖[10] | 襄公[11] 武宣王[12] 武宣皇帝[10] |
在位:285年 - 333年
|
慕容渉帰の子 | 埋葬地:青山[13] | |
1 | 慕容皝 | 太祖[10] | 文明皇帝[10] | 在位:333年 - 348年
|
慕容廆の
三男 |
埋葬地:龍山[14]
墓号:龍平陵 |
2 | 慕容儁 | 烈祖[15] | 景昭皇帝[15] | 在位:348年 - 360年
|
慕容皝の
次男 |
埋葬地:龍山
墓号:龍陵 |
3 | 慕容暐 | - | 幽皇帝[16] | 在位:360年 - 370年
|
慕容儁の
三男 |
系譜
[編集]慕容廆 | |||||||||||||||||||||||||
1 慕容皝 | |||||||||||||||||||||||||
2 慕容儁 | 慕容垂 →後燕 | 慕容徳 →南燕 | |||||||||||||||||||||||
3 慕容暐 | 慕容泓 →西燕 | 慕容沖 →西燕 | |||||||||||||||||||||||
元号
[編集]元々は東晋の元号を使用していたが、慕容皝は345年に元号を廃止し、この年を燕王12年(燕王慕容皝の治世になってから12年目という意味である。燕王というのは元号では無い)と称した。349年(燕王16年)、後を継いだ慕容儁は同年をもって燕王元年(燕王慕容儁の治世1年目)と改めた。そして352年に帝位に即くと、初めて元璽という独自の元号を用いるようになった。
建国年について
[編集]何をもって前燕の成立とするかについては古来より様々な説が提唱されているが、未だ定説を得るに至っていない。以下主要な説を列挙する。
- 慕容廆が慕容部の大人となった285年。崔鴻が著した『十六国春秋』はこの説を採る。
- 慕容廆がその地位を東晋より追認され、自ら官僚を配置するようになった317年から318年頃。 『論前燕的法制』ではこの説を主張する。
- 慕容皝が東晋の年号を奉じるのを止め、燕王12年(慕容皝が位を継いだ333年を起点として12年目という意味)と称した345年。これを東晋との従属関係から距離を置いたと考え、成立年とする向きもある。
主要な官僚
[編集]謀主股肱制(313年4月~318年3月)
[編集]313年4月、慕容廆は旧来の部族体制からの脱却を図り、中原の戦乱から逃れてきていた漢人士民の中から俊才な者を抜擢し、『謀主』・『股肱』・『枢要』といった私設官を設置して原初的な官僚機構を構築した[17]。この時代は謀主の裴嶷が事実上の宰相として外交・内政の一切を主管していたという。
第一次属僚制(318年3月~337年9月)
[編集]東晋が成立した317年3月、慕容廆は正式にその傘下に入り、都督遼左雑夷流人諸軍事[18]・龍驤将軍に任じられた。この時、東晋の地方政府としての地位を根拠に開府を行い、領内に『長史』・『主簿』といった役職を設置した。さらに321年12月には、東晋朝廷より車騎将軍・平州牧・都督幽平二州東夷諸軍事・遼東公の官爵を下賜され、正式に官僚を置く事を認められると、改めて『長史』・『司馬』・『別駕』・『軍諮祭酒』・『主簿』・『参軍事』など、州政府を補佐する属僚を多数設置した。その中でも長史は宰相的な位置として特に信任されている者が就き、慕容廆政権の大半は裴嶷が引き続き政権を主管した。
- 司馬
六卿制(337年9月~338年5月)
[編集]337年9月、慕容皝が燕王への即位を決断すると、それに先立ってまず官僚の整備を行った。まず政権の中枢を担う六卿(国相・司馬・太常・司隷校尉・太僕・大理)の上級官吏が置かれ、他にも納言令[31]・常伯[32]・冗騎常侍[33]などの役職が置かれた。ただ、東晋との従属関係は解消されたわけでは無く、さらにこの時期は後趙へ対しても臣従していた。338年5月に後趙との関係が悪化して大規模な軍事侵攻を受けると、慕容皝は国内に戒厳令を布き、燕王即位時に設置した官職を全て廃止して元の属僚制に戻した為、この制度はごく短期間しか運用されなかった[34]。
- 封奕(337年9月 - 338年5月)
- 司馬
- 韓寿(337年9月 - 338年5月)
- 奉常
- 裴開(337年9月 - 338年5月)
- 司隷校尉
- 陽騖(337年9月 - 338年5月)
- 太僕
- 王寓(337年9月 - 338年5月)
- 大理
- 李洪(337年9月 - 338年5月)
- 納言令
- 杜群(337年9月 - 338年5月)
第ニ次属僚制(338年5月~352年11月)
[編集]長史
[編集]- 劉翔(339年10月以前 - 341年7月以降) ※正式には大将軍長史。当時慕容皝は大将軍の地位にあった。
- 王寓(343年11月以前 - ?)
- 韓寿(343年11月以前 - ?) ※正式には左長史。
- 宋該(? - 345年7月頃) ※正式には右長史。
- 申鍾(352年8月 - ?) ※正式には大将軍右長史。
- 陽騖(348年1月 - 352年11月) ※正式には左長史。
司馬
[編集]- 韓寿(337年9月 - 343年11月以前)
- 悦綰(? - 339年9月以前)
- 鞠運(339年10月以前 - ?)
- 陽裕(341年7月 - 344年1月以前) ※正式には大将軍左司馬。
- 李洪(341年7月 - ?) ※正式には右司馬。
- 高詡(344年1月以前 - 344年1月) ※正式には左司馬。
- 劉準(351年4月 - ?) ※正式には左司馬。
- 皇甫真(352年5月以前 - 352年11月) ※正式には右司馬。
軍諮祭酒
[編集]- 鄭林(341年7月 - ?)
参軍事
[編集]- 鞠運(339年10月以前 - ?)
建国後(皇帝の時代)
[編集]慕容儁が即位した352年11月には初めて百官が設置され、朝廷としての形式が整備された。基本的には晋代以前より続く漢人の官僚制度を踏襲しており、まず太尉・侍中・尚書令・尚書右僕射・尚書左僕射・中書監・中書令などの役職が置かれ、354年4月には司徒・司空・大司馬・大都督・録尚書事・録留台尚書事の役職が新たに置かれた。太尉・司徒・司空・大司馬の四公は群臣の筆頭として朝政を統括し、その中でも太尉は他の三公よりも先に設置され、任官された人物の変遷を見ても最高位の官職であると思われる(まず国相であった封奕が任じられ、封奕の死後は司空陽騖が務め、陽騖の死後は司空皇甫真が務めている。また、陽騖は司空から太尉に転任する際、自らには荷が重いとして辞退しようとしている)。また、各役職の権限範囲については判然としていないが、大司馬は六軍(皇帝の統領する軍)を総統する軍部の最高司令官の地位にある[35]。
慕容暐の時代に移ってもその官僚制度はそのまま引き継がれ、主要な官僚については役職も継続とされた。まだ幼かった慕容暐の補佐役として、360年2月には太宰・太師・太傅・太保の役職が新たに置かれた。ただ、太師については慕輿根が任官後間もなく謀反の罪で誅殺され、以降は設置されなかった。太宰・太傅・太保については、いずれも四公である大司馬慕容恪・司徒慕容評・司空陽騖が終始兼務し、中でも太宰慕容恪が朝臣の筆頭として政務を総攬する立場となっているので、太宰が最も高位であると思われる。
太尉
[編集]- 封奕(352年11月 - 365年4月) ※中書監と兼務した。
- 陽騖(365年4月 - 367年12月) ※侍中と兼務した。
- 皇甫真(367年12月 - 370年11月) ※侍中と兼務した。
司徒
[編集]- 慕容評(354年4月 - 370年11月) ※360年2月以降は太傅と兼務した。
司空
[編集]- 陽騖(354年4月 - 365年4月) ※尚書令と兼務した。360年2月以降は太保と兼務した。
- 皇甫真(365年4月 - 367年12月) ※中書監と兼務した。
- 李洪(367年12月 - 370年11月)
大司馬
[編集]録尚書事
[編集]- 慕容恪(354年4月 - 367年5月) ※侍中・大司馬・大都督と兼務した。360年2月以降は太宰と兼務した。
尚書令
[編集]- 陽騖(352年11月 - ?) ※司空と兼務した。
- 可足渾翼(369年4月以前 - 370年11月)
中書監
[編集]- 封奕(352年11月 - 365年4月) ※太尉と兼務した。
- 皇甫真(365年4月 - 367年12月) ※司空と兼務した。
大都督
[編集]- 慕容恪(354年4月 - 367年5月)
- 慕容厲(369年6月 - ?) ※正式には征討大都督。東晋の侵攻に際して臨時的に任じられた。
- 慕容垂(369年7月 - ?) ※正式には南討大都督。東晋の侵攻に際して臨時的に任じられた。
侍中
[編集]- 皇甫真(360年2月 - ?、? - 365年4月、367年12月 - 370年11月) ※一度目の任官時は秘書監と兼務した。二度目の任官時は光禄大夫と兼務した。三度目の任官時は太尉と兼務した。
- 慕容恪(354年4月 - 367年5月)
- 慕容垂(354年4月 - ?、368年2月 - ?) ※一度目の任官時は録留台事と兼務した。
- 慕輿龍(364年8月以前 - ?)
- 蘭伊(370年10月以前 - ?)
太宰
[編集]- 慕容恪(360年2月 - 367年5月) ※大司馬と兼務した。
太師
[編集]- 慕輿根(360年2月 - 360年2月) ※同月の内に誅殺された。
太傅
[編集]- 慕容評(360年2月 - 370年11月) ※司徒と兼務した。
太保
[編集]- 陽騖(360年2月 - 367年12月) ※司空と兼務した。
脚注
[編集]- ^ 『資治通鑑』による。『晋書』・『十六国春秋』・『魏書』では単于とする
- ^ 『資治通鑑』では285年の出来事とするが、『十六国春秋』では284年の出来事とする
- ^ 『資治通鑑』では鮮卑大都督とするが、『晋書』では鮮卑都督とする
- ^ 『資治通鑑』・『十六国春秋』では宇文素怒延とも
- ^ 『十六国春秋』では1千戸、『晋書』では2千戸とある
- ^ 『十六国春秋』によるが、これ以前にいつ侍中に任じられたのかは不明
- ^ 三崎 2002, p. 72.
- ^ 三崎 2002, p. 75.
- ^ 三崎 2002, p. 76.
- ^ a b c d 慕容儁が皇帝即位時に追諡
- ^ 東晋からの諡号
- ^ 慕容皝が燕王即位時に追諡
- ^ 現在の遼寧省錦州市義県の東。
- ^ 鳳凰山の古称。現在の遼寧省朝陽市双塔区。
- ^ a b 慕容暐からの諡号
- ^ 慕容徳が南燕建国時に追諡
- ^ 一般的には『謀主』とは謀略を巡らして国家の方策を立てる人物、『股肱』とは主君の傍近くに仕えて補佐を行う人物、『枢要』とは政府の国家機密を取り扱う人物を指すが、各役職の具体的な所掌範囲は判然としない。
- ^ 「遼左」とは遼東を指し、「雑夷」とは諸々の異民族を指し、「流人」とは難民を指す。
- ^ 321年12月までは龍驤長史という役職で記載されているが、当時慕容廆は龍驤将軍の地位にありその長史という意味なので、扱いとしては同じと思われる。
- ^ 正式には左長史。左長史は右長史より高位である
- ^ 正式には右長史
- ^ 正式には左長史
- ^ 正式には鎮軍左長史という役職で記載されているが、当時慕容廆は鎮軍大将軍の地位にありその左長史という意味なので、扱いとしては同じと思われる。
- ^ 「魏書」による
- ^ 「十六国春秋」封奕伝による
- ^ 335年1月以降は右司馬
- ^ 335年1月以降は左司馬
- ^ 337年5月以降は左司馬
- ^ 正式には龍驤主簿という役職で記載されているが、当時慕容廆は龍驤将軍の地位にありその主簿という意味なので、扱いとしては同じと思われる。
- ^ 正式には平州別駕という役職で記載されているが、当時慕容皝は行平州刺史の地位にありその別駕という意味なので、扱いとしては同じと思われる。
- ^ 「資治通鑑」胡三省注によると、晋でいうところの尚書令だとする
- ^ 「資治通鑑」胡三省注によると、晋でいうところの侍中だとする
- ^ 「資治通鑑」胡三省注によると、晋でいうところの散騎常侍だとする
- ^ 廃した理由は、後趙からの圧力を逸らす為であると考えられる(独立国ではなく、あくまで後趙に臣従する藩国であるという姿勢を後趙へ示すため)。
- ^ 『資治通鑑』巻101による
参考文献
[編集]- 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年2月。
- 山本英史『中国の歴史』河出書房新社、2010年10月。
- 『魏書』(列伝第八十三 徒何慕容廆)
- 『晋書』(載記第八 慕容廆、載記第九 慕容皝、載記第十 慕容儁、載記第十一 慕容暐)
- 『資治通鑑』(巻八十一 - 巻百五)
- 『十六国春秋』(前燕録)
関連項目
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